歴史note – 歴史の学びメモ

2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』(22)「播磨大誤算」(2026/6/7放送)

260611
『豊臣兄弟!』(22)「播磨大誤算」(2026/6/7放送)メモ

【あらすじ】
一度は播磨を手中に収めたかに見えた秀吉(池松壮亮)だったが、半兵衛(菅田将暉)の悪い予感が的中。服属したはずの国衆たちが反旗を翻し、呼応して毛利・宇喜多も挙兵する。しかも折悪く半兵衛の体調が悪化し、秀吉は味方を見捨てて撤退することに。自責の念にさいなまれる秀吉は、ある夜、足を踏み外して頭を打ち、なんと記憶をなくしてしまった! 小一郎(仲野太賀)は、秀吉の記憶を取り戻そうと手を尽くすが……。(NHK公式サイト)


・天正5年10月
秀吉・播磨出兵
国衆を次々と味方につけていた。
東播磨最大が別所氏。三木城。

・天正5年12月
尼子勝久、家臣・山中幸盛(鹿之助)。
毛利に滅ぼされるも再興をかける。上月城。

・三木城・別所長治が謀反。
織田側の加古川城を攻める。
高砂、志方(しかた)、神吉(かんき)、明石も味方。

・毛利・宇喜多が西播磨・上月城を攻める。
尼子軍
♪人の世は夢のまた夢 これ一定 楽しきも醒めやることも これ一定
(人の世は夢のようなもの。これが真実なのだ。楽しいことも、いつかその夢から醒めることも、またしかり・・。)

・囲碁で勝った半兵衛が、官兵衛に(真の)味方になってほしいと頼む。
「わしがそなたなら・・いったん織田について毛利を弱らせ、期を見て織田も滅ぼして、自分がのし上がる。それが一番面白い」と、官兵衛の本音を見抜く。

 

・上月城に織田の援軍は来ず。尼子は切腹。山中も討ち取られる。
秀吉軍は書写山 円教寺(えんぎょうじ)に。

・荒木村重(有岡城)、信長に毛利と通じていると疑われる。
(荒木家与力)
摂津・茨木城主・中川清秀
摂津・高槻城主・高山右近
の二人が、毛利家の安国寺恵瓊を連れてきてしまう。
→疑いが本当になってしまう・・。

荒木村重、謀反・・!

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「豊臣兄弟!紀行」(22)

・書写山・圓教寺(しょしゃざん・えんぎょうじ)(兵庫県・姫路市)
天台宗の別格本山として、平安中期の僧侶、性空上人(しょうくうしょうにん)が開いた古刹(こさつ)(古い由緒のある寺)。「西の比叡山」とも称された。

食堂(じきどう)に「羽柴小一郎」という文字が刻まれている柱が残る。

 

 

日本史 文化史と時代

260610
日本史
・時代と文化史

時代 文化史 世紀
 飛鳥時代 飛鳥文化 6~7C
 奈良時代 白鳳文化 7C
天平文化 8C
 平安時代 弘仁・貞観文化 9C
国風文化 10~11C
院政期の文化 12C
 鎌倉時代 鎌倉文化 13~14C
 室町時代 南北朝の文化 14C
北山文化 15C
東山文化 15C
 安土桃山時代 桃山文化 16C
 江戸時代 寛永期の文化 17C
元禄文化 18C
化政文化 19C
 明治時代 明治の文化 19C
 大正時代 大正の文化 20C
 昭和時代 昭和初期の文化 20C
戦後の文化 20~21C

 

 

 

日本史【13】院政(中世ー2)

260609
日本史【13】院政(中世2)
<院政>
・上皇・・院。譲位した天皇。太上天皇(だじょうてんのう)、治天の君(実質の政権の担い手)。
・法皇・・出家した上皇。

<統治機構>
・院庁(いんのちょう)・・院の役所。
・院司(いんし)・・院の近臣、側近。
・院宣(いんぜん)・・院の命令(直接)。
・院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)・・院庁から出る命令。
(これまで天皇は詔(みことのり)、宣旨(せんじ)、)

<軍事力>
・北面の武士(白河上皇)
・西面の武士(後鳥羽上皇)

<財政基盤>
(私有地から)
①荘園からの年貢。
上皇に寄進された荘園
・八条(女)院領(はちじょうにょいんりょう)・・鳥羽が寄進され、娘に伝えた荘園群
・長講堂領(ちょうこうどうりょう)・・後白河が寄進された荘園群

