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【31】帝国主義の時代

251008
世界史【31】帝国主義の時代
(1)イギリスの動向
(2)フランスの動向
(3)ドイツの動向
(4)ロシアの動向
(5)アメリカの動向
31ーキーワード
帝国主義・・植民地(市場)を求めて外に出て行く時代
(英)ディズレーリ(保)。インド帝国。スエズ運河+キプロス島。
(仏)第三共和政。
(独)ビスマルク⇒皇帝ヴィルヘルム2世。3B政策。
(露)第1次ロシア革命⇒十月宣言(ウィッテ)⇒社会主義の政党。ボリシェヴィキ(レーニン)、 メンシェヴィキ。
(米)カリブ海政策。米西戦争(25代マッキンリー)。棍棒外交(26代S・ローズヴェルト)。宣教師外交(27代ウィルソン)


31ーガイダンス
・欧米各国で帝国主義(植民地獲得)、労働運動が起こる。
・第2次産業革命(19C後)⇒英以外の欧米。重化学(鉄鋼・造船・石油・電力)。生産増大。強い企業(独占資本)が銀行と結びつく。(第1次は英綿工業)
・1870年代世界的不況。⇒植民地(市場、原料供給、資本輸出)を求めて帝国主義へ。


イギリスの動向(1)
ポイント①イギリスの方向転換?帝国主義へ突入!
19C後以降のイギリスの帝国主義政策

首相ディズレーリ(保守党)(任1868、1874~1880)
自由貿易から⇒帝国主義(植民地獲得)へ方向転換。

インドへの道を確保したい(エジプトルートと南アフリカルート)
スエズ運河株式買収、インド帝国の完成
・ベルリン会議への参加
キプロス島の統治権を獲得。=スエズ運河の真上の島。ロシアが入ってこないように監視。
↓↓
植民地相:ジョゼフ=チェンバレン(保守党)

南アフリカ戦争。英の支配下においた。→南アを安心して通れる。

「対外政策にお金を費やしたい。国内にお金を使いたくない・・」
↓↓
自由党内閣の時
・議会法の制定
上院・下院のうち、下院(一般市民の代表者)の優位を確立。

・アイルランド自治法の成立
しかしWW1で延期⇒イースター蜂起(シン・フェイン党も参加)

<植民地帝国の再編>
・自治領(白人が支配層の地域)を形成していく
自治を与えて、英本国はお金を使わないようにした
カナダ⇒オーストラリア⇒NZ⇒南アフリカ連邦

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ポイント②イギリスの労働運動
大英帝国の「光」と「影」

<社会主義運動の高まり>
フェビアン協会
知識人中心(ウェッブ夫妻・劇作家バーナード=ショー)。
改良主義的な社会主義団体。ゆっくりでいいから改善。
↓↓ +他の団体
労働代表委員会・・選挙で議席数を獲得するまでに。
↓↓
労働党(現在まで続く)・・合法的。穏健。議会を通じて社会改革をめざす改良主義。民主的な手段。(暴力は使わない)


フランスの動向(2)
ポイント①混乱が続くフランスの第三共和制
国内の世論を二分化する重大事件発生!

二月革命(1848)の結果、王様がいなくなった。=第二共和政になった。男性普通選挙の実現。→混乱。
↓↓
ナポレオン3世の第二帝政でまとまる。普仏戦争(1870)で捕虜に。
↓↓
第三共和政ができるが混乱・・

・第三共和政(1870/71~1940)
弱さを露呈した、2つの大きな事件
ブーランジェ事件
陸相ブーランジェ。反議会主義的運動。共和制をやめる?→未遂に。

ドレフュス事件(冤罪事件)
ユダヤ系将校ドレフュスがスパイ容疑で逮捕。⇒冤罪だった。仏軍部が隠蔽。反ユダヤ感情をあおる。国内世論が批判。エミール・ゾラ「私は弾劾する」(ドレフュス擁護派)⇒ドレフュスは無罪に。釈放。
↓↓
シオニズム・・自らのユダヤ人国家を設立しようとする運動。イェルサレム(パレスチナ)に戻ろう・・。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②フランスの労働運動
フランス革命の意志を受け継ぐ直接行動主義
<社会主義運動>
サンディカリズム
議会や政党の否定。英のような議会ではなく、労働者による直接行動主義。(フランス革命のように自由平等は自分たちで勝ち取るんだ。)↑↑ VS(対立)
フランス社会党(統一社会党 / 社会党)
議会重視。社会主義派が結成。


ドイツの動向(3)
ポイント①ビスマルクの辞職!?ドイツの取った「新航路」
皇帝と意見が衝突したビスマルク

<ドイツ皇帝の交代>
ヴィルヘルム1世(ビスマルクが仕えていた)⇒フリードリヒ(病気で100日で交代)⇒ヴィルヘルム2世(位1888~1918)

ヴィルヘルム2世:「独も植民地を求めて外に出るべき」
VS
ビスマルク:「外交でやっと収めたのに。反対。」
意見衝突。社会主義者鎮圧法の再更新も対立。
ビスマルク辞職(1890)

<ヴィルヘルム2世の対外政策>
[1]海軍の大拡張「ドイツの将来は海上にあり」⇒と対立。

[2]パン=ゲルマン主義
パン=「広げる」の意味。ゲルマン人(ドイツ系民族)オーストリアとの連携。⇒ロシアと対立。
バルカン半島→小アジア→ペルシア湾へ。独から東南方向。
↓↓
独・3B政策(さんびーせいさく)(英露と対立)
ベルリン(ドイツ)、ビザンティウム(トルコ)、バグダード(イラク)を接続する。バグダード鉄道の建設を考えた。⇒もし実現すれば海で英と対立する。また、バルカン半島を狙うロシアとも対立する・・。
(cf 英・3C政策。ケープタウン、カイロ、カルカッタ)

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ポイント②ドイツの労働運動
ドイツで生まれた新しい社会主義の潮流

世界初の社会主義政党
ドイツ社会主義労働者党(ビスマルク時代)
社会主義者鎮圧法
ビスマルクは警戒し、この労働者党を非合法化した。せっかく統一したドイツが資本家と労働者に分裂するのを避けたかったから。⇒労働者・失業者は国が守ると主張。
↓↓
ビスマルク退陣
↓↓
ドイツ社会民主党
「復活のチャンスだ!」名前をこれに変える。マルクス主義理論を採用。暴力革命を提唱。
↓↓ 徐々にこちらへ変わっていった
修正主義
ベルンシュタイン。議会を通じて社会主義化を提唱。改良主義。
(英の労働運動を参考にした。)


(4)ロシアの動向
ポイント①急激な近代化で生まれた社会の歪み
フランス資本の導入で産業革命を急いだ結果・・

ロマノフ朝(皇帝独裁政治)
南下して穀物を輸出して産業革命したい・・
⇒仏資本の導入。露仏同盟(1891)
⇒ロシアの近代化。産業革命の本格化
↓↓
シベリア鉄道の建設(1891)
中国方面に進出したい。全長9300㎞。
(ウラジオストク(東)からモスクワ(西)まで)
ペテルブルグ(西端)

中国東北をめぐって日本と衝突。⇒日露戦争(1904)

血の日曜日事件(1905)
戦争反対の市民デモ。軍隊が発砲。ニコライ2世
↓↓
第1次ロシア革命(1905)
労働者中心に暴動・スト。
↓↓
都のペテルブルグで、ソヴィエト(評議会)が成立=各地の工場の代表者が集まって話す会議。
↓↓
日露戦争終結
ポーツマス条約(1905)

戦争は終わったが革命は終わらない。
・「十月宣言」(革命を終わらせる)
起草者:ウィッテ
ドゥーマ(国会)を開設。
・憲法制定。立憲民主党の結成。(お金をもっている人たち)
↓↓
ウィッテは首相となり、民主的な、自由主義的な改革を行う(革命は収束へ・・)
↓↓
改革が落ち着くと突如ウィッテは首になった。
↓↓
ストルイピンの改革
ドゥーマ(国会)を解散
ミール(農村共同体)を解体。⇒国内は混乱。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②ロシアの労働運動
労働者は不満爆発!多くの社会主義者政党が登場

<社会主義運動>
ロシア社会民主労働党
2つの社会主義政党に分裂(この2つは労働者を代表)
↓↓
[1] ボリシェヴィキ(指導者:レーニン
革命家による武装革命。(少数で一気に壊す。)

[2]メンシェヴィキ (指導者:プレハーノフ)
ブルジョワ民主主義革命。(多数でゆっくりで革命する。)

社会革命党
ナロードニキの流れをくむ。こちらは農民を代表。
テロリズムによる専制政治の打倒をめざす。


(5)アメリカの動向
ポイント①世界第1位の工業生産数
イギリスを抜いた合衆国の未来とは・・

<独占の規制>
1890年代。米が世界No1に。
一部の富裕層が独占。政治的にも強くなる。
↓↓
革新主義(進歩主義)
政治経済の独占の規制。経済自由化。

カリブ海政策(20C初)>(米の海外進出)
米がいよいよ外へ出ていく。
↓↓
第1回パン=アメリカ会議
「アメリカの製品を買いなさい」。中南米(ラテンアメリカ)の国々に指導。

・フロンティアの消滅(1890)
白人入植者が全域に広がった。

ーーーーーーーーーー

ポイント②カリブ海政策の推進
2人の大統領とその時代の海外進出方法

[1]25代・マッキンリー大統領(任1897~1901)
アメリカ=スペイン(米西)戦争(1898)
米はカリブ海へ進出。中南米に影響力のあったスペインと戦う。
〇米 VS 西✕

きっかけはキューバ独立運動1895キューバはスペインから独立を試みようとしていた。
↓↓
そんなときハバナ湾で米艦隊メイン号が撃沈。米はスペインのしわざとしてスペインに戦争をしかける。スペインは「え?」(米の自作自演?)
↓↓
米はフィリピン、グアム、プエルトリコという西の植民地を獲得。
キューバを独立させて保護国化
↓↓
さらに太平洋へも進出。
ハワイ併合(1898)
(※米西戦争の結果ではなく単独で。)

門戸開放宣言(1899)
国務長官 ジョン=ヘイ
中国市場への進出をも狙う。門戸開放、機会均等、領土保全。

[2]26代・セオドア・ローズヴェルト大統領(任1901~09)
「カリブ海政策」を引き続き推進。

・「棍棒外交」(20C初)
口調は穏やかに、棍棒をたずさえて話す。(威嚇)
(例)無理やりパナマをコロンビアから分離・独立。

パナマ運河の建設(1904~1914)
中米と南米の間。カリブ海と太平洋を接続。

ーーーーーーーーーー

ポイント③ウィルソン大統領の時代に起きた変化とは?
合衆国が持つ外交上の「使命」

28代・ウッドロー=ウィルソン大統領(任1913~1921)
・米国内「新しい自由」
弱者救済。

・対外「宣教師外交
「アメリカと同じ民主政治をすればアメリカと同等に発展できるよ」
米風の政治を世界に伝える。それが米国の義務
↓↓
現在でも米は独裁政治を嫌う。世界へ干渉する口実。

 


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【30】アジア諸地域の植民地化

251008
【30】アジア諸地域の植民地化
(1)フランスのインドシナ進出
(2)オランダ・イギリスの東南アジア進出
(3)イギリス東インド会社のインド経営
(4)オスマン帝国の衰退
(5)オスマン帝国の近代化
(6)イラン・アフガニスタンの植民地化


30ーキーワード
<東南アジア>
・仏⇒仏領インドシナ(ベトナム・カンボジア・ラオス)
・蘭⇒オランダ領東インド(インドネシア)
・英⇒マレー連合州(マレーシア)=海峡植民地(シンガポール、ペナン、マラッカ)+α。ミャンマー。
<インド>
・英⇒印:シパーヒーの反乱(1857)⇒ムガル帝国滅亡(1858)⇒インド帝国(1877)
<オスマン帝国>
・アブデュル=メジト1世「タンジマート(恩恵改革)」
・ミドハト=パシャ「ミドハト憲法」(1876)
<その他>
・ウラービー運動(エジプトの反英運動)
・タバコボイコット運動(イランの反英運動)


30ーガイダンス(1~6)
・東南アジア・・仏・蘭・英(仏は中国への中継基地がほしい)
・インド・・英の単独支配(英仏の戦争に英が勝ったため)
英本国ではなく英東インド会社(貿易会社)がインド経営をする。(ある変化が。。貿易→徴税)
・西アジア・・オスマン帝国の衰退・近代化。イラン・アフガニスタンなど。


(1)フランスのインドシナ進出
ポイント①ナポレオン3世のインドシナ進出
なぜこのタイミングでベトナムを攻めるの?

