歴史note – ページ 49 – 歴史の学びメモ

「軍師官兵衛」Disc2-第8回「秀吉という男」メモ

「軍師官兵衛」第8回「秀吉という男」メモ

1575年 天正3年7月

官兵衛は岐阜城で信長に拝謁する。

織田家の双璧。
瓶割り柴田。
丹羽長秀。
滝川一益、佐久間信盛。
姫路の兵は500。

山陽道は平たん。山陰道。
秀吉。瀬田の唐橋を見ていて遅れて到着。
官兵衛は信長に刀「へし切長谷部」をもらう。

門地門閥(もんちもんばつ)・・家柄。家の格式。

勝家は北国。明智光秀は丹波。


長浜城主 秀吉

北近江・長浜城下も楽市楽座。

「命の使い道」

石田三成

無調法・不調法(ぶちょうほう)・・行き届いた態度でないこと。へた。

秀吉が官兵衛の家臣、太兵衛たちを一千石などでスカウト。

善助「黒田の家を離れることだけはできかねまする。」

九郎右衛門「たとえ百万石積まれようとも我らの忠義はびくとも致しません。離れるときは死ぬときにございます。」

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秀吉と官兵衛 サシ飲み 苦い

尾張・中村の生まれ。

「味方の兵を減らすことなく勝利する」という考えが重要。
「人こそ宝」「戦わずして勝つ」ということで2人の考えは一致する。

 

 

 

「軍師官兵衛」Disc2-第7回「決断のとき」メモ

「軍師官兵衛」第7回「決断のとき」メモ

1573年
武田信玄 死去

姫路城・黒田家に毛利家の外交、安国寺・恵瓊(えけい)が来る。

官兵衛の弟 黒田兵庫助利高(くろだひょうごのすけとしたか)

毛利10か国。領国を守る。


1573年 天正元年 9月

浅井、朝倉滅亡

浅井領の北近江・小谷城を秀吉に。大名になる。⇒長浜城

木下藤吉郎⇒羽柴筑前守秀吉
長秀
田勝家


又兵衛(後藤又兵衛)

上月城 上月影貞は毛利に付く

織田か毛利か決断するのが当主の努め


織田家
長島 一向一揆
業が深い。因果応報。

備前・宇喜田尚家 は毛利についた。播磨の地侍は、ほぼ毛利に。


1575年 天正3年5月
長篠の戦い
織田・徳川連合軍が武田勝頼を破る。
3千丁の鉄砲。


誼を通じる (よしみをつうじる)親しいつながりをもつ。

御着での大評定。

父「官兵衛、失うことを恐れるな。お前が考えお前が決めるのだ。すべては生き残るため。」

織田は大儀を持って兵を進めているからこそ勢いは大河のごとく。。今川、浅井朝倉、武田を破った。

「国を治める者は義立てばすなわち王たり」(荀子・じゅんし)

織田は武勇・智謀(ぶゆうちぼう)ともに兼ね備えている。


摂津 有岡城(伊丹)

官兵衛は荒木村重を通じて信長と会う。

 

「軍師官兵衛」Disc2-第6回「信長の賭け」メモ

「軍師官兵衛」第6回「信長の賭け」メモ

1571年

信長、四面楚歌。包囲網。

近江

比叡山焼き討ち。

「比叡山が滅びるときに国が滅びる」と言われていた。

「仏法廃れば王法廃る」


元亀3年 (1572年)

松寿丸 5才

2人目を求められる官兵衛夫婦。

うなぎ。

しかし官兵衛は側室は持たない。


十七条の意見書。

武田信玄と義昭が手を結ぶ。

武田信玄が上洛する。

 


太兵衛が荒れる。善助と義兄弟に。


信長 岐阜城に戻る。

1573年 徳川家康 三方ヶ原で武田信玄に敗戦。

信長は援軍は出さない。

信長は義昭の方から動き出すのを待っている。

細川藤隆

義昭が兵をあげた。

大津。逢坂の関。
摂津・荒木村重が初めて信長に会う。信長側に付く。
刀に饅頭。信長は村重に摂津を任せた。村重は浪人から国主になった。

2日で将軍を制圧。


御師(おし)
伊吹文四郎

 


官兵衛は姫路から摂津・茨木城に荒木村重に会いに行く。

茶の湯の師匠。千宗易(せんのそうえき)/千利休からもらった高麗茶碗。

志方城 櫛橋左京亮亡くなる。官兵衛は先に帰る。善助と太兵衛は織田軍を見にいく。太兵衛は更にやる気になって滝と戦う。


1573年

槇島城(まきしまじょう)(京都・宇治)で義昭が兵をあげたが、織田軍・秀吉が討って室町幕府滅亡。

年号が天正に改められた。

 


