【30】アジア諸地域の植民地化
(1)フランスのインドシナ進出
(2)オランダ・イギリスの東南アジア進出
(3)イギリス東インド会社のインド経営
(4)オスマン帝国の衰退
(5)オスマン帝国の近代化
(6)イラン・アフガニスタンの植民地化
30ーキーワード
<東南アジア>
・仏⇒仏領インドシナ(ベトナム・カンボジア・ラオス)
・蘭⇒オランダ領東インド(インドネシア)
・英⇒マレー連合州(マレーシア)=海峡植民地(シンガポール、ペナン、マラッカ)+α。ミャンマー。
<インド>
・英⇒印:シパーヒーの反乱(1857)⇒ムガル帝国滅亡(1858)⇒インド帝国(1877)
<オスマン帝国>
・アブデュル=メジト1世「タンジマート(恩恵改革)」
・ミドハト=パシャ「ミドハト憲法」(1876)
<その他>
・ウラービー運動(エジプトの反英運動)
・タバコボイコット運動(イランの反英運動)
30ーガイダンス(1~6)
・東南アジア・・仏・蘭・英(仏は中国への中継基地がほしい)
・インド・・英の単独支配(英仏の戦争に英が勝ったため)
英本国ではなく英東インド会社(貿易会社)がインド経営をする。(ある変化が。。貿易→徴税)
・西アジア・・オスマン帝国の衰退・近代化。イラン・アフガニスタンなど。
(1)フランスのインドシナ進出
ポイント①ナポレオン3世のインドシナ進出
なぜこのタイミングでベトナムを攻めるの?
仏(ナポレオン3世)がインドシナ(=現ベトナム・カンボジア・ラオス)に進出。
<ベトナム>
・阮朝(げんちょう)/ 越南国
建国:阮福映(げんふくえい)。仏宣教師ピニョーが支援。
清の朝貢国(弟分)。清からは越南国(えつなんこく)と呼ばれる。
ラオス |ベ
_________|ト
カンボジア|ナ
_________|ム
仏のインドシナ(ベトナム)進出理由は・・
→アロー戦争で仏は中国進出を始めた。中継基地が欲しかった。
↓↓
・仏越(ふつえつ)戦争。〇仏ナポ3世 VS 越✕
仏がベトナムのサイゴンを獲得。
カンボジアを保護国化。
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ポイント②フランス領インドシナ連邦の成立
ベトナム・カンボジア・ラオスの植民地化
ユエ条約・・仏がベトナム保護国化
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清(兄)がベトナム(弟)の宗主権(指導する権利)を主張。(清は仏にクレーム)(朝鮮の時と同じ。清は日本にクレーム。)
↓↓
・清仏戦争(〇仏 VS 清✕)(1884~5)
天津条約・・清はベトナムの宗主権を放棄。
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・仏領インドシナ連邦(1887~1945)
(現ベトナム・カンボジア・ラオス)
ポイント①オランダのジャワ・スマトラの植民地化
現在のほぼインドネシアにあたる地域をオランダが植民地化
オランダ領東インド
オランダのジャワ・スマトラ(インドネシア)を植民地化
・イギリス=オランダ協定(イギリスとオランダの打ち合わせ)
マラッカ海峡を境界に北は英、南は蘭と分けた。
・ジャワ戦争(1825)〇蘭 VS ジャワ✕
⇒蘭は勝ったが、財政窮乏に・・
↓↓
・強制栽培制度(1830)
商品作物(コーヒー)⇒ヨーロッパに販売。
オランダ産業革命の資金源になる。
↓↓
・アチェ戦争(1873)
スマトラ島の北端。✕アチェ王国 VS 蘭〇
⇒オランダ領東インド完成(現インドネシア)
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ポイント②イギリスが東南アジアを植民地化するわけは?