(ナポレオン3世)がインドシナ(=現ベトナム・カンボジア・ラオス)に進出。

<ベトナム>
阮朝(げんちょう)/ 越南国
建国:阮福映(げんふくえい)。仏宣教師ピニョーが支援。
清の朝貢国(弟分)。清からは越南国(えつなんこく)と呼ばれる。

ラオス  |ベ
_________|ト
カンボジア|ナ
_________|ム

仏のインドシナ(ベトナム)進出理由は・・
→アロー戦争で仏は中国進出を始めた。中継基地が欲しかった。
↓↓
仏越(ふつえつ)戦争。〇仏ナポ3世 VS 越✕
仏がベトナムのサイゴンを獲得。
カンボジアを保護国化。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②フランス領インドシナ連邦の成立
ベトナム・カンボジア・ラオスの植民地化

ユエ条約・・ベトナム保護国化
↓↓
(兄)がベトナム(弟)の宗主権(指導する権利)を主張。(清は仏にクレーム)(朝鮮の時と同じ。清は日本にクレーム。)
↓↓
清仏戦争(〇仏 VS 清✕)(1884~5)
天津条約・・清はベトナムの宗主権を放棄
↓↓
・仏領インドシナ連邦
(1887~1945)
(現ベトナム・カンボジア・ラオス)

 


(2)オランダ・イギリスの東南アジア進出

ポイント①オランダのジャワ・スマトラの植民地化
現在のほぼインドネシアにあたる地域をオランダが植民地化

オランダ領東インド
オランダのジャワ・スマトラ(インドネシア)を植民地化

・イギリス=オランダ協定(イギリスとオランダの打ち合わせ)
マラッカ海峡を境界に北は、南はと分けた。

・ジャワ戦争(1825)〇蘭 VS ジャワ✕
⇒蘭は勝ったが、財政窮乏に・・
↓↓
強制栽培制度(1830)
商品作物(コーヒー)⇒ヨーロッパに販売。
オランダ産業革命の資金源になる。
↓↓
・アチェ戦争(1873)
スマトラ島の北端。✕アチェ王国 VS 蘭〇
オランダ領東インド完成(現インドネシア)

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②イギリスが東南アジアを植民地化するわけは?
インド帝国とのアクセスを最優先

英植民地のインド清(中国)をつなぐために(海回り)中継基地としてマレー半島が必要。

ぺナン、シンガポール、マラッカ(=海峡植民地)の獲得
↓↓
マレー連合州(現マレーシア)の成立
プランテーション
(すず)・・華僑(中国)を労働力
ゴム・・印僑(インド)を労働力

ビルマ(ミャンマー)戦争
コンバウン朝を滅ぼしインド帝国に併合

 


(3)イギリス東インド会社のインド経営
ポイント①東インド会社のインド植民地の動き
商業活動を停止された会社が生き残るための工夫

<英東インド会社の進出>
プラッシーの戦い(1757)
インド・ベンガル地方をめぐって争う 〇英 VS 仏✕

イギリス東インド会社(貿易会社)は、ベンガル(インド北東・ガンジス川下流域・豊かな土地)の徴税権を得る。
↓↓
イギリス東インド会社が商業活動停止される(1833)
↓↓
インド統治機関へと移行。
↓↓
<各地で戦争へ>
マイソール戦争(南インド)
マラーター戦争(中部・デカン高原)
マラーター同盟・インドの豪族
シク戦争(北西パンジャーブ地方)シク教徒
あとはムガル帝国のみ。。

<征服地への税制>
ザミンダーリー制
地主・領主から直接地税を徴収。(ベンガル地方)

ライヤットワーリー制
自作農民から直接地税を徴収。(シンド地方、南インド)

徴税に加え、プランテーション経営もするようになる。
→茶、アヘンの栽培・輸出

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②全インドを揺るがす大反乱
イギリスのインド支配における転換期

・シパーヒーの反乱(1857~1859)
シパーヒーとはイギリス東インド会社に雇われたインド人傭兵(ヒンドゥー教徒+イスラム教徒)。薬包に牛と豚の脂を使っていると噂。

デリー城を占拠。ムガル皇帝を擁立
↓↓
インド大反乱に発展。
↓↓
英本国軍が鎮圧。ムガル帝国が滅亡(1858)
↓↓
イギリス東インド会社は解散。統治権は英本国に移る。(=英はただ同然でインドを手に入れる形になった。噂は英本国が流した・・?)

↓↓

・インド帝国1877~1947)成立
初代インド皇帝 ヴィクトリア女王
(ディズレーリ保守党内閣)

植民地なのに「帝国」と付いているのは、他のヨーロッパ諸国に向けた、英はインドを重要視しているというメッセージ。触れたらあきまへんえ・・の威嚇。

分割統治
保守的な藩王国を懐柔。間接統治。(=農民の怒りは地主へ行く。英本国には行かない。)

 


(4)オスマン帝国の衰退
ポイント①アラビア半島での独立の動き
ムハンマドの教えに帰れ!ワッハーブ運動の展開

<アラビア半島>
オスマン帝国支配下で自立の動き
ワッハーブ運動(ワッハーブ派)
ムハンマド時代のイスラーム教復帰を目指す。
↓↓
豪族サウード家と結んでワッハーブ王国建設。
都:リヤド
↓↓
エジプトのムハンマド・アリーの攻撃でワッハーブ王国は滅亡。
⇒アラビア半島の自立は失敗。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②エジプトでの自立の動き
オスマン帝国の部下であって部下でない?

<エジプト自立の動き>
仏・ナポレオンのエジプト占領(1798~99)
→ナポレオンはエジプト先住民(アラブ人)にオスマン帝国(トルコ人)への反抗を呼びかけた。「悔しくないのか?民族の誇りを持つべきだ!」

↓↓ エジプト自立の運動の中心

・ムハンマド=アリー
エジプトからナポレオンを追い出す。オスマン皇帝に変わってエジプト総督の地位を授かる。エジプトの自立・近代化を目指す。

オスマン帝国に要求。

第1次エジプト=トルコ戦争(1831~33)
オスマン帝国にシリアの領有を要求し、開戦。
〇エジプト VS トルコ✕
シリアを獲得

第2次エジプト=トルコ戦争(1839~40)
エジプトとシリアの世襲権要求。
△エジプト VS トルコ(欧の干渉もあり)
⇒シリアを返還。エジプトとスーダンの世襲権は獲得。

ムハンマド・アリーの死後・・

・スエズ運河 開通(1869)at エジプト
(仏・技術者)レセップス
地中海からインド洋に直接行ける。英は喉から手が出るほど欲しい。(英)ディズレーリ内閣。スエズ運河会社の株を買収。支配権獲得

↓↓ トルコの次はイギリスかよ・・

ウラービー運動(反乱)(1881)(エジプトの反英運動)
「エジプト人のためのエジプト」英支配に抵抗するが、鎮圧される。
↓↓
エジプトは英の保護国化に。(英の植民地に・・)

 


(5)オスマン帝国の近代化
ポイント①ついに目覚めたオスマン帝国!
皇帝が率先して行う「上からの近代化」とは?

<オスマン帝国>
・アブデュル=メジト1世
(位1839~1861)
「タンジマート(恩恵改革)」(1839)
ギュルハネ勅令

・皇帝が率先して近代化。「上からの改革」。司法、行政、財政、軍事、文化など。
・非イスラムへの平等課税。法的にも平等。

↓↓ 一定の成果が出たが・・(オスマン帝国を敗れるぐらい成長)

クリミア戦争(1853~56)
〇オスマン帝国 VS ロシア✕
英・仏・サルディーニャ。

タンジマートの成果が出てトルコは勝利!
→しかしトルコは英・仏に借金。財政面では英仏の従属状態に・・。

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ポイント②アジア初の憲法が制定されるも・・
立憲君主政への移行と皇帝の思惑

・アブデュル=ハミト2世(位1876~1909)

宰相 ミドハト=パシャ

・ミドハト憲法
(1876)
アジア初の憲法
。(大日本帝国憲法(1889)より13年早い。)

・二院制議会、責任内閣制
立憲君主制への移行を目指した。皇帝の独占ではなく議会で話し合いをしよう。
↓↓
ロシア=トルコ(露土)戦争(1877)
アブデュル=ハミト2世が、皇帝の力を制限されるのを嫌ってミドハト憲法を停止!

宰相ミドハト=パシャを解任(1877)。
戦争の責任を押し付けて島流しに。。

結局、皇帝独裁政治が変わらぬまま、英仏に財政面で頭が上がらないまま・・

 


(6)イラン・アフガニスタンの植民地化
ポイント①イランの植民地化
イランをめぐるイギリスとロシアの熾烈な争い

(イラン)カージャール朝(1796~1925)
北にはカスピ海、南にはペルシア湾。
北から海を求めてロシアが狙う・・。南東から英が狙う。

トルコマンチャーイ条約(1828)
イランにロシアが押しつけた不平等条約。
アルメニアの大半を獲得。治外法権を承認。
(※トルコだがオスマントルコとは関係ない。トルコマンチャーイという町の名前)

↓↓ 何でイラン政府はロシアの言いなりなんだ・・!

バーブ教徒の乱(イスラーム教・シーア派の一派)
イラン・カージャール朝の貧困農民中心の反乱
英・露・弱腰なイラン政府に反対するも、鎮圧される。

タバコ=ボイコット運動(1891~92)(イランの反英運動)
タバコの独占販売権がイラン政府から英業者に渡される。
⇒民衆はタバコをボイコット。知識人(ウラマー)らも含めた反英・反国王運動。
↓↓
鎮圧される。英露のプレッシャーは続く。イランの植民地化は避けられない・・

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②なぜアフガニスタン?
イギリスはアフガニスタンを絶対に渡したくない!

英の2回のアフガン戦争
アフガニスタンはインドの真上。英はインドが大事。北からのロシアからの侵攻の防波堤として、アフガニスタンは押さえておきたい。
↓↓
第1次アフガン戦争(1838~42)英✕ VS 〇アフガニスタン
何と、英・完敗!

ベルリン会議(1878)
ロシアのバルカン半島方面の南下を阻止した。
↓↓
英「そうするとロシアは違う地域から降りてくるかも・・。やばい。アフガニスタンにも来るかも・・!」
↓↓
第2次アフガン戦争1878~80)英〇 VS ✕アフガニスタン
今度は英勝利。アフガニスタンを保護国化

 


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【28】19世紀の欧米諸国(3)文化史

251006
【28】19世紀の欧米諸国(3)文化史
(1)文学
(2)芸術
(3)哲学・社会主義思想
(4)科学・技術


(1)文学
ポイント①形式的な美しさに対抗し、個性・感情を爆発!
古典主義とロマン主義

<19Cの文学>
古典主義・・形式的な美しさ。ギリシア、ローマ時代から続く。
・ゲーテ(独)『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』
晩年は調和の取れた美しさ、典型的なストーリーに魅了される。

ロマン主義・・個性感情を重視。主観的
・グリム兄弟(独)(兄弟ともに言語学者)『ドイツ語辞典』(方言を集めた)グリム童話。
・ハイネ(仏)『歌の本』革命詩人。パリで七月革命を目にした。
・ヴィクトル=ユゴー(ユーゴー)(仏)『レ=ミゼラブル』虐げられる人々。
・バイロン(英)ギリシア独立戦争に義勇兵として参戦。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②客観性を重視した文学の潮流
できるだけ主観を排した結果、見えてきたものは?

写実主義(リアリズム)・・ロマン主義を否定。客観的
・スタンダール(仏)『赤と黒』仏・七月革命
・バルザック(仏)『人間喜劇』
・トルストイ(露)『戦争と平和』ナポレオン戦争中のロシア
・ドストエフスキー(露)『罪と罰』(露)
・ディケンズ(英)『二都物語』イギリスの下級社会。
↓↓
自然主義・・客観性+社会問題を重視。
・イプセン(ノルウェー)『人形の家』女性解放
・モーパッサン(仏)『女の一生』
エミール=ゾラ(仏)『居酒屋』ドレフュスの冤罪事件(仏政府を批判)


(2)芸術
ポイント①時代を彩る数々の名画が誕生
激動の19世紀の中で生まれた画家が見たものとは・・

<19Cの美術>
古典主義絵画(19C前)・・形式的な美しさ。
・ダヴィド『ナポレオンの戴冠式』

ロマン主義絵画
・ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』。仏七月革命。ギリシア独立戦争でギリシア応援。

写実主義絵画・・客観的にありのまま
・クールベ『石割り』。ナポレオン3世失脚後、パリ・コミューンにも参加。

自然主義絵画・・客観的、人間の内面、社会の真実
・ミレー『晩鐘(ばんしょう)』『落ち穂拾い(おちぼひろい)』

印象派・・戸外制作。光。
・マネ『草の上の食事』『笛を吹く少年』
・モネ『印象・日の出』『睡蓮』(↑↑マネに影響を受けた)
・ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』

後期印象派
・セザンヌ『赤いチョッキの少年』『サン=ヴィクトワール山』
・ゴッホ(1853~1890)『自画像』『ひまわり』

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②音楽だって時代を反映する!
その時代を象徴する音楽、出来事を風刺する音楽

<19Cの音楽>
バロック音楽(17C初~18C半)・・自由でダイナミック
↓↓
ドイツ古典派音楽(18C後~19C初)・・整然とした形式美
・ハイドン
・モーツァルト
・ベートーヴェン(集大成)
↓↓
ロマン主義音楽・・
感情を込める。
・シューベルト『美しき水車小屋の乙女』

・ヴァーグナー(ワグナー)『ニーベルングの指輪』・・ゲルマン民族の物語。楽劇。ヒトラーが愛した。

ショパン(1810~1849)『革命』・・仏・七月革命の影響で、祖国ポーランドが独立を求めてロシアに反乱、鎮圧された。(1830)ロシアへの怒りを込めてこの曲を作った。





(3)哲学・社会主義思想
ポイント①人々が時代に合わせて取った思考プロセスとは
よりよく生きるための方法を生み出す

<19Cの哲学>
ドイツ観念論(批判する哲学)(カントが始めて⇒ヘーゲルが完成)
ヘーゲル 弁証法哲学
「全てのものはある部分から見れば正しい、ある部分から見れば間違っている。」→2つを統合した新しい考え方→また反対意見がある→レベルアップしていく

↓↓ ヘーゲルの考えを応用

史的唯物論
・・「歴史の動き方」に法則を持たせる
マルクス(独)
エンゲルスとともに歴史の発展法則(動き方)を探求→社会主義

功利主義・・利益主義
・ベンサム(英)「最大多数の最大幸福」多数決
↑↑(反対)
・ジョン=ステュアート=ミル(英)「幸福の中身・質にも注目」

実証主義
・コント(仏) 社会学の祖。科学的な方法を哲学に取り入れた。因果関係を見つけていく。

実存主義
・ニーチェ(独・哲学者)「神は死んだ」

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②資本家と労働者の対立をなくすための社会主義
空想から科学へ・・資本主義の矛盾を追及

<19Cの社会主義思想>
資本家と労働者の対立をなくす考え方・・社会主義

空想的社会主義
・ロバート=オーウェン(英)・・社会主義(労働者を助ける)。工場法の制定に尽力。→優しさだけでは根本的な解決にならない。
↑↑(批判)
科学的社会主義
マルクス(独)、エンゲルス(独)・・『共産党宣言』「労働者は革命を起こして、工場から資本家を追い出して、利益は労働者で分配すればいい」「万国のプロレタリア(労働者)よ、団結せよ」