(公領から)
②知行国(院分国)からの年貢。
朝廷(天皇)が上皇に支配権を渡した国。(国司に任命)
知行国主=上皇

・平安の3人の上皇。白河、鳥羽、後白河

(1)<白河院政>
白河上皇
平氏:平正盛

《1086年》白河上皇、堀河天皇(8歳)に譲位。
→院政の開始(43年間)
・「北面の武士」の設置。院の警備をする武士。

・仏教崇拝
法勝寺(ほっしょうじ)建立。高野詣(こうやもうで)。熊野詣(くまのもうで)。

・僧兵の強訴(そうへいのごうそ)
僧が税金などの要求を強く迫る。

(南都北嶺)
・北嶺(ほくれい)・・比叡山・延暦寺の僧兵:日吉(ひよし/ひえ)神社の神輿(しんよ/みこし)をかつぐ。
・南都(なんと)・・興福寺(平城京)の僧兵:春日大社の神木をかつぐ。

・天下三不如意(てんか・さんふにょい)
(白河上皇が思い通りにならないもの)
①賀茂川の水、②双六の賽、③山法師(延暦寺の僧兵)

《1108年》平正盛(平清盛の祖父)(北面の武士)
源義親の乱を出雲で鎮圧。海賊を討伐。

(2)<鳥羽院政>
鳥羽上皇
平氏:平忠盛

《1129年》白河上皇没後、鳥羽上皇が院政開始。(27年間)

《1132年》平忠盛(清盛の父)、瀬戸内海の海賊を討伐し、昇殿を許される。

鳥羽没後・・
《1156年》保元(ほうげん)の乱

  〇
 〇後白河天皇 ✕崇徳上皇
〇藤原忠通(76) VS ✕藤原頼長
〇平清盛 おい おじ ✕平忠正
〇源義朝(頼朝の父) ✕源為義
✕源為朝

 

(3)<後白河院政>
後白河上皇
平氏:平清盛

後白河院政開始後、近臣が対立
《1159年》平治の乱

〇 平氏 ✕ 源氏
〇平清盛(父) VS ✕源義朝(父)
〇平重盛(子) ✕源頼朝(子)

→伊豆(静岡)へ配流

〇藤原通憲

(信西)

✕藤原信頼

後白河上皇が院政を開始するが、平清盛に実権を奪われる。
→平氏政権へ・・

<平氏政権>
後白河院
平氏:平清盛

保元・平治の乱のあと、平清盛が実権を掌握。
平氏政権(六波羅政権)
・外戚政策(貴族的)
・経済基盤・・知行国(公領・30国以上)と、荘園(私有地・500ヶ所)
・日宋貿易
輸入:宋銭→貨幣が流通するようになる
輸出:金
・港 大輪田泊(おおわだのとまり)(摂津・神戸)

《1167》平清盛 太政大臣になる
→貴族の役職に武士の清盛がなった。
(他には足利義満、豊臣秀吉ぐらい。)

※清盛は貴族と武士の両方の性格を併せ持つ。

《1177》鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀(京都・東山)
平氏打倒クーデター計画
by 俊寛(しゅんかん)、藤原成親、西光

《1179》後白河法皇を幽閉→院政停止

<治承・寿永(じしょう・じゅえい)の乱>・・源平の争乱

《1180》安徳天皇即位。高倉天皇と清盛の娘・徳子の子。
→清盛は外祖父に。

平清盛
_
徳子=高倉天皇
__
_安徳天皇

・以仁王(もちひとおう)(後白河の第三皇子)の、令旨(りょうじ)
→平氏追討・挙兵(失敗)

・福原に遷都。大輪田泊のそば。(5ヶ月で戻る。平安京の千年の歴史で、都が移ったのはこのときだけ。794~1868)

・源義仲が挙兵。信野・木曽

・富士川の戦い:源頼朝。駿河で平維盛に勝利→鎌倉に戻り、幕府を開く準備をする。

・南都焼き討ち
→興福寺や東大寺・大仏殿など、南都の寺社(反・平家)を、平重衡(清盛の五男)が焼き討ち。

《1181》平清盛、没
→後白河院、院政再開。

《1183》寿永二年十月宣旨
京都を荒らす木曽義仲や、西日本にいる平氏を討つよう、頼朝に依頼→東海道、東山道の支配権を与える。

《1184》一ノ谷の戦い(摂津/兵庫)
頼朝の弟ら、範頼(のりより)・義経が平氏を破る。

《1185》屋島の戦い(讃岐/香川)