インド帝国とのアクセスを最優先
英植民地のインドと清(中国)をつなぐために(海回り)中継基地としてマレー半島が必要。
ぺナン、シンガポール、マラッカ(=海峡植民地)の獲得
↓↓
マレー連合州(現マレーシア)の成立
プランテーション
・錫(すず)・・華僑(中国)を労働力
・ゴム・・印僑(インド)を労働力
・ビルマ(ミャンマー)戦争
コンバウン朝を滅ぼしインド帝国に併合
(3)イギリス東インド会社のインド経営
ポイント①東インド会社のインド植民地の動き
商業活動を停止された会社が生き残るための工夫
<英東インド会社の進出>
・プラッシーの戦い(1757)
インド・ベンガル地方をめぐって争う 〇英 VS 仏✕
イギリス東インド会社(貿易会社)は、ベンガル(インド北東・ガンジス川下流域・豊かな土地)の徴税権を得る。
↓↓
イギリス東インド会社が商業活動停止される(1833)
↓↓
インド統治機関へと移行。
↓↓
<各地で戦争へ>
・マイソール戦争(南インド)
・マラーター戦争(中部・デカン高原)
マラーター同盟・インドの豪族
・シク戦争(北西パンジャーブ地方)シク教徒
あとはムガル帝国のみ。。
<征服地への税制>
・ザミンダーリー制
地主・領主から直接地税を徴収。(ベンガル地方)
・ライヤットワーリー制
自作農民から直接地税を徴収。(シンド地方、南インド)
徴税に加え、プランテーション経営もするようになる。
→茶、アヘンの栽培・輸出
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ポイント②全インドを揺るがす大反乱
イギリスのインド支配における転換期
・シパーヒーの反乱(1857~1859)
シパーヒーとはイギリス東インド会社に雇われたインド人傭兵(ヒンドゥー教徒+イスラム教徒)。薬包に牛と豚の脂を使っていると噂。
デリー城を占拠。ムガル皇帝を擁立。
↓↓
インド大反乱に発展。
↓↓
英本国軍が鎮圧。ムガル帝国が滅亡(1858)
↓↓
イギリス東インド会社は解散。統治権は英本国に移る。(=英はただ同然でインドを手に入れる形になった。噂は英本国が流した・・?)
↓↓
・インド帝国(1877~1947)成立
初代インド皇帝 ヴィクトリア女王
(ディズレーリ保守党内閣)
植民地なのに「帝国」と付いているのは、他のヨーロッパ諸国に向けた、英はインドを重要視しているというメッセージ。触れたらあきまへんえ・・の威嚇。
・分割統治
保守的な藩王国を懐柔。間接統治。(=農民の怒りは地主へ行く。英本国には行かない。)
(4)オスマン帝国の衰退
ポイント①アラビア半島での独立の動き
ムハンマドの教えに帰れ!ワッハーブ運動の展開
<アラビア半島>
オスマン帝国支配下で自立の動き
・ワッハーブ運動(ワッハーブ派)
ムハンマド時代のイスラーム教復帰を目指す。
↓↓
豪族サウード家と結んでワッハーブ王国建設。
都:リヤド
↓↓
エジプトのムハンマド・アリーの攻撃でワッハーブ王国は滅亡。
⇒アラビア半島の自立は失敗。
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ポイント②エジプトでの自立の動き
オスマン帝国の部下であって部下でない?
<エジプト自立の動き>
仏・ナポレオンのエジプト占領(1798~99)
→ナポレオンはエジプト先住民(アラブ人)にオスマン帝国(トルコ人)への反抗を呼びかけた。「悔しくないのか?民族の誇りを持つべきだ!」
↓↓ エジプト自立の運動の中心
・ムハンマド=アリー
エジプトからナポレオンを追い出す。オスマン皇帝に変わってエジプト総督の地位を授かる。エジプトの自立・近代化を目指す。
オスマン帝国に要求。
・第1次エジプト=トルコ戦争(1831~33)
オスマン帝国にシリアの領有を要求し、開戦。
〇エジプト VS トルコ✕
⇒シリアを獲得。
・第2次エジプト=トルコ戦争(1839~40)
エジプトとシリアの世襲権要求。
△エジプト VS トルコ(欧の干渉もあり)
⇒シリアを返還。エジプトとスーダンの世襲権は獲得。
ムハンマド・アリーの死後・・
・スエズ運河 開通(1869)at エジプト
(仏・技術者)レセップス
地中海からインド洋に直接行ける。英は喉から手が出るほど欲しい。(英)ディズレーリ内閣。スエズ運河会社の株を買収。支配権獲得。
↓↓ トルコの次はイギリスかよ・・
・ウラービー運動(反乱)(1881)(エジプトの反英運動)
「エジプト人のためのエジプト」英支配に抵抗するが、鎮圧される。
↓↓
エジプトは英の保護国化に。(英の植民地に・・)
(5)オスマン帝国の近代化
ポイント①ついに目覚めたオスマン帝国!