(4)科学・技術
ポイント①経済学にもさまざまな考え方が登場
イギリスに対抗するために生まれた経済学

<19Cの経済学>
(経済学)
歴史学派経済学
リスト(独)・・英に対抗して保護貿易を主張。英は自由貿易を求めてくるが、英の思うツボだ。関税をかけて独国内を守ろう。
ドイツ関税同盟の結成。ドイツ統一に尽力。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②歴史の研究や法学研究にも新展開
合理的に歴史や法を研究する姿勢
<19Cの歴史・法学>
(歴史学)
近代歴史学
ランケ 史料批判を通して実証的・科学的に史実を求める。→現在まで続く。根拠、分析。

(法学)
・サヴィニー「歴史法学」の創始
歴史、民族精神に基づく法律の制定
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント③世界の一体化が促進
地域をつなぐ電信・通信技術の発達

19Cの発明は現在まで直結。
<19Cの科学・技術>
(物理学)
・ファラデー・・電磁気学の発展
・マイヤーとヘルムホルツ・・「エネルギー保存の法則」を発見。ガソリンエンジン。
・レントゲン・・X放射線の発見。第1回ノーベル物理学賞。

(化学)
・キュリー夫妻・・ラジウム、ポロニウムなどの元素を発見。

(生物)
・ダーウィン・・『種の起源』進化論を発表。人は猿から進化した。

(医学)寿命が伸びることに貢献
・パストゥール・・狂犬病の予防接種
・コッホ(独)・・結核菌・コレラ菌を発見

(技術・発明)
・ノーベル・・ダイナマイトを発明。
・モース(モールス)・・電信機。モールス信号。
・ベル・・電話機。
・マルコーニ・・無線電信。
・エディソン(米)・・「発明王」。蓄音機(録音)。白熱電灯。映画(映写機)。


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【26】19世紀の欧米諸国(1)英・仏・伊・独

251004
【26】19世紀の欧米諸国(1) 英・仏・伊・独
(1)イギリスの自由主義 世界No1!
(2)ヴィクトリア時代のイギリス
(3)フランスの政体変遷
(4)イタリアの統一
(5)ドイツの統一
(6)ドイツの発展
(7)ビスマルク体制


(1)イギリスの自由主義
ポイント①宗教で差別されることはない!
キリスト教徒であれば差別されることはなくなった

・アイルランド併合(1801)
カトリックが多い
↓↓
2つの法で宗教自由が達成
[1]審査法廃止(1828)
非国教徒(ピューリタンなど)も公職就任が可能に(カトリック教徒は除く
※「審査法」はチャールズ2世時のカトリック勢力に対抗して議会側が制定(1673)した。=イギリス国教会のみ公職に就ける法。
↓↓
[2]カトリック教徒解放法(1829)
オコンネル尽力。カトリック教徒も公職就任が認可

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②みんなが選挙に行けるための改革!
数回にわたる選挙法改正と選挙権の拡大

産業資本家の台頭
第1回選挙法改正(グレイ内閣)(1832)
腐敗選挙区の廃止
産業資本家に選挙権付与(労働者はまだ)
↓↓
チャーティスト運動(1830~1850末)
労働者の政治運動
人民憲章(ピープルズ=チャーター)
↓↓
第2回選挙法改正(1867)
都市労働者に選挙権付与
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント③自由な貿易を目指して!
イギリスの自由貿易主義体制の確立

19C英の産業資本家は自由貿易主義(体制)を望む

・穀物法の制定
地主保護のため輸入穀物に高関税。
→英国内の高い穀物を買わなくてはいけない・・。
↓↓
産業資本家は反発。(給料を上げないとダメだから)
↓↓
反穀物法同盟(1839)
コブデン、ブライト

さらに・・
ジャガイモ飢饉(1845~1847)
アイルランドで発生。餓死者も出る。
↓↓
ついに
[1]穀物法廃止(1846)

[2]東インド会社中国貿易独占権の廃止
→商業活動そのものも全面禁止
→民間の会社が貿易できるようになる。
(→中国にアヘンを売りに行く)

[3]航海法廃止(1849)
(「航海法」の制定はクロムウェル(1651)。自国か相手国の船のみに制限する法)

↓↓
これら3つで、自由貿易主義が完成。

 


(2)ヴィクトリア時代のイギリス
ポイント①当時のイギリスは世界一の国家
産業革命を完成したイギリスの繁栄

(イギリス)
【ヴィクトリア女王】(位1837~1901)64年
ヴィクトリア時代=「世界の工場
ロンドン万国博覧会(1851)
世界初。英の国力を見せつけた

パクス=ブリタニカ(イギリスの平和)
圧倒的な工業力と軍事力
世界に自由貿易主義を拡大

イギリス二大政党
自由党(旧ホイッグ党)】グラッドストン
・産業資本家・労働者の支持
・自由貿易主義、平和外交
・アイルランド自治に寛容

保守党(旧トーリ党)】ディズレーリ
・地主・貴族の支持
・保護主義、強硬外交
・アイルランド自治に否定的

ポイント②自由党と保守党の内閣
政策は違うけれど、目指すものは同じ

グラッドストン(自由党)】国内
教育法(1870)
学校を作った。投票の仕方などを教える。
労働組合法(1871)
第3回選挙法改正(1884)
農村、鉱山労働者に選挙権付与
注・✕アイルランド自治法案は「否決」される

ディズレーリ(保守党)】外交(強硬)
スエズ運河の支配(1875)
インド帝国の成立(1877)
ベルリン会議に参加(1878)

交代でバランスよく内外政策を進めた

 




(3)フランスの政体変遷

ポイント①念願の普通選挙!のはずが…
まとまらないフランスの第二共和政

(フランス)
二月革命(1848.2)で国王ルイ=フィリップが亡命
↓↓
【第二共和制】(1848~1852)
臨時政府(1848.2)
ルイ=ブラン
(社会主義者・・労働者や失業者の支援)
・男性普通選挙の公約
国立作業場(失業者対策)
↓↓
四月普通選挙
社会主義力の敗北(産業資本家、農民から反発)
国立作業場の閉鎖
↓↓
六月蜂起(暴動)→鎮圧
社会主義者、労働者が蜂起
↓↓
ルイ=ナポレオン
が大統領に
(ナポレオン1世の甥)
1851年クーデタ
武力で議会を解散。独裁体制に。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②皇帝政治の復活!?ナポレオン3世の登場
フランスをどのようにまとめたの?

第二帝政(1852~1870)
ナポレオン3世 大統領→国民投票で皇帝に
ボナパルティズム(統治体制)ボナパルト風=ナポレオン1世と似た
→全フランス国民の利害対立を利用し政権を維持(独裁)
国内は平和

(多くの対外戦争)
・クリミア戦争(1853~1856)
・アロー戦争(1856~1860)
・インドシナ出兵(1858~1867)
・イタリア統一戦争(1859)
メキシコ出兵(1861~1867)→失敗
プロイセン=フランス(普仏)戦争(1870~1871)
スダンの戦いに敗れ捕虜となる
↓↓
第三共和制へ・・

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント③第三共和制の時代
独裁者がいなくなったフランスはやはり・・

第三共和制(1870~1940)70年
臨時政府の発足
代表:ティエール→独(旧プロイセン)と休戦
独の条件を何でも飲む

↓↓ 弱腰に市民は反発

パリ=コミューン(1871)
労働者による自治政府→独と仏政府ティエールに弾圧される
「血の1週間」

初代大統領ティエール(任1871~1873)
第三共和制のスタート
しかし情勢は不安定・・


(4)イタリアの統一
ポイント①イタリア統一の難しさとは?
北部・中部・南部で異なる世界が展開

西のサルデーニャ王国が統一運動のメインとなる
北部:ロンバルディア・ヴェネツィア・南チロル(墺領)
中部:ローマ教皇領など(仏軍)
南部:両シチリア王国

※サルデーニャ王国領のサヴォイヤ、ニースは仏人が多い。

ポイント②統一運動の開始!
外交や交渉を駆使した巧みな統一方法

【サルデーニャ王国】(1720~1861)
国王:ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
首相:カヴール(現実主義・冷静)→巧みな外交

クリミア戦争参戦(露英仏VSトルコ)
英仏の要請→仏ナポ3世に顔を売った。。
サルデーニャの国際的地位が向上。

イタリア統一運動】(1859)
イタリア統一戦争(1859)
サルデーニャ王国 VS オーストリア
・北部ロンバルディア獲得(墺→伊)
↓↓
中部イタリア併合
中部には仏軍がいる。ナポレオン3世と交渉
→仏にサヴォイア・ニースを割譲。
→併合を承認される。
↓↓
・南部:ガリバルディ(千人隊・赤シャツ隊)(元青年イタリア)
両シチリア王国を征服
→サルデーニャに領土を譲る
↓↓
イタリア王国の成立(1861)
↓↓
カブール没→大きな戦争に便乗する戦略に変わる。
ヴェネツィア併合(1866)(墺→伊)
普墺戦争
(ビスマルクが事前に伊と同盟)
↓↓
教皇領占領(1870)(仏→伊)
普仏戦争

ポイント③イタリア統一後のトラブル!!
イタリアが抱えた問題をみる

「未回収のイタリア」
トリエステ
南チロル(墺領土のまま)
→墺 VS 伊 対立に・・





(5)ドイツの統一
ポイント①ドイツ統一の難しさとは?
キリスト教の宗派対立が大きな問題となる

キリスト教の宗派対立
・プロイセン王国+北ドイツ→プロテスタント
VS
・西南ドイツ→カトリック
西南ドイツの本音「プロイセンよりオーストリア(カトリック)にドイツ統一してほしい・・」

プロイセン「墺が負けたら今度は仏に泣きつくかもしれない・・その2つとくっつくのは邪魔したい。」

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②ドイツは「鉄」と「血」で統一する!?
プロイセン王国がドイツの統一にむけて動き始める

プロイセン王国の統一(プロテスタント)

国王:ヴィルヘルム1世(位1861~1888)
↓↓ 任命
首相:ビスマルク(任1862~1890)28年(ユンカー出身)
「鉄血政策」
→ドイツ統一は、宗教が違うので話し合いや多数決ではムリ。武器(鉄)と兵士(血)で、軍事的に統一するしかない・・。

ビスマルクのドイツ統一の3つの戦争
[1]デンマーク戦争(1864)
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン(ドイツ人が多い)(デ→普)
墺を誘って戦う。普〇 VS デ✕
墺との共同管理をもちかけていたが・・やっぱり墺には管理させない(挑発)
↓↓
[2]プロイセン・オーストリア(普墺)戦争(1866)
普〇 VS ✕墺
↓↓
北ドイツ連邦を発足
プロイセンが盟主となってまとまる。西南ドイツは入らない。
「次は仏を討つ・・」

普墺戦争に敗れた墺は国の体制を変える・・
オーストリア=ハンガリー(二重)帝国
ハンガリーに自治を付与して昇格させた。その代わりスラヴ人が暴動を起こしたら一緒に鎮圧してもらうことを約束。

スペイン王位継承問題
普王ヴィルヘルム1世と仏が会談。
→ビスマルクは仏を無礼な態度だったと発表して挑発。
↓↓
[3]プロイセン・フランス(普仏)戦争(1870~1871)
ナポレオン3世 スダンで捕縛
普〇 VS ✕仏
仏が敗れたことで、西南ドイツは頼る相手がいなくなり、ドイツに組み込まれる。
↓↓
ドイツ帝国成立(1871)
ドイツ統一達成
(仏ヴェルサイユ宮殿にて)

(岩倉使節団 訪独1873)


(6)ドイツの発展
ポイント①ドイツ帝国の大いなる発展!
イギリスを猛追するドイツの工業化

ドイツ帝国(1871~1918)47年
皇帝:ヴィルヘルム1世
宰相:ビスマルク(任1871~1890)

連邦参議院
帝国各地の代表者。立法・条約。

帝国議会
全ドイツ25歳以上の男性普通選挙で選ばれる。予算の審議権。

普仏戦争→仏との講和条約(1871)
多額の賠償金とアルザス・ロレーヌを獲得(仏→独)
地下資源(石炭・鉄鉱石)豊富な鉱山地帯。
↓↓
第2次産業革命(重工業)
保護関税法
輸入品に関税。国内産業を守る。
→1880年代末、工業生産数は世界第2位!(1位は米)

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②「ドイツ国民」としての団結は超重要!
ビスマルクが徹底してこだわったこと

ドイツ国民の団結を揺るがすものはつぶす・・!
ドイツ「帝国の敵」を作る
[1]VS カトリック
・文化闘争
西南ドイツカトリック政党が反発
→ビスマルクは圧力をかける

【ビスマルクの社会政策】
[2]VS 社会主義勢力

ドイツ社会主義労働者党の結成(1875)
世界初の社会主義政党

社会主義者鎮圧法の制定
非合法とした。

労働者と資本家のけんかを止める。
「労働者は社会主義が守るんじゃなくて国が守るから!」
→疾病保険制度、災害保険法、養老保険法





(7)ビスマルク体制
ポイント①当時のヨーロッパは一触即発!?
問題を抱えていた国々とビスマルクの狙いとは?