《1185》壇ノ浦の戦い(長門/山口)
平氏滅亡。安徳天皇、入水。

《1189》奥州合戦:源頼朝が、義経をかくまったとして藤原泰衡を滅ぼす。

《1190》右近衛(うこのえ)大将・任命:頼朝は辞退。

《1192》征夷大将軍・任命:法王死後。
鎌倉幕府完成。

 

 

 

日本史【12】荘園公領制(中世ー1)

260608
日本史【12】荘園公領制(平安3)

・土地には、「公領(公地)」と「荘園(私有地)」がある。

・荘園公領制・・「公領(公)」と「荘園(私)」が入り交じり、重層的に管理された体制のこと

 

★「公領」について

<9~10C初の公領>
・公領(国衙領)・・国司(国)の支配地域=荘園(私有地)ではない所、口分田。
(国衙:国司のいる役所)

・班田収授法が浮浪、逃亡などでうまく機能せず。→直営田が生まれる。
・直営田・・空いた班田、土地を貴族が勝手に使い収入を得ること。
(直営田の例)
・公営田(くえいでん)(大宰府の財源。勝手に使う。)
・官田 (政府役所)
・勅旨田(天皇)
→国家に収入が入らない
↓↓
①禁止:延喜の荘園整理令《902年》(醍醐天皇)
②最後の班田実施→失敗
↓↓
「土地制度の大転換」が必要・・!

<10C半以降の公領>

荘園公領制

・名(みょう)・・口分田をいくつかまとめて、ある程度大きな一まとまりの土地にしたもの。

・田堵(たと)・・有力農民

・国司は、田堵に、名(土地)の経営を任せる。

・大名田堵(だいみょうたと)・・大規模経営を行なう田堵のこと。

・国司は農民一人ずつから税金を取るのではなく、田堵からまとめて取る。

国司

郡司(ぐんじ)、郷司(ごうじ)、保司(ほじ)
税金の名前が租庸調から→「官物(かんもつ)(米)」、「臨時雑役(りんじぞうやく)(労役)」になる。

田堵

作人(耕作者)、下人・所従(隷属民)

<国司の実態>
国司は儲かるようになってくる。(都に一定額を納めれば、あとは自分のものにできるため。)

国司の地位が売買されるようになる。
→売官売位(ばいかんばいい)

賄賂を送って国司になる。
(寺社の修築をやる、私財を投じるなど)

・成功(じょうごう)・・国司になる。(1回目)

・重任(ちょうにん)・・任期を延長。もう一度同じ国の国司に任命してもらう。(2回目以降)

・遙任(ようにん)・・任国に赴任しない国司。目代(もくだい)(代理人)を派遣する。

※実際には在庁官人(ざいちょうかんじん)(地元の役人=郡司・郷司など)が政治を行なう。

・受領(ずりょう)・・任国に赴任する国司
下級・強欲貴族
ex 藤原元命(ふじわらのもとなが)
「尾張国郡司百姓等解文(おわりのくに・ぐんじ・ひゃくせいら・げぶみ)」《988》で訴えられる。

 

★「私有地(荘園)」について

<荘園の発生>・・「初期荘園」

・荘園は私有地。公地公民の例外の土地のこと。

・荘園には「初期荘園(墾田地系荘園)」と「寄進地系荘園」がある。

・奈良時代の墾田永年私財法《743》により、「初期荘園」が発生。大貴族や大寺社などが経営。

・このころは輸租田で、税金の義務があった。

・平安時代には衰退し、延喜の荘園整理令《902》でなくなる。

<荘園の開発>・・「寄進地系荘園」

・大名田堵なども開墾を行なうようになる→開発領主(土地の持ち主)になる。

・国司の税金の圧力から逃れるため、都にいる貴族や寺社に寄進する。(土地を寄付する。所有権を渡す。)