安芸・吉田郡山城

毛利家
毛利輝元(毛利元就の孫)
吉川元春
小早川隆景


<官兵衛紀行>

兵庫県・西脇市

黒田庄町

荘厳時(しょうごんじ)

もうひとつの官兵衛伝説。

官兵衛がこの地で生まれたという伝承がある。

姥が懐(うばがふところ)

兵主(ひょうす)神社

秀吉が三木城攻めのときに腰かけた石。

「太閤腰掛石」

「軍師官兵衛」Disc2-第5回「死闘の果て」メモ

「軍師官兵衛」第 5回「死闘の果て」メモ

1568年 永禄11年9月

信長、上洛。

旗に永楽通宝(えいらくつうほう)

足利義昭を守護するのが大儀名分。

秀吉はまだ歩兵。

京都に入って、わずか一月で町の乱れを正す。

民や農民を安心させるのが先決。


黒田家は倹約する。

金はいざという時に使う。

家臣に服を売る。与えるともらえない者がひがむ。


1568年 永禄11年10月

足利義昭が15代将軍に就任。

信長は副将軍は辞退。
官職も官位もいらない。
堺、大津、草津に代官を置くことを願う。


秀吉が竹中半兵衛をくどく。


官兵衛に赤ちゃん生まれる。

松寿丸(黒田長政)


龍野・赤松政秀が3000で兵をあげたが黒田家が数百で奇襲で勝つ。

家臣に褒美(銭)を渡す。


1569年 永禄12年6月

再度赤松が攻めてくる。

善助は初陣。
井手 友氏、小兵衛、武兵衛。


井上九郎右衛門(くろうえもん)井上 之房(ゆきふさ)

太兵衛(たへえ)

黒田二十四騎


<官兵衛紀行>

播磨の小京都
兵庫県たつの市

鶏籠山(けいろうさん)

龍野古城

秩父山
官兵衛率いる黒田軍が布陣したとされる。

「黒田家譜」(福岡市博物館)

母里小兵衛、武兵衛のことが記されている。

 

「軍師官兵衛」Disc1-第4回「新しき門出」メモ

第4回「新しき門出」

堤を築く。

 

永禄10年(1567年)

室町幕府は衰亡の一途をたどっていた

越前 一乗谷
足利義昭(よしあき)(のちの15代将軍)
13代将軍 義輝(よしてる)の弟

朝倉家に身を寄せている。
細川藤孝。
明智光秀。

小寺家にも黒田家にも義昭から書状が届く。


官兵衛と光(てる)との出会い

山桃を渡し「これで仲直りです。」


雉狩り

 

櫛橋家との縁談。

父・元職は、官兵衛に家督を譲る。

黒田家の生き残る道。


美濃 墨俣城(すのまたじょう)

木下藤吉郎は西美濃(にしみの)三人衆を寝返らせた。

藤吉郎の弟 小一郎(秀長)

 

永禄10年8月 信長は美濃を攻略
稲葉山城を落とした。

「岐阜」と名付ける。

「天下布武」

新しき秩序、新しき世、乱世は終わりだ!

滝川一益(たきがわ かずます)
丹羽長秀(にわながひで)
佐久間信盛(さくまのぶもり)

柴田勝家
明智光秀


信長は岐阜で楽市を始める。

岐阜城下では税をかけない。

商人が集い活気に満ち溢れている。

豊かになり、国が大きくなる。


家督を譲る件

官兵衛「私にはまだ早いかと・・。」

父「皆が口をそろえて言うのじゃ。黒田は立派な跡継ぎを持っているとな。。わしもそう思う。。」

父「頼んだぞ」

官兵衛「はい。。」

父「うん。。うん。。」


永禄11年(1568年)7月

足利義昭は信長の招きを受け、越前から岐阜に移った。

信長は義昭に上洛する(京都をめざす)ことを宣言。

 

永禄11年(1568年)9月
信長は上洛の兵をあげた。


<官兵衛紀行>

兵庫県加古川市

志方町

官兵衛の妻、光(てる)の出身。

志方城主・串橋左京之介の娘。

観音寺(志方城跡)

才知と人徳を兼ね備えて信仰心の厚い人物だと伝わる。

十一面観世音菩薩像

櫛橋家の念持仏

志方八幡宮

義父の櫛橋伊定(くしはしこれさだ)は櫛橋家に代々伝わる兜と具足を官兵衛に送った。

「合子形兜(ごうすなりかぶと)」

後に「如水(じょすい)の赤合子(あかごうす)」(如水は官兵衛の号)として畏れられた。