[1]独 VS 仏
普仏戦争以降関係悪化・・(ドイツを許せない by 仏)

[2]露 VS 墺
バルカン半島をめぐり対立→ビスが三帝同盟で仲介

[3]伊 VS 墺
「未回収のイタリア」をめぐり対立→ビスが三国同盟で仲介

ポイント②目指すはフランスの孤立!
ドイツの安定のために外交述を駆使するビスマルク

ビスマルク体制】(1870~1890年代)
ビスマルク(独)は、仏に露や墺と手を組んでほしくない。
挟み撃ちされたくない。仏を孤立させたい。

三帝同盟(1873~1878)
ドイツ、オーストリア、ロシア

ベルリン会議(1878)
主催者:ビスマルク
露・墺がバルカン半島をめぐり対立
独は墺の要求を飲んだ。
↓↓
ロシアはいったん手を離す。

・独墺同盟(1879)

新三帝同盟(三帝協商)(1881~1887)
ドイツ、オーストリア、ロシアが再度手を結ぶ

仏と伊がチュニジア保護国をめぐってけんか。
↓↓
三国同盟(1882)
ドイツ・オーストリア・イタリア

・新三帝同盟の崩壊

再保障条約(1887~1890)
ドイツ・ロシアの秘密条約

「光栄ある孤立」
19C後半以降のイギリス

仏はビスマルクの思惑どおり、ひとりぼっちに・・

 


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【25】ウィーン体制の成立と崩壊

251003
【25】ウィーン体制の成立と崩壊
(1)絶対王政時代への復帰
(2)ウィーン体制への反発
(3)ウィーン体制の動揺
(4)ウィーン体制の崩壊
1830七月革命、1848二月革命でウィーン体制は崩れていく・・


(1)絶対王政時代への復帰
ポイント①会議は踊る!されど進まず・・・
ナポレオン失脚後のヨーロッパ秩序の回復

絶対王政に戻そう

【ウィーン会議】(1814~1815)オーストリアの首都
メッテルニヒが主催(オーストリア外相→宰相)
オスマン帝国を除く全ヨーロッパ君主
→大国の勢力均衡を協議

理念を決めたのはタレーラン(仏外相)
正統主義・・フランス革命前の状態、絶対王政へ戻そう。領土・主権。

「会議は踊る。されど進まず」
各国の利害がぶつかって進展せず・・1年かけてようやくまとまる。

ポイント②フランス革命前のヨーロッパへ!
各国の領土変更と国家体制の変更

ウィーン議定書(1815)
<領土変更>
・イギリス・・セイロン島(蘭→英)、ケープ植民地(南ア)獲得
・ロシア・・ポーランド立憲王国の国王を兼ねる(ポーランド復活)
・プロイセン・・ラインラントを獲得
・オーストリア・・ロンバルディア・ヴェネツィア獲得→北イタリア
(19Cイタリア統一時のトラブルの種に・・)
・オランダ・・南ネーデルラント(ベルギー)獲得

<国家体制の変更(国の形の変更)>
ドイツ連邦の成立(盟主オーストリア)
「革命前に戻すなら神聖ローマ帝国復活じゃないのか・・?いや、どうせみんな皇帝の言うことは聞かない。それなら墺がリーダーでまとめよう。」
スイス永世中立(他国の戦争に干渉しない)
・フランス・スペイン・・ブルボン朝復活
・オランダ王国の成立

ポイント③ウィーン体制を支える2本の柱
各地の自由主義・国民主義を弾圧

ウィーン体制
革命前の絶対王政に戻す。市民が反発してきたらつぶす。2つの同盟
↓↓
1【神聖同盟】(1815)
アレクサンドル1世(ロシア皇帝)が提唱
「同じキリスト教同士、助け合おう(カトリックもプロテスタントも)」
・全ヨーロッパ君主参加
(不参加)
・英(英にとって不都合)
・オスマン(イスラーム)
・ローマ教皇(カトリックだから。プロテスタントはちょっと・・)

2【四国同盟】(1815)
・ヨーロッパの現状維持を目的
・英・露・墺・普の軍事同盟
途中で仏が加盟して五国同盟となる


(2)ウィーン体制への反発
ポイント①ヨーロッパで起きたウィーン体制への反発
自由主義運動・国民主義運動の頻発

4つの自由主義運動→全て失敗✕
[1]✕ブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)ドイツの自由を!
→オーストリア軍により鎮圧

[2]✕カルボナリ(炭焼党)イタリアの自由を!
→オーストリア軍の干渉により鎮圧

[3]✕スペイン立憲革命「憲法を作ってブルボン朝の王の力を制限しよう」→フランス軍の干渉で挫折

[4]✕デカブリストの乱(1825)ロシア「皇帝独裁反対!」
→新帝ニコライ1世により鎮圧

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ナショナリズム(国民主義)】→独立したい!
・〇ギリシア独立戦争(1821~1829)→成功
(当時、オスマン帝国領土。俺たちはトルコ人じゃない、ギリシア人だ!)英、仏、露も参戦。英バイロン、仏ドラクロワも応援。
→ロンドン会議(1830)
ギリシアの独立を国際的に承認
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②ラテンアメリカの独立
独立にあたってヨーロッパはどう対応したのか・・

【ラテンアメリカ】
ハイチ独立(1804)カリブ海の小さな国(仏の支配下)
ラテンアメリカで初の独立。黒人共和国。
トゥサン=ルベルチュール(黒人指導者)の独立闘争
ナポレオン軍により捕縛・獄死

シモン=ボリバルの活躍(ベネズエラ出身)
現地生まれの白人地主クリオーリョ(※自分たちの利益のために独立したので、その後も先住民は土地問題に悩まされる・・)
ナポレオンが暴れてヨーロッパが混乱。独立するなら今かも?
(スペイン支配下)ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ボリビア独立

サン=マルティンの活躍(アルゼンチン出身)
クリオーリョ
(スペイン支配下)アルゼンチン、チリ、ペルー

【その他】
・メキシコ独立 スペイン支配→イダルゴ神父の独立宣言
ブラジル独立 ポルトガル支配→ポルトガル王子が皇帝即位

ラテンアメリカ独立に際して、列強指導者の対応は・・
(墺)メッテルニヒ・・反対!独立運動の弾圧を企図→断念
(英)カニング・・賛成!ラテンアメリカをイギリスの製品市場にしたい
(米)モンロー・・賛成!米欧両大陸の相互不干渉 モンロー宣言(教書)→アメリカで起きていることに欧は口出ししないで・・とメッテルニヒを牽制





(3)ウィーン体制の動揺
ポイント①ブルボン復古王政と七月革命
復活した王朝への不満と革命の勃発

(フランス)ナポレオン失脚後・・
ブルボン復古王政】(1814~1830)
ルイ18世(位1814~1824)
↓↓
シャルル10世(位1824~1830)
反動政治の強化

・アルジェリア出兵(1830)
政治から外に目をそらせた

その間に絶対王政への復帰を急いだ・・
・未招集議会の解散(議会を開くと言いながら開かなかった)
・選挙資格の大幅制限
・言論・出版の統制を強化

↓↓そんなことはさせない!

七月革命】(1830)
市民が暴動を起こす。
シャルル10世は亡命、ブルボン朝は崩壊。
ルイ=フィリップの即位(オルレアン家)

ポイント②七月革命の影響
ヨーロッパ各地で起きたウィーン体制への反発

ヨーロッパの自由主義、国民主義

【七月革命の影響】
↓↓
・〇ベルギー独立
オランダから

・✕ポーランド蜂起
ロシア支配から離脱を求め蜂起→鎮圧
ショパン『英雄』。祖国ポーランドへの思いとロシアへの怒り)

・✕ドイツ反乱
各地で憲法が制定→鎮圧

・✕イタリア反乱
カルボナリが蜂起するもオーストリア軍により鎮圧
→カルボナリは解散
→「青年イタリア」リーダーはマッツィーニ

 


(4)ウィーン体制の崩壊
ポイント①金持ちしか相手にしてくれない!?
フランスの七月王政への不満と革命の勃発

七月革命によりブルボン朝が倒れ・・

七月王政(1830~1848)
ルイ=フィリップ
・極端な制限選挙
少数の銀行家・大ブルジョワジー(金持ち)の利益を中心とした政治
人口の1%未満しか投票に行けない

・産業革命の進展
中小産業資産家や労働者の登場(新しい階級の登場)
男性普通選挙を求めて、選挙法改正運動を展開

↓↓ パリ市民の不満が爆発。

二月革命(1848)
パリの労働者、学生、資本家による暴動。七月王政を打倒。

カール・マルクス(独)の影響
「万国のプロレタリア(労働者)よ、団結せよ!」

↓↓
第二共和制へ・・

社会主義者 ルイ・ブラン
労働者、失業者側の味方
国立作業場を作る→選挙で負けて後に閉鎖・・

ポイント②二月革命の各地への影響
ウィーン体制の完全崩壊と新たなヨーロッパへ・・

仏二月革命はヨーロッパ各国に大きな影響を与えた!
「諸国民の春」(1848年革命)

【二月革命の影響】
↓↓
ウィーン三月革命
→メッテルニヒ失脚。ウィーン体制の崩壊。

ベルリン三月革命
国王に憲法制定を約束
ーーーーーーーーーーーーーーーー

オーストリアは多民族国家
・✕ハンガリー民族運動
マジャール人(アジア系)がオーストリアから独立を求めた。
コシュートの独立宣言→鎮圧

・✕ベーメン(ボヘミア)民族運動
チェック人(スラヴ系)がオーストリアから独立を求めた。
プラハを中心に蜂起→鎮圧

ーーーーーーーーーーーーーーー

(独)【フランクフルト国民議会】→失敗
ドイツ統一と憲法制定を協議

大ドイツ主義✕ VS 〇小ドイツ主義
大ドイツ主義:オーストリア中心で独統一しよう
小ドイツ主義プロイセン中心で独統一しよう・オーストリアは除く(ドイツ人以外も住んでるから)
→小ドイツ主義が勝ったが、プロイセンの王が独統一を拒む。オーストリアに対して気まずいから。

(伊)【イタリア民族運動】
・サルデーニャ王国の統一運動→✕
・ローマ共和国の建国(青年イタリアのマッツィーニが自分たちの国を作ろうとした)→✕ルイ・ナポレオンにより鎮圧

(英)【チャーティスト運動
労働者の参政権要求。議会請願、デモ運動、ストライキの実施。

 


 

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【24】フランス革命とナポレオン

251002
【24】フランス革命とナポレオン
(1)革命前夜の状況と革命の勃発
(2)国民議会と立法議会
(3)国民公会と総裁政府
(4)ナポレオン時代のはじまり(1799~1815)
(5)ナポレオン時代の終焉

・国民議会(立憲君主)王様はあり。ルールに基づく。
・立法議会(穏健共和)王様は不要。(緩く)
・国民公会(急進共和)王様は不要。(早く・独裁)
・総裁政府(5人。混乱)
(ナポレオン)
・統領政府(秩序の回復)
・第一帝政(大陸制覇)仏革命の理論を拡大


(1)革命前夜の状況と革命の勃発

ポイント①こんなフランスはおかしい!
アンシャン・レジームの矛盾と財政の危機

アンシャン・レジーム(旧体制)
第一身分:聖職者 (特権身分)免税 ↘
第二身分:貴族  (特権身分)免税 →人口の2%
第三身分:平民 98%
・富裕層(立憲王政)王様はいてもいい。法律に則ってほしい。
・中産階級(穏健共和)王様は要らない
下層階級(急進共和)王様は要らない。早急な改革を望む。
→小作人2000万人・都市労働者400万人。人口の90%

束縛はイヤだ
・啓蒙思想の普及。自由、平等。
・アメリカ独立革命の成功

ヨーロッパ内の戦争、植民地戦争、米独立戦争の支援など
↓↓
財政難

ポイント②革命前夜の財政改革
特権身分への課税を試みるも・・

【財政改革(ルイ16世・マリ=アントワネット)】
2人の改革
テュルゴー
重農主義。穀物取引の自由化、ギルドの廃止→失敗

財務総監ネッケル
特権身分への課税→猛反発

↓↓

三部会の再開(1789)170年ぶり
(1302年フィリップ4世が開く→1614年ルイ13世が停止)
身分別議決法(課税反対2・賛成1にしかならない)をめぐり紛糾。

シェイエス(下級聖職者)
『第三身分とは何か』・・特権身分を批判
(「全てだ」)

・第三身分の代表者が三部会から離脱
↓↓
・「国民議会」の開催(1789年6月)
球戯場(テニスコート)の誓い(1789)
「憲法制定まで解散しない!」

国王軍がヴェルサイユへ集まり始める・・


(2)国民議会と立法議会
ポイント①いよいよ革命のスタート
革命の初期は思いもよらぬ形で波瀾万丈・・

国民議会】(1789~1791)
立憲君主派が中心=王様はいてもいい。

<フランス革命スタート!>
バスティーユ牢獄襲撃(1789.7.4)
政治犯が収容。武器があった。
ネッケルの罷免と国王軍のヴェルサイユ集結に市民が反発。襲撃。
↓↓
しかし農民反乱を誘発してしまった。全国に広がる。
↓↓
国民議会はあわてて農民反乱をおさえようとする。
<2つの策>
[1]封建的特権の廃止
中世から続く諸々の税を廃止(領主裁判権、十分の一税、死亡税など)
※封建地代は有償廃止=「ただし土地代だけは払ってね。」
→このときの国民議会(立憲君主派)は地主が多いため。

[2]「人権宣言」の発表(1789)
革命の方向性を示す
貴族:ラ・ファイエットら起草(米独立戦争の義勇軍)
自由・平等

ポイント②革命の急進化!国王への信頼は下がり続ける↓↓
共和主義者の人気が上昇

ヴェルサイユ行進(1789.10)
パリの穀物価格高騰を受け、婦人らが雨中20kmを行進。
「パンが買えない!」
国王一家がヴェルサイユからパリへ連行される。

ミラボーの死去
国王と国民議会との裏取引役。王は不安に・・
↓↓
ヴァレンヌ逃亡事件(1791.6)
国王一家がオーストリアへ逃亡→失敗。国王の権威失墜・・!
→代わりに共和主義者の台頭。

ピルニッツ宣言(1791.8)
オーストリア皇帝とプロイセンが革命への干渉を諸国へ呼びかけ。
「仏王に手を出すな」と脅迫。
↓↓
国民議会はプロイセンとの関係を考え、憲法制定。

1791年憲法の制定
立憲君主政、財政資格選挙(金持ちのみ選挙)→国民議会の解散

 

ポイント③国王のいないフランスへ
共和制へ向けての移行と訪れた苦難

制限選挙(金持ちのみ投票)が行われる
↓↓
立法議会(1791~1792)】(穏健共和)

・議会内での対立
フイヤン派(立憲王政=国民議会)vs ジロンド派(穏健共和)