・開発領主は寄進後、荘官(現地管理人)になる。

→寄進地系荘園(寄進した荘園)の誕生

<寄進地系荘園>

・荘園領主(本家、領家)・・都にいる土地の所有者
・本所(ほんじょ)・・荘園への実質的支配権を持つ

ーーーーーーーーーーーーー
[都]
・本家(ほんけ)(身分の高い貴族など)
↑↑
↑↑(再寄進)
・領家(りょうけ)(身分の低い貴族など)
↑↑
↑↑(寄進)
ーーーーーーーーーーーーー
[現地]
・荘官(元・田堵で開発領主)
(=預所・あずかりどころ、下司・げし、公文・くもん)
↑↑
(税金の種類)
・年貢(米)←(元・租)
・公事(くじ)(米以外の物)←(元・庸調)
・夫役(ぶやく・ぶえき)(労役)←(元・雑徭)
(10C半ば平安~19C江戸まで続く)
↑↑
・田堵(有力農民。後に名主(みょうしゅ)と呼ばれる)
荘官と契約し、名(名田)を耕作する。
↑↑
・作人(耕作民)、下人・所従(隷属民)

ーーーーーーーーーーーーー

・荘官は荘園領主に寄進した見返りに「特権」をもらう。

→「不輸不入の権」

国司の圧力に対抗する。
・不輸の権・・税の免除(寄進することで、その土地は不輸租田に変わる)
・不入の権・・役人(検田使)の立入を拒否できる

※税金を国司に払うより、荘園領主(貴族)に払う方が安くすむ。

寄進地系荘園の発展
↓↓
藤原氏(貴族)が繁栄
↓↓
藤原氏の財源をつぶしたい。
「延久の荘園整理令《1069》」を発布。後三条天皇。
=貴族に寄進せず、国司(天皇)に払いなさい。
↓↓
天皇の政治復活。(院政など)

 

日本史【11】平安時代(古代ー8)

260607
日本史【11】平安時代(平安2)

延喜・天暦の治(親政=天皇自ら政治)
<醍醐天皇>
「延喜の治」

901年 昌泰(しょうたい)の変☆
右大臣・菅原道真、大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷。
(左大臣・藤原時平の陰謀)
・長官・・大宰帥(だざいのそち)
・仮の長官・・大宰権帥(だざいごんのそち)

902年 延喜の荘園整理令
初期荘園、勅旨田(直営田)(貴族の私有地)などの廃止。
班田実施。→うまく行かず。最後となった。
(cf. 後の「延久の荘園整理令」寄進地系荘園と区別。)

914年 三善清行(みよしきよゆき/つら)の意見封事十二箇条
地方政治の乱れを指摘。政治改革を提案。

<承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱>
武士の反乱
朱雀天皇・藤原忠平

★承平・天慶の乱(935~941年)
・2つの反乱を合わせてこう呼ぶ。
・「恵美押勝の乱」などは貴族の反乱。その下の武士が反乱するのはこれが初。
・東西で同時に起こる。政府の力が落ちている証拠。

・平将門の乱
935年 叔父・平国香(たいらのくにか)(国司)を討ち、北関東の国府を襲う。新皇と称す(桓武平氏)。
(根拠地:猿島(さしま)下総(千葉・茨城))
940年 鎮圧:平貞盛(国香の子) 、 押領使(地方を抑える役職)藤原秀郷

・藤原純友の乱
939年 海賊を率いて瀬戸内海で反乱。
根拠地:日振島(ひぶりじま)(伊予(愛媛))
941年 鎮圧:源経元(みなもとのつねもと)(清和源氏の祖)

<村上天皇>
村上天皇
天暦の治(てんりゃくのち)

958年 乾元大宝(けんげんたいほう)鋳造
→皇朝十二銭の最後。(天皇家が作った貨幣。最初は和同開珎)

<冷泉・円融天皇>
政:藤原実頼
天皇の権力は弱い。

969年 安和の変(あんなのへん)(☆他氏排斥の最後)
・源満仲の密告で、左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)が大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷。→以後、摂関常置。
※源満仲は源経基の子で源氏。源高明は醍醐天皇の子。源氏ではなく、源姓を名乗っているだけ。

<円融・花山天皇>
政:6人
氏の長者(一族の長)をめぐる争い

<一条・三条・後一条天皇>
政:藤原道長
(内覧→摂政→太政大臣)
摂関政治の全盛期

・法成寺(ほうじょうじ)建立。「御堂関白(みどうかんぱく)」と呼ばれる。(関白にはなっていない)

望月の歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
※権力を誇った歌と言われてきたが、近年では一族の繁栄を喜んだ歌だという解釈もある。