皇帝が率先して行う「上からの近代化」とは?
<オスマン帝国>
・アブデュル=メジト1世(位1839~1861)
「タンジマート(恩恵改革)」(1839)
ギュルハネ勅令
・皇帝が率先して近代化。「上からの改革」。司法、行政、財政、軍事、文化など。
・非イスラムへの平等課税。法的にも平等。
↓↓ 一定の成果が出たが・・(オスマン帝国を敗れるぐらい成長)
・クリミア戦争(1853~56)
〇オスマン帝国 VS ロシア✕
英・仏・サルディーニャ。
タンジマートの成果が出てトルコは勝利!
→しかしトルコは英・仏に借金。財政面では英仏の従属状態に・・。
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ポイント②アジア初の憲法が制定されるも・・
立憲君主政への移行と皇帝の思惑
・アブデュル=ハミト2世(位1876~1909)
・宰相 ミドハト=パシャ
・ミドハト憲法(1876)
アジア初の憲法。(大日本帝国憲法(1889)より13年早い。)
・二院制議会、責任内閣制
立憲君主制への移行を目指した。皇帝の独占ではなく議会で話し合いをしよう。
↓↓
・ロシア=トルコ(露土)戦争(1877)
アブデュル=ハミト2世が、皇帝の力を制限されるのを嫌ってミドハト憲法を停止!
宰相ミドハト=パシャを解任(1877)。
戦争の責任を押し付けて島流しに。。
結局、皇帝独裁政治が変わらぬまま、英仏に財政面で頭が上がらないまま・・
(6)イラン・アフガニスタンの植民地化
ポイント①イランの植民地化
イランをめぐるイギリスとロシアの熾烈な争い
(イラン)カージャール朝(1796~1925)
北にはカスピ海、南にはペルシア湾。
北から海を求めてロシアが狙う・・。南東から英が狙う。
・トルコマンチャーイ条約(1828)
イランにロシアが押しつけた不平等条約。
アルメニアの大半を獲得。治外法権を承認。
(※トルコだがオスマントルコとは関係ない。トルコマンチャーイという町の名前)
↓↓ 何でイラン政府はロシアの言いなりなんだ・・!
・バーブ教徒の乱(イスラーム教・シーア派の一派)
イラン・カージャール朝の貧困農民中心の反乱
英・露・弱腰なイラン政府に反対するも、鎮圧される。
・タバコ=ボイコット運動(1891~92)(イランの反英運動)
タバコの独占販売権がイラン政府から英業者に渡される。
⇒民衆はタバコをボイコット。知識人(ウラマー)らも含めた反英・反国王運動。
↓↓
鎮圧される。英露のプレッシャーは続く。イランの植民地化は避けられない・・
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ポイント②なぜアフガニスタン?
イギリスはアフガニスタンを絶対に渡したくない!
英の2回のアフガン戦争
アフガニスタンはインドの真上。英はインドが大事。北からのロシアからの侵攻の防波堤として、アフガニスタンは押さえておきたい。
↓↓
・第1次アフガン戦争(1838~42)英✕ VS 〇アフガニスタン
何と、英・完敗!
・ベルリン会議(1878)
ロシアのバルカン半島方面の南下を阻止した。
↓↓
英「そうするとロシアは違う地域から降りてくるかも・・。やばい。アフガニスタンにも来るかも・・!」
↓↓
・第2次アフガン戦争(1878~80)英〇 VS ✕アフガニスタン
今度は英勝利。アフガニスタンを保護国化。
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