ジロンド派内閣の成立
王様には消えてほしいが、ピルニッツ宣言がある・・。それならまずオーストリアを倒す必要がある。

対オーストリア宣戦→フランスは劣勢
各地より義勇軍がパリに集結。

8月10日事件(1792.8)】(=テュイルリー宮殿襲撃)
・サンキュロット(都市労働者)や義勇兵が、仏国王のいるテュイルリー宮殿を襲撃。
・議会は裕福な人たちだから通らない。直接王に直談判。実力行使。
→立法議会は王権の停止を宣言。議会を解散。
普通選挙を約束して混乱を鎮める。

↓↓ 革命軍はやる気が上がって

ヴァルミーの戦い(1792.9.20)
仏革命軍が初めてプロイセン軍に勝利〇

 




(3)国民公会と総裁政府
ポイント①ついに初の男性普通選挙の開催
ジャコバン派政権の恐怖政治

初の男性普通選挙の結果・・
国民公会(1792~1795)】
ジャコバン派(急進共和派)
貧困市民・農民代表

ルイ16世処刑(1793)
第一共和政(仏初の王がいない状態)(1793~1804)

第1回対仏大同盟(1793~1797)
英首相ピットの提案
「他の国に広がらないようにフランス革命をぶっつぶそう・・」

それに対して国民公会は
・徴兵制の実施
→ヴァンデーの農民反乱(徴兵制は失敗)
山岳派(ジャコバン派の過激派)が急速に台頭

恐怖政治(1793~1794)
公安委員会に権力を集中
指導者:ロベスピエール
反対派はギロチンで処刑される。

封建地代の無償廃止
借りていた土地はただで農民のものになった。小作農→自作農に。
これで農民はもう満足してしまった。
<※人口の8割以上が自作農に→仏で産業革命が遅れる原因になる>

・最高価格令、革命暦(共和暦)、メートル法の制定

1793年(ジャコバン)憲法
男性普通選挙制、主権在民、人民の生活権、労働権
→混乱していて実施されず。。

テルミドール(9日)のクーデタ(1794.7)
ロベスピエール派の逮捕・処刑

 

ポイント②もう独裁はこりごり。リーダー5人の政府
右派・左派の攻撃をうけ動揺する政府

総裁政府(1795~1799)】
1795年憲法の制定
財産資格による制限選挙制の復活
5人の総裁による政府
→時間がかかる・・

王党派の反乱(フランス革命を抑えたい)(右派・保守)

バブーフの陰謀(左派)
私有財産の廃止を計画。共産主義のはしり。→処刑される

ナポレオン=ボナパルトの登場】
イタリア遠征
仏〇 VS ✕ オーストリア
→第1回対仏大同盟の崩壊

エジプト遠征
仏✕ VS 〇英
英のインドルートを邪魔しようと思ったが・・
→英提督ネルソンに敗北
第2回対仏大同盟の結成

フランス革命の敵であるオーストリアと英と戦ったので国民に人気が出る。
↓↓
ブリュメール18日のクーデタ(1799.11)
ナポレオン、総裁政府を打倒
→フランス革命の集結

<フランス革命はバスティーユで始まりブリュメール18日で終わる>

 


(4)ナポレオン時代のはじまり
ポイント①統領政府時代のナポレオン
国民からの人気を集めるための方法

統領政府(1799~1804)】
・リーダー3人の統領。ナポレオンは第一統領。事実上の独裁官。

ローマ教皇と和解
カトリック信仰を正式に復活。
(対立していた理由。フランス革命はキリスト教に敵対する革命でもあったから。第一身分が聖職者なので)

アミアンの和約
英との休戦条約
第2回対仏大同盟が崩壊
→フランスに平和が戻る
終身統領に。。

ナポレオン法典(1804)
私有財産の不可侵
、契約の自由などを規定
=フランス革命の成果を法的に保障した。
(ナポレオンの人気が一気に上昇!)

ポイント②皇帝に即位した英雄ナポレオンの動向
大陸制覇にむけての遠征をスタート

国民投票でナポレオンが皇帝に即位
第一帝政(1804~1815)
ナポレオン1世(位1804~1815)

周りの諸国が警戒
↓↓
第3回対仏大同盟(1804~1815)(英・墺・露)

トラファルガーの海戦 ✕
英提督ネルソンに敗北

アウステルリッツの三帝会戦
ロシア皇帝、オーストリア皇帝、仏ナポレオン皇帝が三つ巴。
仏勝利〇、ロシアオーストリアを撃破
第3回対仏大同盟が消滅

ライン同盟の結成(1806)
西南ドイツ諸侯とナポレオンの同盟
→神聖ローマ帝国消滅(1806)

大陸封鎖令(ベルリン勅令)(1806)
(プロイセンをぶっとばして、プロイセンの首都ベルリンで発布したので「ベルリン勅令」ともいう。)
→大陸諸国とイギリスの通商や交通を全面的に禁止。
「今まで英から買っていたものは仏から買いなさい」→他国を仏の市場にする

ティルジット条約
プロイセンは莫大な賠償金と領土の大半の割譲

 




(5)ナポレオン時代の終焉
ポイント①ナポレオンを追い出せ!
プロイセンの近代化改革とスペイン反乱

プロイセンはティルジット条約が許せない・・
↓↓
プロイセン改革】強い国にする!
首相シュタインハルデンベルク
農民解放
・行政機構の改革、営業の自由化など

「ドイツ国民に告ぐ」フィヒテ
「私たちはドイツ人なんだ。仏の支配はおかしい」
国民意識を人々に植え付けた。

スペイン反乱】(1808~1814)
ナポレオン兄が国王に即位
↓↓
農民が主体となってゲリラ戦で抵抗
(→絵画『1808年5月3日』ゴヤ)

 

ポイント②ナポレオンの没落までの道
各地で発生したナショナリズム運動

“ナポレオンの牙が折れる瞬間・・!”

ロシア(モスクワ)遠征(1812)
ロシアは大陸封鎖令を無視。英と貿易再開。
ナポレオン軍モスクワへ・・
→ロシアの焦土戦術により失敗
60万の軍が壊滅・・
↓↓
【ナポレオンの失脚】
ライプツィヒの戦い(1813)=諸国民戦争
ヨーロッパ連合〇 VS ✕ナポレオン
ナポレオン皇帝退位
エルバ島へ流刑。(実家コルシカ島のすぐ北)
↓↓
ブルボン朝の復活(1814)
絶対王政に戻りそうになる・・
→ナポレオン、エルバ島を脱出
パリに帰国、皇帝に復位
↓↓
ワーテルローの戦い(1815)
ヨーロッパ諸国が攻める。
ナポレオン再退位
セントヘレナ島へ流刑(アフリカの西)

※ナポレオンの侵攻により国民意識(ナショナリズム)が芽生えた。「自分たちはドイツ人、スペイン人。フランス人は嫌だ」

 


 

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【22】イギリスの市民革命

250920
【22】イギリスの市民革命
(1)国王と議会の対立
(2)クロムウェルの独裁と王政復古
(3)議会政治の完成と産業革命の始まり
(4)産業革命
(5)産業革命が社会に及ぼした影響


(1)国王と議会の対立
ポイント①イギリスの伝統を守らない王の登場
ステュアート朝の成立と議会の対立
=================
(ステュアート朝)
・ジェームズ1世(祖父)
・チャールズ1世(父)✕処刑
・1649 ピューリタン革命
・チャールズ2世(兄)
・ジェームズ2世(弟)亡命
・1688 名誉革命
=================
エリザベス1世没でテューダー朝が途絶える・・
↓↓
ステュアート朝を創始(1603~49、1660~1714)
ジェームズ1世】(位1603~1625)
スコットランド王で英王を継承。

・英の伝統を無視。専制政治。王権神授説。
→議会の不満

イギリス国教会の強制
→ピューリタン(カルヴァン派)の不満
→ピルグリム・ファーザーズとなり北米へ渡る(1620)

チャールズ1世】(位1625~1649)
ジェームズ1世と同じ専制政治・・

議会は「権利の請願」を提出。
課税の議会同盟や不法逮捕の禁止
→議会を強制的に解散させる(11年議会がない)

スコットランドの反乱
チャールズ1世がスコットランドにもイギリス国教会を強制したため。
↓↓
・短期議会の招集(1640)
鎮圧費のため増税を提案。3週間のみ。議会の反発で解散。スコットランドを鎮圧できず。
↓↓
・長期議会の招集(1640~1653)
スコットランドへの賠償金支払いの増税。
王党派と議会派の対立。

ポイント②ついに勃発!ピューリタン革命
国王を処刑し圧政から解放されたイギリス市民

ピューリタン革命(1640~1660)】
王党派・・貴族、特権商人
VS
議会派
長老派・・立憲王政(王はいてもいいがルールにのっとってほしい)
独立派・・制限選挙の共和制(王は不要)
水平派・・普通選挙の共和制(王は不要)

内乱の開始(1642)
王党派優勢
↓↓
クロムウェル(ピューリタン)率いる議会派独立派)の台頭
↓↓
1645 ネーズビーの闘い
議会派の勝利
チャールズ1世処刑(1649)

共和制が始まる・・!


(2)クロムウェルの独裁と王政復古
ポイント①イギリス史上最初で最後の共和制!
市民は圧政から解放されて生活できるハズだった・・

英・共和制(1649~1660)11年
クロムウェルの独裁

アイルランド征服(1649)
王党派の討伐を口実。イギリス人地主へ土地を分配。アイルランド人の小作人化が進む。

スコットランド征服(1650)
残存する王党派を討伐

航海法(1651)
英への輸出入は自国船か相手国船に限定。
→オランダの中継貿易(転売)を閉め出す。
第1次イギリス=オランダ戦争(1652~1654)
英の勝利。海上覇権を得る。

護国卿に就任(1653)
議会を解散。軍事独裁政治を断行。
ピューリタンは清貧。市民の娯楽も禁止される。
→不満がたまる・・

ポイント②スチュアート朝の復活
クロムウェルの死後、国王の支配が復活

クロムウェルが亡くなり・・
兄【チャールズ2世】(1660~1685)
王政復古。亡命先のフランスから帰国。
専制政治とカトリックの復活。(仏ルイ14世に影響される。)

議会は2つの法律王に対抗する
↓↓
(1)審査法(1673)
公職就任者をイギリス国教徒のみに限定する。
(ピューリタンはクロムウェルの影響で不人気)

(2)人身保護法(1679)
国王による不当な逮捕、拘禁の防止

議会の仲間割れ。
王の弟ジェームズ2世への王位継承で議会が分かれる。

トーリ党保守党の前身)・・賛成(今までのトーリに保守)
ホイッグ党自由党の前身)・・反対

多数決でトーリ党が勝つ
↓↓
弟【ジェームズ2世】(1685~1688)
カトリックを保護専制政治の強化
↓↓
名誉革命(1688~89)
(流血さわぎにならなかったため名誉という)

国王に出ていってもらうことを議会が決定!
オランダ総督(オラニエ公ウィレム3世)と妻メアリ(ジェームス2世の娘。スチュアート朝)を国王として招致。
(※オラニエ公ウィレム1世はオランダ独立戦争を率いた人)
↓↓
ジェームズ2世亡命
ようやく専制政治を追放・・!

 

ポイント③国王は議会に歯向かえない
名誉革命で完成したイギリス立憲政治

夫婦の共同統治
【ウィリアム3世】
【メアリ2世】
・「権利の宣言」(1689)
議会の承認による課税、恣意的な逮捕の禁止など

・「権利の章典」(1689)
権利の宣言を成分化。立憲政治の出発。
=イギリスの王は議会に刃向かわない

アン女王】(位1702~1714)
大ブリテン王国の成立(1707)
同君連合だったイングランドとスコットランドが合併。

アン女王没でスチュアート朝はとだえる・・





 


(3)議会政治の完成と産業革命の始まり
ポイント①「王は君臨すれども統治せず」
現在まで続くイギリス国王の地位を象徴

アン女王の死=スチュアート朝の断絶
ハノーヴァー朝(1714~1901)

ハノーヴァー選帝侯(ドイツ出身)
ジョージ1世(位1714~1724)
国王は英語を話せず政治に無関心。。旅行ばっかり。。
↓↓
内閣の成立(=王に代わって政務を担当する組織)
議会内の多数党によって組織

内閣「議会」に対して責任を負う(=責任内閣制
(※「王」に対してではない)

例:内閣が政治に失敗した。議会に「内閣やめろー」と言われたやめなくちゃいけない。

ウォルポール(任1721~1742)(ホイッグ党)
イギリスの初代首相。
「王は君臨すれども統治せず」

ポイント②なぜイギリスは世界初の産業革命をむかえたのか

ハノーヴァー朝の成立期に産業革命の条件がそろってくる。

3つの要素
資本の蓄積(お金)
市場の確保(市場)
労働力の確保(人)

[1]「資本」の蓄積
・中世からの伝統的な毛織物業の発達→輸出してお金が蓄積されていた
綿織物(キャラコ)(インド産)
軽くて洗える。染めやすい。楽しみやすい。→需要が高まる。
イギリス国内で作れないか・・?
安くて質の良い綿製品が作れたらいいのでは?