1019年 刀伊の入寇(といのにゅうこう)
大宰権帥・藤原隆家が九州で女真族(刀伊)を撃退。

<後一条・後朱雀・後冷泉天皇>
政:藤原頼通
(摂政→関白)在位50年間

1028年 平忠常の乱
上総(千葉)で反乱。
鎮圧者:源頼信

1051年 前九年の合戦
陸奥の安倍氏の反乱。
鎮圧者:源頼義・義家親子。

1053年 宇治(京都南)に平等院鳳凰堂を建立(宇治殿)
阿弥陀如来。

<後三条天皇>
藤原氏と外戚関係なし。→親政。

1069年 延久(えんきゅう)の荘園整理令(建議:大江匡房)
・藤原氏の財源・勢力をそぐ。
・1045年以降の新規荘園、書類不十分の荘園を廃止。
・「記録荘園券契所(きろくしょうえん・けんけいじょ)」、略して「記録所(きろくじょ)」を設置。(実行チーム)
→以降、藤原氏の勢力は衰えていく・・

<白河天皇>
1083年 後三年の合戦
清原氏の内紛。
鎮圧者:源義家。清原清衡に味方して乱を鎮圧。

★奥州藤原氏の繁栄。平泉(岩手)百年、栄華が続く
・清原→藤原に名を戻す
1藤原(清原)清衡→2基衡→3秀衡(→4泰衡)
(きもをひやす)
・金と馬で繁栄

奥州→陸奥(むつ)

 

 

 

日本史【10】平安時代(古代ー7)

260606
日本史【10】平安時代(平安1)

<桓武天皇>
・784年 長岡京
・785年 藤原種継暗殺
・792年 健児の制(こんでいのせい)
軍団制(一般からの強制兵役)を廃止→郡司の師弟を兵士とする。有給。

・794年 平安京
山背から→山城へ

・民衆負担の軽減
①雑徭の半減(国衙で労役)60日→30日
②公出挙の利息軽減 5割→3割
③班田の起源倍増 6年→12年

・797年 勘解由使(かげゆし)設置。
(令外官(りょうげのかん))
解由状(げゆじょう)による国司の審査。

・797年 征夷大将軍・坂上田村麻呂を派遣
・多賀城(聖武天皇時)(宮城)鎮守府を置く。
・胆沢城(いさわじょう)(岩手)鎮守府がここに移る。802年
・志波城(しわじょう)(岩手)803年

・805年 徳政相論(とくせいそうろん)
藤原緒嗣(おつぐ)(式家)&菅野真道(すがののまみち)の論争。
軍事(蝦夷征伐)、造作(平安京造営)→中止

<平城天皇>兄
病気で譲位→政権回復めざす

<嵯峨天皇>弟
政・藤原冬嗣

・810 蔵人所(くろうどどころ)(令外官)の設置。
蔵人頭(くろうどのとう):藤原冬嗣。

・810年 薬子の変(平城上皇の変)
〇 嵯峨天皇、藤原冬嗣(北家)
VS
✕ 平城上皇、藤原薬子(式家)、藤原仲成(式家)

816年 検非違使(令外官)設置。
京都の警察、治安維持

・820年 弘仁格式(こうにんきゃくしき)編纂
格(きゃく)・・律令の補足
式(しき)・・律令の施行細則

・弘仁格式 嵯峨帝
・貞観格式(じょうがんきゃくしき)清和帝
・延喜格式(えんぎきゃくしき)醍醐帝
↓↓
三代格式(さんだいきゃくしき)と呼ぶ。

(令外官まとめ)
桓武→勘解由使
嵯峨→検非違使・蔵人所・征夷大将軍

今後は藤原氏が台頭。天皇はあまり出てこなくなる。

<藤原氏の権力掌握術>
①他氏排斥(承和の変~安和の変)
②外戚政策(母方の親戚)・・天皇の外祖父(母方の祖父)となって権力をふるう。

摂政・・幼少の天皇を代行。藤原良房が人臣(天皇家以外)で最初。
関白・・成人の天皇を補佐。藤原基経。

<藤原良房>
天皇:淳和、仁明、文徳、清和
政権:藤原良房

・833年 令義解(りょうのぎげ)
養老令の官選注釈書。

・842年 承和の変(☆←他氏排斥マーク)
謀反の疑いで、橘逸勢(たちばなのはやなり)、伴健岑(とものこわみね)、皇太子の恒貞親王らを配流。代わりに良房の甥の道康親王(文徳)を皇太子とする。

・858年 良房が9歳の清和天皇の外祖父として摂政に就任(人臣初)

良房

明子=文徳

清和

・866年 応天門の変☆
応天門の放火犯として伴善男(とものよしお)らを配流。

<藤原基経>
・884年 藤原基経が実質的関白に就任(初)。光孝天皇は政治は基経に任せる。

・887年 阿衡の紛議
宇多天皇✕ VS 〇藤原基経
宇多帝が基経を関白ではなく阿衡に任命したことで対立。基経の示威(じい)事件。→基経は関白に就任。

基経没

<宇多天皇>
政権:菅原道真

・891年 菅原道真・文章博士(もんしょうはかせ)蔵人頭に就任(摂関置かず)。
藤原氏をトップには置かない→「寛平の治(かんぴょうのち)」

・894年 遣唐使廃止
藤原氏が菅原道真を遣唐使に推薦。
菅原道真、遣唐使自体の廃止を建議。

 

 

 

2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』(21)「風雲!竹田城」(2026/5/31放送)

260527
『豊臣兄弟!』(21)「風雲!竹田城」(2026/5/31放送)メモ

【あらすじ】
秀吉(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)は、荒木村重(トータス松本)に代わって織田と毛利の間で揺れる播磨の攻略に当たる。難しい任務と思われたが、村重の仲介で出会った姫路城代・小寺官兵衛(倉 悠貴)は、見事な手腕で播磨の国衆を織田方につけてみせる。半兵衛(菅田将暉)の案で、秀吉はさらに西方へ兵を進めることを決め、西播磨へ。一方、小一郎は但馬の竹田城攻めを任され、初めて総大将として戦に臨む!(NHK公式サイト)


・秀吉・播磨出兵
摂津・有岡城主・荒木村重が2年前から攻略を進めていた。
地元の国衆を味方につけ毛利攻めの準備していた。

国衆:在地領主。地元の殿様。(例えるなら戦国大名が大企業、国衆が地元の中小企業。国衆にとって戦国大名はお得意様ではあっても上司ではない。)

加藤清正、福島正則。
石田三成を侍女が取り合い。播磨をめぐって、織田と毛利が取り合いしているよう。
播磨は、赤松、別所、小寺らなど国衆が存在。織田派と毛利派で対立。

摂津・有岡城
荒木村重
摂津・茨木城主・中川清秀
摂津・高槻城主・高山右近

中川と高山は秀吉に反対。
村重としては今まで築いてきた国衆とのつながりを使って、筑前に貸しを作れたら、それでいいと考える。

・天正5年10月
播磨 姫路城 城代
小寺官兵衛尉孝高(こでらかんべえのじょうよしたか)
(黒田官兵衛)

官兵衛が秀吉のいい噂を播磨中に流して織田側に付くように攻略。

姫路城を秀吉に明け渡す。
主の小寺政職(こでらまさもと)にも話を通している。
赤松、別所にも織田方に付くように計らっている。

赤松には、別所(三木城)と毛利が通じて播磨を手に入れようとしていると言い、
別所には逆を言い、お互いに織田に守ってもらうしかないとなっている。

竹中半兵衛は、すべての国衆に人質を出させようとする。
まず官兵衛の嫡男、松寿丸を織田の人質に出す。

その後国衆が、秀吉の元に出仕(挨拶)に来るが、三木城・別所長治は来ず。叔父の別所賀相(よしちか)が代わりに来る。

・三木城
当主・別所長治
後見人・叔父1・別所賀相(よしちか)
後見人・叔父2・別所重棟。(しげむね)

当主の長治と叔父2重棟は織田側、叔父1賀相は毛利側の考え。

秀吉は、別所賀相に12の城を壊すよう命を出す。受け入れたくない感じ・・。

半兵衛は、西へ進んで、上月城(こうづきじょう)を手に入れることを提案。

・上月城
播磨・備前・美作の国境にある。
城主・赤松政範(まさのり)(毛利・宇喜多方)
毛利の最前線。

・天正5年11月
秀吉は上月城に向けて西播磨へ進軍。
途中の福原城。

小一郎は但馬攻め・総大将に。
前野長安など。

・竹田城(但馬)
空に浮かぶ城。
但馬国主・山名家家臣・太田垣 輝信(おおたがき てるのぶ)
生野銀山(いくのぎんざん)も押さえている。

朝もやは昼と夜の暑さと寒さの違いでできる。
朝もやができないよう、かがり火をたく。

敵が水を汲みに来たところを押さえて城を落とす。
小一郎が初めて城代となる。

太田垣輝信は山名のいる有子山まで送り届ける。
城の修繕は高虎に任せる。
生野銀山も押さえられた。

・上月城は秀吉が落とす。
尼子勝久、山中幸盛が入った。

その際、斬首、女子供もはりつけ、串刺しなどをして、西との国境にさらした。
凄惨な場になった。

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「豊臣兄弟!紀行」(21)
但馬国(兵庫・北部)