[2]「市場」の確保
・仏との植民地戦争の勝利。北米・インドで植民地を獲得
・綿花などの原材料、商品作物を栽培させ、イギリスへ輸出させる。売りに行くこともできる。

[3]「労働力」の確保
第2次囲い込み(エンクロージャー)18~19C
政府主導。合法的に共有地・耕作地を柵で囲い込む。
↓↓
・ノーフォーク農法(近代農法・農業革命
牛や豚の飼料(かぶ、クローバー)(地力回復)と人間用の大麦、小麦を作る。次の年は場所を入れ替えていく。
→農作業の人手が要らない

大量の失地農→都市へ流入し工場労働者となる。

あらゆる要素がイギリス産業革命を支えていく


(4)産業革命
ポイント①まずは綿工業からスタート!
需要の高い綿製品を安く丈夫につくる工夫

綿工業

大量に作る。同じ品質。
<機械>
(織機・しょっき)布を織る。糸から綿製品を作る。
ジョン=ケイ・・飛び杼(1733)
↓↓
(紡績機)細くて丈夫な糸を作る。
ハーグリーヴズ・・ジェニー紡績機
アークライト・・水力紡績機
クロンプトン・・ミュール紡績機(完成)
↓↓
カートライト・・力織機

・ホイットニー(米)・・綿繰機(わたくりき)。綿花の種を切り離す機械。

ポイント②機械を動かす動力の開発!
人間・牛・馬よりもはるかに強い「力」を開発
<動力>
蒸気機関)物を燃やして生まれる熱を使って動かす。
ニューコメン 蒸気機関
ワット(↑蒸気機関を改良。あらゆる機械の動力となる可能性を開く。完成させた)

(鉄工業)
コークス製鉄法 ダービー父子
固い鉄が作れるようになった。石炭の不純物を除外→高温燃焼が可能。

交通革命
蒸気船
フルトン
初の大西洋横断に成功。今までは風だったが、自力で進める。

蒸気機関車
スティーヴンソン
試運転 ストックトン~ダーリントン間(1825)
営業運転 マンチェスターからリヴァプール間(1830)
→作ったものをすぐ港に運んで輸出できる。

 




(5)産業革命が社会に及ぼした影響
ポイント①イギリスの産業革命は社会そのものを変えた!
産業革命をむかえた国の宿命

産業革命によって「資本主義体制」が確立
↓↓
3つのトラブル
[1]資本家と労働者の対立
産業資本家(経営者)の台頭
対立
資本家(生産手段の所有者)VS 労働者(プロレタリアート)

[2]都市への人口集中
マンチェスター 綿工業
バーミンガム 製鉄業・機械工業
リヴァプール マンチェスターの外港
農村部の人口減少

[3]労働問題
・女性・子どもの労働(ベテランが要らないため)→賃金低下

機械うちこわし運動
ラダイト運動(1811~17)イングランド中・北部
手工業者・労働者たちの暴動

世界の工場」としての地位を確立(1850年頃の英)
加工貿易の形を取る。世界から原材料を得て世界各地へ売る。

ポイント②欧米諸国も産業革命を開始!
イギリス製品に対抗するためには産業革命を起こすしかない!

英は機械を輸出する(1825)
↓↓
【先発産業革命】
・ベルギー(1830)
・フランス(1830~1860)遅い。緩慢。→フランス革命に理由がある。農民

【中期産業革命】
・ドイツ(1840~)重工業
・アメリカ(1830~)労働力不足→南北戦争後、国内市場統合

【後期産業革命】
・ロシア(1861~)資金が不足。仏の資本を導入し1890年代にようやく本格化。
・日本(1870~)
明治政府。殖産工業政策。
日清戦争後→綿織物(軽工業)
日露戦争後→重工業


 

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【21】東欧絶対王政

250917
【21】東欧絶対王政
(1)オーストリア絶対王政
(2)プロイセン絶対王政
(3)ロシア絶対王政
(4)絶対王政時代の文化(1) 科学・哲学
(5)絶対王政時代の文化(2) 政治・経済
(6)絶対王政時代の文化(3) 芸術・文化

西欧絶対王政(16C~18C)→東欧絶対王政(18C)西の失敗を活かして「啓蒙専制君主」が出てくる。


(1)オーストリア絶対王政
ポイント①三十年戦争でオーストリアは得をした!?
「神聖ローマ帝国の死亡証明書」がオーストリアに与えた影響

三十年戦争(1618~1648)
ウェストファリア条約(1648)(カルヴァン派公認)
神聖ローマ帝国は300の領邦に解体。
「神聖ローマ帝国の死亡証明書」

オーストリアの指導者は、代々神聖ローマ皇帝を兼任。
(=学級委員長が生徒会長を兼任)

神ロ皇帝の存在が無意味に・・
→神ロの仕事が減ったから、自国のオーストリアの経営に専念できる。
→オーストリアの全盛期がここから始まる。

オスマン帝国との抗争
第2次ウィーン包囲(1683)
オーストリア〇 VS ✕オスマン帝国
↓↓
カルロヴィッツ条約(1699)
オーストリアはハンガリーなど東欧諸地域を獲得

 

ポイント②偉大なる女帝!マリア=テレジア!
オーストリア発展に尽力した彼女の生涯

マリア=テレジア(位1740~1780)
父カール6世から継承。即位と同時にいちゃもんを付けられる・・。

オーストリア継承戦争(1740~1748)
オーストリア(ハプスブルグ家)・英
VS
プロイセン・バイエルン、ザクセン選帝侯・仏・西

仏の思惑「ハプスブルグ家を倒したい・・。」イタリア戦争以来、仏とハプスブルグ家(独)とは犬猿の仲。
↓↓
アーヘン条約(1748)
マリア・テレジアの継承権を承認
だが、プロイセンへシュレジエン石炭の産地。人口多)を割譲。

何をするにも仏にじゃまをされる。。
オーストリアの国益のため仏と仲直りが必要・・。
外交革命」
シュレジエン奪回をめざすオーストリアが仏に接近
↓↓
イタリア戦争以来のオーストリアと仏の250年の対立が終わる!
娘マリ=アントワネットを仏に嫁がせた。

プロイセンが危機感を感じ・・しかけた。
↓↓
七年戦争(1756~1763)7年
✕オーストリア・・露(女帝)・スウェーデン(女帝)
VS
〇プロイセン・英

墺優勢でプロイセンの都ベルリンを包囲。追い詰めたが・・ロシア女帝(エリザヴェータ)が亡くなり、ピョートル3世に。。彼はフリードリヒ2世(大王)の大ファンで、ロシアはプロイセンに寝返る。
↓↓
マリア・テレジアは、シュレジエン返還をあきらめ、戦争を終わらせた。。

ポイント③革命を試みた皇帝とその結末
富国強兵のための「上からの近代化」

オーストリア

ヨーゼフ2世(位1765~1790)マリアテレジアの長男
啓蒙専制君主
啓蒙主義(理性に基づいて合理的か考える)的政策を実施しつつ、専制政治を行う
→上からの近代化をめざした。

農奴解放令(1781)→✕失敗

宗教寛容令(1781)→✕失敗
カトリック以外を認める
↓↓
貴族から反発。。
2つとも失敗に終わる

・第1回ポーランド分割


(2)プロイセン絶対王政
ポイント①プロイセンという国家の成立
2つの領土が合体して成立したドイツ最強の国家

【プロイセン(プロシア)
2つの国が合体してできた

[1]ブランデンブルク選帝侯国
12C前 ブランデンブルク辺境伯領の成立
(七選帝侯の一つ。金印勅書1356)
15C前 ホーエンツォレルン家の支配始まる

[2]ドイツ騎士団領
13C前 バルト海沿岸への東方植民(神ロが人口増で東へ移った)
16C前 ルター派を受容。カトリックをやめる→プロイセン公国の成立(改名)

↓↓

プロイセン王国
(都:ベルリン)
(同じホーエンツォレルン家の支配なので合体できた。)
スペイン継承戦争で神聖ローマ皇帝側を支援
王国への昇格(1701)
ドイツ最強国家へのし上がる

(父)【フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(位1713~1740)
(兵隊王)
軍備拡張、官僚機構の整備
→絶対王政の確立

ポイント②合理的な絶対王政!?
啓蒙思想の影響を受けた国王の登場

(子)【フリードリヒ2世(大王)(位1740~1786)
啓蒙専制君主
「君主は国家第一の僕(しもべ)」
(=国のために尽くす一番の部下が自分)
どうすればプロイセンが強くなるか・・を考え続けた。

・啓蒙思想家ヴォルテールと親交

・農場領主制(グーツヘルシャフト
西欧への輸出用穀物の生産。(西欧は大航海時代で商工業にシフトして農業人口が減っていたため)大農場経営に。
↑↑
ユンカー
エルベ川以東の領主貴族。グーツヘルシャフトを行う貴族。大王が支援。

サンスーシ宮殿(ポツダム)
(※ドイツ連邦共和国・ベルリン郊外・ポツダム宣言の場所でもある)

・オーストリア継承戦争(1740~)&七年戦争(1756~)
→オーストリアからシュレジエンの獲得
→プロイセンの産業を支える

第1回ポーランド分割(1772)
<by 3人の啓蒙専制君主>
・ヨーゼフ2世(オーストリア)
・フリードリヒ2世(プロイセン)
・エカチェリーナ2世(ロシア)





(3)ロシア絶対王政
ポイント①ビザンツ帝国の継承者!
ロシアはビザンツ帝国の地位をすべて継承する

【モスクワ大公国(だいこうこく)(13~17C)
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅びたときに制度を引き継いだ。

イヴァン4世(雷帝・位1533~1584)
ー「ツァーリ」の称号を正式に採用
ー コサック(ロシア南の騎馬民族)の首領イェルマークにシベリア探検を行なわせて、シベリアへ進出

ロマノフ朝(1613~1917)】
・ミハイル=ロマノフ
ロマノフ朝の創始農奴制の強化

ステンカ=ラージンの反乱(農民反乱)

 

ポイント②ピョートル1世はロシア発展の基礎を築く
四方八方に領土を拡大するワケとは?

ロシア帝国
ピョートル1世(大帝)(位1682~1725)

・西欧使節団の派遣
皇帝自ら西欧諸国を見聞

”貿易ルート”が欲しい・・!
↓↓
北方戦争(1700~1721)ロシアの西
ロシア〇 VS ✕スウェーデンカール12世
↓↓
ペテルブルクへ遷都(西洋への窓)戦の途中に
↓↓
バルト海の覇権獲得

アゾフ海(黒海)へ進出(17C末)ロシアの南
オスマン帝国より奪取

ネルチンスク条約(1689)ロシアの東
清の康煕帝。中国が初めて外国と対等に結んだ条約。

ポイント③エカチェリーナ2世のちょっと変わった政治
啓蒙専制君主とされる皇帝の統治をみる

エカチェリーナ2世(位1762~1796)】
啓蒙専制君主(ヴォルテールと文通)
・学芸の保護、教育改革、法治主義

農奴制強化
農民には農業はさせておく方がロシアにはプラスと判断
(ヨーゼフ2世は解放しようとして失敗)
↓↓
プガチョフの農民反乱(1773~1775)←鎮圧

<積極的な対外政策>
クリミア半島を領有(黒海進出)

ラスクマンを日本・根室へ派遣(1792)通称要求→失敗

ポーランド分割(1772・1793・1795)
コシューシコの抵抗運動(米独立戦争に義勇兵として参加)

 


(4)絶対王政時代の文化(1)科学・哲学
ポイント①科学の大いなる発展!
絶対王政の時代にさまざまな科学的進歩がある。

<科学革命>
(物理学)
ニュートン(1642~1727)英
万有引力の法則を発見『プリンキピア
「リンゴが落ちた・・」

(化学)
ラヴォワジェ 仏
質量保存の法則
「庶民から集めた税金を研究費にあてていたんだ・・(横領していた)」

ボイル 英
「近代科学の父」気体の圧力と体積

(生物・医学)
ジェンナー(1749~1823)英
種痘法(=天然痘の予防接種)を開発
「天然痘を抑える薬を見つけたかも・・よし誰かに試してみよう。」
最初は悪い評価→あとから評価が上がる

リンネ スウェーデン
植物分類法

ハーヴェー 英
血液循環説。心臓がポンプとなっていることを発見。

 

ポイント②近代的な世界観が構築される時代
哲学では合理主義的な思考が芽生える

(哲学)
====================
★【3つの哲学】
1.経験論(帰納法)フランシス=ベーコン
2.合理論(演繹法)デカルト・パスカル
3.ドイツ観念論 カント
====================

1【経験論】17~18C 英
フランシス=ベーコン
「認識や知識は経験から得られるのだ。先天的に備わる先入観念は要らない」
『新オルガヌム』4種類の偏見を紹介
↓↓
帰納法
観察や実験で得られた個々の事例を集め、そこから一般的理論を導き出す。経験で結論を出す。

2【合理論】17C 仏
仮定を立ててで組み立てる。机上でできる。
デカルト
「近代哲学の父」
方法序説』「われ思う、ゆえにわれあり」(=すべての存在を疑う自分の中の自分。理性を持つ自分というのは最終的に疑うことはできない)
「人間の理性認識の基礎とすべきだ。世界は論理的に把握できるのだ」
↓↓
演繹法」(えんえきほう)
前提を立て、そこから論理的に結論を導き出す

合理論」はデカルトの他にも・・
スピノザ ユダヤ系オランダ
ライプニッツ 独
パスカル 仏『パンセ』『随想録』(1670)など

この2つを批判し、かつ統合
↓↓

3【ドイツ観念論】18C後~19C初
カント
「認識とは理性が与えた形式で経験を理解すること。その理性には限界があるはずなんだ・・」
→「経験論」も「合理論」も頭が判断。人間は完全ではない・・。抜けがある。その抜けを見つける(つっこむ)ことによってよりレベルの高い意見が生まれる、とした。

純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』
” 批判する哲学 ”

 





(5)絶対王政時代の文化(2)政治・経済
ポイント①絶対王政を批判する思想の登場!
近代市民革命への思想的な基盤が完成

<政治・経済>
(市民階級の急成長・新思想の普及)
知識人が政治議論を交わす場所

コーヒーハウス(英)
新聞・雑誌が閲覧可能

サロン(社交場)
貴族・上流階級の女性が主催

カフェ(仏)
文化人など市民が政治・文化を議論

=============
★【3つの政治的の考え方】
(1)自然法
(2)社会契約説
(3)啓蒙思想
=============

(1)自然法
グロティウス 「国際法の祖」「近代自然法の父」
「私は三十年戦争の惨禍を目の当たりにし、国際法の必要性を痛感したんだ・・」
→「国に関係なく、人が守るべきルールがあるはずだ。」
『海洋自由論』『戦争と平和の法

(2)社会契約説
国家のあり方について

ホッブス
リヴァイアサン』万人の万人に対する闘い
無秩序だと争いが絶えない。ある程度規制すべきだ・・絶対王政の擁護。

ジョン=ロック
政府とは我々の財産や幸福を守るために存在するものだ。もしおびやかすなら、政府をつぶしていいんだ」
統治二論』(『市民政府二論』)