・生野銀山(兵庫・朝来市)
室町時代に本格的な採掘が開始。但馬・守護の山名氏から、重臣・太田垣氏の手に渡る。その後、織田、豊臣、徳川の直轄の銀山として栄えた。昭和48年閉山。

・竹田城跡(兵庫・朝来市)
天空の城。但馬攻略の際、秀長が落とした。『信長公記』には秀長が城代として城の修築を行なったと残されている。

現在の縄張りや石垣はその後の赤松氏のもの。

 

 

 

コミック『だんドーン』1巻

260605
コミック『だんドーン』1巻

・近代警察の父
薩摩藩 川路正之進(しょうのしん)(利良・としよし)

・薩摩藩主 島津斉彬(なりあきら)

江戸には各藩の藩邸(東京出張所)があった。

薩摩の武士制度
藩主、城下士(じょうかし)、郷士

・西郷吉之助(西郷隆盛)

・水戸前藩主 徳川斉昭(なりあき)

・公家 近衛忠煕(このえただひろ)

・福井藩主 松平春嶽(まつだいらしゅんがく)

・彦根藩 井伊直弼(いいなおすけ)
彦根藩は薩摩の政敵。
彦根藩の菩提寺、豪徳寺。

・外交 岩瀬忠震(いわせただなり)

・学者で商才あり 梅田雲浜(うめだうんびん)

・薩摩の忍び、山くぐり衆
伊牟田尚平(いむたしょうへい)

一橋派・一橋慶喜(19歳)水戸、薩摩、福井
(改革派)
   VS
南紀派・徳川慶福(よしとみ)家茂(10歳)彦根、幕府(保守派)

薩摩から篤姫(天璋院)を13代家定に嫁がせて、一橋派を推してもらう(予定だったが徳川家を守ることになる)

井伊の忍び、多賀者

・薩摩 集成館
反射炉、紡績場

郷中(ごじゅう)教育

日本史【9】奈良時代(古代ー6)

260602
日本史【9】奈良時代後半(奈良2)

<孝謙天皇>
749年 政・(橘諸兄→)藤原仲麻呂(武智麻呂の子、不比等の孫)

(743年↓)
752年 大仏開眼供養会(だいぶつかいげんくようのえ)
753年 唐から鑑真が来日(6回目で)

756年 聖武上皇没
757年 養老律令施行(718年に祖父・不比等が制定)

757年 橘奈良麻呂の乱(橘諸兄の子)
失敗。仲麻呂の権限強大化。

<淳仁天皇>
758年 政・藤原仲麻呂
→恵美押勝に改名。
太政大臣

760年 光明皇太后、没。
→仲麻呂没落→道鏡の進出

764年 恵美押勝の乱
〇 孝謙上皇・道鏡
__VS
✕ 淳仁天皇・恵美押勝
↓↓
淡路に配流(史上初)

<称徳天皇>=孝謙が復活して重祚
政・道鏡
太政大臣禅師(政治トップ)、法王(宗教トップ)

765年 加墾禁止令:寺院以外の開墾を禁止。

769年 宇佐八幡神託事件(豊前国・大分)
和気清麻呂が神託は嘘と報告。
↓↓
和気清麻呂(わけのきよまろ)は穢麻呂(きたなまろ)に改名させられ、大隅(鹿児島)に配流。
(姉の広虫(ひろむし)は狭虫(せまむし)に改名させられ、備後(広島)に配流。

770年 称徳天皇没。道鏡は下野国(栃木)薬師寺に左遷。
和気清麻呂は復帰。

 

<光仁天皇>(天智の孫)
天武系の断絶。
奈良時代の政治の混乱は、天武系だったからではという考え。→天智系に戻す。

政・藤原百川(三男・宇合の子)(式家)
藤原種継(宇合の孫)(式家)

 

<奈良・平安の外交>
奈良時代は唐、新羅、渤海の3つの国と外交した。

・遣唐使
630年(飛鳥)~838年(平安)
4隻の船・・「よつのふね」

阿倍仲麻呂 帰国できず
藤原清河

北路(ほくろ)・・朝鮮半島(新羅)の近くを通る。
新羅との関係悪化(8C)
↓ 危険
南路(なんろ)、南島路・・九州から直接行く。

894年 菅原道真 行くのをやめた。

・新羅使
630年 新羅統一

・渤海使(ぼっかいし)
中国北東部・渤海。
渤海から使節が来る(渤海使)
こちらからも送る(遣渤海使)