ルソー
人民に主権のある国家が理想的だ。今のフランスはおかしい」=絶対王政を批判
社会契約論』『人間不平等起源論』

(3)啓蒙思想
ヴォルテール
哲学書簡』(イギリスだより)
「王権神授説」を批判。
「王の力は神から授かった?そんなのはくだらない!
私たちはもっと合理的に考えるべきだ・・!」

モンテスキュー
『法の精神』三権分立 司法・行政・立法

ディドロ、ダランベールら『百科全書』

 

ポイント②経済学の発展
国家を支えるための経済思想が発展

==================
★【3つの経済的な考え方】
(1)重商主義 コルベール
(2)重農主義 ケネー
(3)古典派経済学 アダム・スミス
==================

(1)重商主義 16~18C
コルベール
ルイ14世の財務総監「輸出産業を育てるには国家が積極的にお金を投資しなければ!」
国家が積極的に経済に介入する。

(2)重農主義 18C後仏
重商主義を批判。政府は経済に関与するな。=「自由放任主義
ケネー『経済表

(3)古典派経済学 18C後英
重農主義を受け継いだ

アダム=スミス(1723~1790)「経済学の父」
自由放任を主張
「経済活動に国家はかかわるな。景気はすべて「見えざる手」によって調整されるのだ」
諸国民の富』(『国富論』)

マルサス『人口論』

リカード
古典派経済学を確立


(6)絶対王政時代の文化(3) 芸術・文学
ポイント①宮廷を中心とした華やかな文化活動
王の権威を象徴する芸術

(美術)
バロック美術】 16C後~18C初
派手で宮廷ごのみ
エル=グレコ(「私はギリシアの人」という意味のPN)
「近代スペイン画の祖」
出身地クレタ島

ベラスケス
光線の表現に工夫

ルーベンス
「十字架立て」『キリストの十字架降下

レンブラント(1606~1669)
光と影の描写。『夜警』後に評価

派手なバロック美術よりもっと繊細に・・
↓↓
ロココ美術】仏
ワトー
田園・宮廷画

 

(音楽)
バロック音楽】 16C後~18C初
派手で豪華

バッハ「近代音楽の父」
プロイセン・フリードリヒ2世の宮廷で演奏

・ヘンデル 英
英・宮廷音楽家

ドイツ古典派音楽
・ハイドン「交響曲の父」
・モーツァルト 交響曲など多くの傑作
ヴェートーベン
古典派音楽を集大成し、ロマン派音楽への道を拓く

ポイント②文学作品にも時代の特色が現れる!
絶対王政の時代らしい作品の登場

 

(文学)
フランス古典主義文学】17C
ルイ14世の頃。王様好み。ギリシア、ローマ時代の調和の取れた形式的な美しさを持つ作品がモデル。
コルネイユ 古典主義の悲劇創始
ラシーヌ 古典主義の悲劇を大成
モリエール 古典主義の喜劇を大成

イギリス市民文学
英は市民革命を早く迎えたため(世界初)自由な作風が多い。
ミルトン失楽園』・・『旧約聖書』の楽園喪失を題材
デフォーロビンソン=クルーソー』冒険小説
スウィフトガリヴァー旅行記』英の社会風刺。小人の国や巨人の国。天空島ラプータ。

 


 

世界史タイトル一覧

 

【20】主権国家体制と西欧絶対王政

250914
【20】主権国家体制と西欧絶対王政
(1)絶対王政の特徴
(2)スペイン・オランダ
(3)イギリス・フランス
(4)フランスのルイ14世の時代
(5)第2次英仏百年戦争


(1)絶対王政の特徴
ポイント①一番大事なことは自国の損か得か
主権国家の概念を確認

主権国家体制
明確な領域(国土)を有し、確立した主権が存在する国家。主権は国内では最高権力としての性格を、対外的には独立性を持つ。

(主権国家の争いの初めての例)
→イタリア戦争(1494~1559)
仏と神聖ローマがイタリアをめぐって抗争。
仏と独の仲はとても悪くなる・・。

宗教とは無関係に国際的なつながりが持たれる。
仏(キリスト教)ーオスマン帝国(イスラーム教)
神聖ローマ帝国(カトリック)ーイギリス(プロテスタント)
=宗教・宗派が違っていても、国の損得で結びつく。

カトー=カンブレジ条約(1559)で和議

ポイント②絶対王政の構造を確認しよう
絶対王政を行うために必要なこと

絶対王政の基盤(16~18C)
官僚制・・(封建)貴族。国王の補佐。
→言うことを聞いてもらうために高い給料。→お金がかかる
常備軍・・国王の軍。→お金がかかる
王権神授説・・王の権力は神から授かった。国王権を正当化。

(経済基盤)
重商主義・・国家財政を富ませる政策
・重金主義(16C)・・海外植民地から金・銀を奪う
・貿易差額主義(17C~)・・輸出を増やし、輸入をおさえて儲ける
→工場制手工業(マニュファクチャ)
分業による協業

封建貴族が官僚として国王の政治を補佐。


(2)スペイン・オランダ
ポイント①スペインは「たまたま」絶対王政を完成できた!?
新大陸からの莫大な富だけがスペインを支えた

<スペイン>
カルロス1世(位1516~1556)(西・独)
(=神聖ローマ皇帝 カール5世 位1519~1556)

カルロス1世は父フィリップ(ハプスブルグ家)と、母フアナ(西王家)の子。(フアナはフェルナンドとイサベルとの娘。)

・カルロス1世の時から、スペイン=ハプスブルグ家が成立。

・広大な領土を支配
スペイン、ネーデルラント、オーストリア、シチリア、ナポリ、ミラノ、フィリピン、アメリカ大陸(ポトシ銀山)

スペイン絶対王政の完成

フェリペ2世(位1556~1598)(西・葡)
・ポトシ銀山からの大量の銀→絶対王政の基盤に
(たまたま転がりこんだ富)

カトリック政策を強化
– 英王メアリ1世と結婚。英をカトリックに。
– ネーデルラント植民地に旧教を強制→オランダ独立戦争を招く

レパントの海戦(1571)
〇スペイン・教皇・ヴェネツィア
VS
✕オスマン帝国

1538 ひっこみやプレヴェザ

1571 ひっこまないレパント

マニラの建設(1571)
フィリピン経営の本格化

ポルトガル併合(1580~1640)60年間
母がポルトガル王家出身。王位がとだえ、フェリペ2世がそのまま王位継承。ポルトガルの持つアジア植民地をスペイン領にした。

スペイン・・「太陽の沈まぬ国」

無敵艦隊(アルマダ=スペイン海軍)英に敗北(1588)
アメリカ大陸へ行く道がとだえる。

銀も取り尽くし、スペイン絶対王政は終了・・。
(国内の産業や経済を育てなかった。。)

 

ポイント②17世紀はオランダの世紀!?
海上交易で世界へと進出する「小国」の勇姿

<オランダ>

スペイン(フェリペ2世時)から独立したオランダ
オランダの発展
(首都:アムステルダム

アジア貿易への参入
※アジアはポルトガルが先に開拓していたが、フェリペ2世時にポルトガルはスペインに吸収された。今、船は行っていないからチャンス!

オランダ東インド会社の設立

・ジャワ島にバタヴィア(現ジャカルタ)を建設
総督府の設置。香辛料貿易の独占を狙う。

(ルート)
オランダ→アフリカ南→インド→東南アジア
そのため各地に拠点を作る

台湾を占領
日本、中国との通商の拠点

ケープ植民地建設
アフリカ最南部の植民地

アンボイナ(アンボン)事件(1623)蘭〇 VS ✕英
モルッカ諸島。オランダがイギリス商館員らを虐殺。オランダがこの頃出てきたライバルのイギリスを東南アジアから追い出す。→英はしぶしぶインドに行く。インドに行くきっかけとなった。

北米にも進出
オランダ西インド会社の設立(ヨーロッパから見て米は西)

ニューネーデルラント植民地を作る
中心地:ニューアムステルダム(現ニューヨーク)の町の建設

→交易の拠点に拠点を作りなら、アジア、アメリカへ進出。世界はオランダの船であふれていた。

 




(3)イギリス・フランス
ポイント①イギリスの絶対王政は他の国とは大違い!
伝統的な議会の存在と国王権力とのバランス

<イギリス>
英王(命令)→(中央)議会(模範議会)立法や税徴収など
英王(命令)→(地方)ジェントリ
※英王は議会やジェントリとうまく付き合う必要がある

ジェントリ郷紳・きょうしん)
貴族と平民の中間。地主。
治安判事など地方行政を担う。
ジェントリは無給(ボランティア)なので
工場経営などで生計を立てる。
↓↓
毛織物工業の発達(14C~)生産・輸出
代表的産業に

・官僚制と常備軍は未発達

 

ポイント②テューダー朝の発展
ヘンリ8世からエリザベス1世の時代

<イギリス絶対王政>
ヘンリ8世が始めて、エリザベス1世で完成。

ヘンリ8世(位1509~1547)
民衆から人気。議会も無視できない。。
・首長法(国王至上法)(1534)
星室庁裁判所の設置
身分の高い者を裁く国王直属の裁判所

第1次囲い込みエンクロージャー
牧羊地(モコモコ羊毛がほしい→毛織物→輸出して稼ぐ)
毛織物が代表産業に。ジェントリから支持。
→農民の浮浪化・極貧化

エリザベス1世(位1558~1603)
国民から人気があった。
統一法(1559)
イギリス国教会の確立(カトリック教会とは決別)

積極的な海外進出。重商主義。
ドレーク(1540~1596)
ー 私拿捕船(しだほせん)・私掠船(しりゃくせん)
(=国王公認の海賊船)
スペイン船から金や銀を奪う。

ー ドレークは世界周航を達成。
各地を探検させ新しい土地を探させた

北米ヴァージニア植民地を建設(→失敗に終わる)

・スペインの無敵艦隊(アルマダ)を撃破(1588)
英の経済力、海軍力の強さがヨーロッパに示される

イギリス東インド会社の設立(1600~1858)
専門の貿易会社を作る。

ポイント③フランスは内乱のあとに絶対王政が始まる!
ユグノー戦争の終結と国王権力の拡大

<フランス絶対王政>
内乱ユグノー戦争(1562~1598)で貴族が没落→国王権力が強くなっていく。絶対王政が始まる。

ヴァロワ朝
ブルボン朝(1589~1792)

アンリ4世(位1589~1610)
ユグノー(カルヴァン派)からカトリックへ改宗(1593)
ナントの王令(勅令)(1598)
ユグノー戦争終結

海外進出
・フランス東インド会社→経営不振
ケベックの建設(1608)・・カナダの拠点

ルイ13世(位1610~1643)9才で即位
三部会の招集停止
・名宰相リシュリュー
王権を強化
ドイツ三十年戦争で勝利。


(4)フランスのルイ14世の時代
ポイント①ルイ14世の時代は典型的な絶対王政!
優秀な部下に恵まれた前半の政治と、後半の波乱

<フランス絶対王政>
ルイ14世(位1643~1715)5才で即位。72年間!ギネス
<清の成立1644~康煕帝(位1661~1722)と同じぐらいの時期>

(宰相:マザラン)(注:世界一周はマゼラン)

フロンドの乱(1648~1653)5年
王権の伸長に対する貴族、高等法院(王の命令を審査する貴族)の反乱。←マザランにより鎮圧

1661~マザランが亡くなり、ルイ14世、自ら政治を行う。(23才)
・「朕は国家なり
(私が国だ。私の損得が国の損得だ。)

・神学者ボシュエ
王権神授説を確立。皇太子の教育係。

財務総監コルベール
典型的な重商主義政策(コルベール主義
→国家が直接経済活動に介入し、国を富ませようとした。

フランス東インド会社再建

特権マニュファクチュアの設立
(国内産業の保護。輸入をおさえて質の高い製品を輸出する)

ヴェルサイユ宮殿の完成(1682)
パリ郊外ヴェルサイユに建設。ルイ14世はここで政務を取った。権力の象徴。

ルイジアナの建設(1682)
北米ミシシッピ川流域を領有宣言。フランスの植民地とした。
「ルイ14世」の名前を取ってルイジアナに。(探検家ラ・サール)

ナントの王令(勅令)廃止(1685)
カトリック強制。→ユグノー(カルヴァン派)が国外へ。商工業者が多かったので、フランス産業が衰退。

 

ポイント②ルイ14世の対外戦争!
4回にわたる侵略戦争をみる

ルイ14世の対外侵略戦争

「自然国境説」(国境は川や山などで決めるべき)を唱える。
西のスペインとはピレネー山脈、北の英とはドーバー海峡、南のスイスとはアルプス山脈が国境だ。
→だから東はライン川まで領土を広げよう!