松原客院(越前)、能登客員(能登)、都の鴻臚館(こうろかん)に滞在。
(鴻臚館:7~11C,京都・太宰府・難波(なにわ)・博多に置かれ、外国からの来朝者を接待した館舎)

 

 

 

日本史【8】奈良時代(古代ー5)

260602
日本史【8】奈良時代(奈良1)
<権力者の移り変わり>
藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄→藤原仲麻呂(恵美押勝)→道鏡→藤原百川

<元明天皇>聖武の祖母
藤原京
政権・藤原不比等

708年 和同開珎(わどうかいちん/ほう)
元号を「和銅」に改元。
「皇朝十二銭」の最初
(最後は乾元大宝(村上朝))

710年 平城京へ遷都(藤原京から)
都城制。唐の長安をならう。
天子南面。天皇から見る。

___平城宮
____朱     外京(げきょう)
右京  雀  左京
____大
____路

外京に東大寺、興福寺がある。

飛鳥寺(法興寺)(by蘇我馬子)は平城京に移されて元興寺(がんごうじ)となった。

木簡が出土。

・711年 蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)
お金を貯めれば位を高くする。失敗。800年廃止。

712年 『古事記』
稗田阿礼(ひえだのあれ)の暗記を、太安麻呂(おおのやすまろ)が筆録。

・713年 『風土記』

国域の拡大
・出羽国(でわのくに)設置。(日本海側・秋田、山形)
蝦夷対策
・大隅国(おおすみのくに)設置。(鹿児島)
隼人(はやと)対策

<元正天皇>聖武の叔母
(政)藤原不比等
・718年養老律令制定(施行は757年~)
(不比等の功名心から。大宝律令と内容大差なし)

720年 『日本書紀』(神代~持統。編年体)
舎人(とねり)親王(天武の子)

・720年 (政)不比等没→長屋王が実権掌握。

・722年 百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶ)
口分田が足りない。田を開墾。→失敗。(計画倒れ)

・723年三世一身の法(さんぜいいっしんのほう)
ー 新たに開墾→ひ孫までの3代
ー 既墾地を開墾→本人1代
の「土地所有」を認める。死後は国に返還。
→一時的な「私有地」の誕生。律令制度(公地公民)が崩れ始める。

 

<聖武天皇>
(政)長屋王
・724年多賀城(陸奥国/宮城県)に、鎮守府(ちんじゅふ)(東北の役所)を設置。蝦夷対策の拠点。

・729年長屋王の変
藤原不比等の娘、藤原光明子が聖武の皇后(正式な妻)になるのを、長屋王が反対。→藤原四子により謀反の意図ありと死に追い込まれる。

(政)藤原四子(よんし/しし)
長男:藤原武智麻呂(南家)
次男:藤原房前(北家)
三男:藤原宇合(式家)
四男:藤原麻呂(京家)

737年 藤原四子が天然痘で没

(政)橘諸兄(たちばなのもろえ)→左大臣
吉備真備(吉備地方の出身)
玄昉(げんぼう)
(アンチ藤原が力を握った)

・740年 太宰少弐藤原広嗣(ひろつぐ)の乱→鎮圧
(おもしろくない藤原氏が反乱)

・740年 恭仁京(山城)へ遷都(平城京から)
(聖武天皇が自分のせいだと嘆いて遷都)

・741年国分寺建立の詔(国分尼寺(こくぶんにじ))
鎮護国家思想①(仏教によって国を治める)

・742年 近江・紫香楽宮(しがらきのみや)造営

743年 墾田永年私財法
開墾地の永久私有を認める→大貴族、大寺社が開墾。
「荘園」(初期荘園)の誕生。

743年 大仏建立の詔
鎮護国家思想②
紫香楽宮→奈良・平城京へ

平城京から
・740年 山城・恭仁京(くにきょう)へ遷都
・744年 摂津・難波宮(にわのみや)へ遷都(海)
・745年 近江・紫香楽宮(がらきのみや)へ遷都(山)
(→山の中過ぎて頓挫)
・745年 大和・平城京へ遷都(戻る)
5年で3回遷都した後、平城京に戻る。定まった「くに・な・し」。