これら↓↓の国はライン川の内側にあるからフランスのものだと主張。(もう、むちゃくちゃ)
[1]・南ネーデルラント継承戦争
[2]・ファルツ戦争

[3]・オランダ(侵略)戦争(南ネーデルラントに味方したから報復)

そしてフランスにとって最も痛い結果に終わったのがこちら
↓↓
[4]・スペイン継承戦争(1701~1713)

スペイン=ハプスブルク家の断絶
→ルイ14世の孫フィリップの王位継承を主張。(ルイ14世の妻がスペイン王家のため)
→フィリップがフェリペ5世として即位(スペイン=ブルボン朝の創始)
↓↓
(ちょっと待ったーー!)
スペイン継承戦争
スペイン・フランス✕ VS 〇英、オランダ、オーストリア
↓↓
ユトレヒト条約(1713)

フェリペ5世の即位は承認されたが・・
「フランス・スペインの合併は永久に禁止」となる。
(同じブルボン朝が合体することができない)
領土拡大は失敗

(cf.ユトレヒト同盟(1579)はオランダ独立戦争で北部7州が結んだ同盟)

↓↓
この4つの戦争で、財政圧迫・・。
このあとは絶対王政が衰退。フランス革命へとつながる。

 




(5)第2次英仏百年戦争
ポイント①イギリスの世界進出!
インド・北米へと進出するイギリスの動き

<イギリス>
〇英のインドへの進出
(中心:東インド会社)
マドラス(インド南東)・ボンベイ(インド西南)の獲得
カルカッタ(インド北東)の獲得(ガンジス川下流)
肥沃なベンガル地方の要地

〇英の北米への進出(13植民地の形成)
アメリカ東海岸
ヴァージニア植民地
最初の北米植民地(エリザベス1世時は失敗。これは再トライでステュアート朝・ジェームズ1世時の話)

ピルグリム=ファーザーズ
清教徒ピューリタン(英のカルヴァン派)中心。
英から米に移る。宗教的自由を求めて。
↓↓
ニューイングランド植民地
米北東部。プリマスなど。

・ニューアムステルダムをオランダから奪って
ニューヨークと改名。

 

ポイント②フランスの世界進出!
インド・北米へと進出するフランスの動き

<フランス>
〇仏のインドへの進出
東インド会社再建(1664)
(↑ルイ14世時の財務総監コルベールにより)

ポンディシェリ(インド東南=マドラス(英)のすぐ南)
シャンデルナゴル(インド北東・ガンジス川流域=カルカッタ(英)のすぐ北)

〇仏の北米への進出
ケベック(カナダ)を建設(1608 アンリ4世)
ルイジアナの建設(1682 ルイ14世)
ミシシッピ川流域(北米大陸の真ん中を北から南まで、斜めに縦断)

 

ポイント③イギリスとフランスの植民地争奪戦!
北米・インドでついに衝突

・第2次英仏百年戦争(1688~1815)
インド・北米の植民地をめぐって英仏が戦う

【北米での英仏戦争】
・アン女王戦争(1702~1713)
北米の植民地争奪戦。英王の名前から。

ヨーロッパで仏ルイ14世がスペイン継承戦争(1701~1713)を起こしたときに、英はあえて仏の敵に回って、英 VS 仏の形を作った。
→結果→英〇 仏✕
↓↓
ユトレヒト条約(1713)
(「スペイン継承戦争」と「アン女王戦争」の条約)

英が領土を多く獲得。
<仏→
→アカディア、ニューファンドランド、ハドソン湾地方(現カナダ)
→英の北米進出の足がかりとなる。

<西→
ジブラルタル(スペイン南)、ミノルカ島(地中海)
→英が地中海の入口を確保

フレンチ・インディアン戦争(1755~1763)(北米)
(ヨーロッパでは七年戦争(1756~1763))
英〇 VS ✕仏
↓↓
パリ条約(1763)
さらに英は領土を広げる。
カナダ・ミシシッピ川以東ルイジアナ、(仏→英)、フロリダ(西→英)(※ミシ以西ルイジアナは仏→西)

(西) (東)
==
=  ==
西==
===
===

これで北米はほぼ英領になった。

【インドでの英仏の戦い】

・カーナティック戦争

プラッシーの戦い(1757)
英の東インド会社の書記長:クライヴの活躍
(カルカッタ(英)とシャンデルナゴル(仏)の近く)

英〇 VS ✕仏・ベンガル太守連合軍

↓↓
結果→第2次英仏百年戦争はイギリスの勝利
英はインド・北米に植民地を増やす!

 


 

世界史タイトル一覧

 

【19】宗教改革

250912
【19】宗教改革
(1)ドイツ宗教改革の始まり
(2)ドイツ宗教改革の帰結
(3)スイス・イギリス宗教改革
(4)対抗宗教改革と宗教戦争
(5)フランス・ドイツの宗教戦争
独は分権化へ、英は王権強化。スイスは商人に受け入れ進む。


(1)ドイツ宗教改革の始まり
ポイント①ルターの怒り!カトリック教会の腐敗…
教会批判とルターの主張

<ドイツ宗教改革>

ドイツ(神聖ローマ帝国)
・教皇レオ10世(位1513~1521)
サン・ピエトロ大聖堂の改築
→教皇庁の財政ピンチ
贖宥状(免罪符)の販売を許可。=お金を払えば罪は許される。

当時のドイツは「ローマの牝牛(めうし)」
→(意味)当時神聖ローマ皇帝の力は強くない、管理が行き届かない。だからローマ教皇が好き勝手できた。

↓↓
免罪符にNo!

・マルティン=ルター(1483~1546)
ヴィッテンベルク大学の神学部教授。
ローマ教皇、カトリック聖職者の権威を否定。
聖書主義。
「人は信仰によってのみ義とされる」(信仰義認主義)
「九十五カ条の論題」(1517)
ヴィッテンベルク教会に貼り付けた。

教皇や宗教会議の権威を否定したルターは、教皇レオ10世により破門に。
→ルター「望むところだ・・」

ポイント②国内の諸侯を巻き込む一大変革へ
皇帝と諸侯の対立に宗教が利用される

独(神聖ローマ皇帝)カール5世(1519~1556)
(=スペイン・カルロス1世)
「カトリックの教えを否定するやつは許さん!」
=皇帝はカトリックの守り主。カトリックの批判は自分への批判になるため。

ヴォルムス帝国議会(1521)
撤回を強要。ルターは拒否。→帝国から追放

(cf.ヴォルムス協約(1122)は叙任権が教皇になった)

ザクセン選帝侯フリードリヒ(諸侯の一人)がルターを保護
カール5世と対立している。

ルターは『新約聖書』をドイツ語に訳す
↓↓
グーテンベルク(独)が発明した活版印刷で広がる

ルター派
反教皇、反皇帝派の諸侯から支持

ドイツ国内の混乱

ドイツ農民戦争(1524~1525)
農奴制・領主制・十分の一税の廃止を要求

ミュンツァーが農民軍を指導
宗教改革を農奴解放、共有社会の実現へと結びつける
↓↓
ルターは最初同情するも・・「私はザクセン選帝侯にお世話になった。だから諸侯側を支持する」
↓↓
ルターは農民には受け入れられない。諸侯には人気。


(2)ドイツ宗教改革の帰結
ポイント①ドイツを取り巻く国際情勢の変化!
皇帝はルターよりも厄介な2つの敵に出会う・・

(1つ目の敵)
イタリア戦争(1494~1559)60年間
カール5世VS仏フランソワ1世
イタリアの支配をめぐって対立。独がローマに侵入。
→イタリア・ルネサンスは衰退・・

(2つ目の敵)
・オスマン皇帝の圧迫
ハンガリー併合(1526)
スレイマン1世
仏と争っていたら背後からオスマン帝国が来た!
↓↓
ルター派を利用。ルター派を容認(1526)
国内の結束と団結。
↓↓
第1次ウィーン包囲(1529)
冬が来たのもあり、撃退成功。
↓↓
ルター派を再禁止・弾圧(1529)
ルター派は抗議文を提出・・「プロテスタント」教皇権を否定

 

ポイント②ついに皇帝が妥協した!宗教和議の締結
ドイツに及ぼした影響とは・・

シュマルカルデン同盟の結成(1530)
ルター派の諸侯・都市がカール5世に対抗するため結成。

・シュマルカルデン戦争(1546)
↓↓
皇帝が妥協・・

アウクスブルクの宗教和議(1555)
ルター派
のみ公認。(カルヴァン派は✕。→のちのウェストファリア条約1648で公認される)
諸侯に対してカトリック派 OR ルター派の選択権を認める。
(個人の信仰は認められない。)
↓↓
「領邦教会制」の確立
諸侯は、領邦内の教会への支配権を持つことになった。

皇帝の力は衰え、諸侯が強くなり、ドイツの分裂が続く・・

 




(3)スイス・イギリス宗教改革
ポイント①いまの世界があるのはカルヴァンのおかげ!?
カルヴァンの思想はヨーロッパを変えた

<スイス宗教改革>

(1)ツヴィングリ
スイス・チューリヒ
エラスムスやルターの影響を受ける。

(2)カルヴァン(1509~1564)スイス・ジュネーブ
「魂の救済は意志や善行とは無関係。すでに神によって決められているんだ。」
・『キリスト教綱要』
「予定説」・・神の意志の絶対性、人間の行為の無意味さを強調。
天職に励むこと、仕事の成功で救済を確信。→キリスト教で初めて蓄財を承認。(カトリックは儲けることを否定)→商人に受け入れられ広がる。
・長老主義・・教会の運営は牧師と信徒の代表者
・ジュネーブで神権政治(政教一致体制)を実施
↓↓
ヨーロッパ各地に広がる

カルヴァン派の呼称
・ピューリタン(イングランド)
・プレスビテリアン(スコットランド)
・ゴイセン(ネーデルラント)
・ユグノー(フランス)

 

ポイント②イギリスの宗教改革にはウラがある!?
ヘンリ8世の離婚問題は単なる口実・・

<イギリス宗教改革>

〇テューダー朝(1485〜1603)

(初代ヘンリ7世)
4人の英王
(1)ヘンリ8世(位1509~1547)2代
英は王の力を強くするための宗教改革。(ドイツは民が中心→分裂)

・王妃カザリンとの離婚問題。教皇と対立→カトリックを辞める
・国王至上法(首長法)の発布(1534)
イギリス国教会の創設(=新しいキリスト教を作った。)
「英王は国教会の唯一最高の首長」
・修道院を解散し、没収した土地を新興市民に安く売り渡す

ヘンリ8世の子3人
↓↓
(2)エドワード6世(位1547~1553)3代
・一般祈祷書の制定(1549)
国教会の教義を整備

(3)メアリ1世(位1553~1558)ブラッディメアリ・4代
・スペイン皇太子フェリペ2世(カトリック)と結婚
・カトリックの強制→新教徒(イギリス国教会)を弾圧

(4)エリザベス1世(1558~1603)5代
統一法の制定(1559)
イギリス国教会の確立。国王が宗教も統治。

↓↓
スチュアート朝・ジェームズ1世へ・・

 


(4)対抗宗教改革と宗教戦争
ポイント①カトリックは間違っていない!

<カトリックの対抗>

対抗宗教改革(反宗教改革)
(1)イエズス会(ジェズイット教団)(1534)
この2人のスペイン人↓↓が作った
・イグナティウス=ロヨラ
・フランシスコ=ザビエル
カトリックの世界伝導、ヨーロッパの再カトリック化

(2)トリエント公会議(1545~1563)
教皇至上権、カトリック教義の再確認(やっぱりカトリックは間違ってない!)
禁書目録の制定、宗教裁判、魔女狩りの流行

 

ポイント②スペインに果敢に勝負を挑んだオランダ!
宗派の違いから国家の独立戦争を起こす

<オランダ宗教戦争>

オランダ独立戦争(1568~1609)40年
スペイン王フェリペ2世
重税、カトリック信仰を強制
↓↓
ネーデルラントが反乱(1568)
北部7州(オランダ):ゴイセン(カルヴァン派)が多い
南部10州(ベルギー):カトリック教徒が多い
↓↓
・南部10州の降伏(1579)
↓↓
北部7州ユトレヒト同盟結成(1579)
ホラント州中心(オランダの語源)
指導者:オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)
↓↓
・独立宣言(1581)
ネーデルラント連邦共和国(オランダ)

・休戦条約(1609)
スペインがオランダの独立を事実上承認

 




(5)フランス・ドイツの宗教戦争
ポイント①フランスで起きた宗教戦争は根が深い!
ただの宗教的な争いではない・・

<フランス宗教戦争>

ユグノー戦争(1562~1598)30年
カトリック(多数) VS ユグノー(カルヴァン派)

国王シャルル9世、摂政・母后カトリーヌ=ド=メディシス
新旧両派の対立に有力貴族の王権をめぐる政治闘争がからむ

サンバルテミの虐殺(1572)
国王シャルル9世の妹(王妃マルゴ・カトリック)と、アンリ(新教徒ユグノー)の婚儀をパリで開催
→王母カトリーヌはパリに集まったユグノーたちを虐殺
→大内乱に・・!

国王暗殺(ヴァロワ朝アンリ3世)
→ブルボン家アンリ4世が国王に即位
ブルボン朝創始(1589)

ナントの勅令(王令)(1598)
アンリ4世がカトリックに改宗してから、新教徒(ユグノー)へ条件付きの信仰の自由を保障→旧教徒とほぼ同様の権利を付与。カトリックが国教のフランスでは画期的なできごと。
↓↓
ユグノー戦争が終結・・!(1598)

(→ナントの勅令は、後にルイ14世が廃止1685)

 

ポイント②ドイツ三十年戦争はその後のヨーロッパを変えた!
主権国家体制の確立はこの時期

<ドイツ宗教戦争>
宗教戦争から国際戦争へ・・

三十年戦争(1618~1648)
・ベーメン(ボヘミア)反乱(1618)
新教徒の多い地域に対して、神聖ローマ皇帝(ハプスブルグ家)がカトリックを強要したため

・デンマークの参戦(1625)✕(プロテスタント国家)
神聖ローマの傭兵隊隊長のヴァレンシュタインに敗北

・スウェーデンの参戦(1630)✕(プロテスタント国家)
国王グスタフ=アドルフ
ヴァレンシュタインを破るが、途中で戦死

フランスの参戦(1635)〇(カトリック国家だが・・新教支援
宰相リシュリュー「宗教なんてどうでもいいわ。独(神聖)倒す」
仏はカトリック国家だが、ハプスブルグ家打倒のため、新教徒支援で参戦。(イタリア戦争からの宿敵を倒したい。)

↓↓
プロテスタント勝利〇
ウェストファリア条約(1648)

・アウグスブルクの宗教和議の再確認
追加事項:カルヴァン派公認

・スイス・オランダの独立・・国際的に承認
・フランスへアルザスを割譲
・スウェーデンへバルト海南岸(西ポンメルン)を割譲

神聖ローマ帝国の有名無実化が決定(あってないようなもの)
ドイツ国内の領邦(諸侯の領土)に、ほぼ完全な主権を承認
↓↓
これ以降ヨーロッパの国は主権国家体制が確立する。
(=宗教の違いではなく、自分の国にとって損か得かで動くようになる。)

 


 

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