【38】戦間期のアジア諸地域
(1) 新文化運動と中国の民衆運動
(2) 北伐と中国共産党の動向
(3) 朝鮮と東南アジアの民族運動
(4) インドの民族運動
(5) トルコ革命
(6) イスラーム諸国の動向
当時植民地にならなかったのは日本とタイだけ。(中央集権化が進んでいたのも一因)。ほとんどのアジアは欧米列強に支配された。第一次世界大戦のあと、戦争でヨーロッパが弱っている、今が独立のチャンスと思った。
(1)新文化運動と中国の民衆運動
ポイント①中国国民を巻き込む一大運動へ!
北京大学の教授陣が中心となった啓蒙運動
<新文化運動(文学革命)>
・北京大学
教授陣が民衆の啓蒙化に尽力。
・陳独秀(→後に共産党を創始)
『新青年』雑誌刊行
「民主主義と科学」をスローガンに。
中国の旧体制、儒学を批判。
・胡適(こせき・こてき)
白話(はくわ)文学運動 文語⇒口語
・李大釗(りたいしょう)
マルクス主義研究会の創設。中国に社会主義、共産主義を伝える。
・魯迅(ろじん)日本の東北大学医学部に留学
『狂人日記』『阿Q正伝』民衆への啓蒙
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ポイント②国民党と共産党の協力体制の完成!
孫文が目指した中国の国民革命
<五・四運動(1919)>
パリ講和会議で二十一カ条要求の取り下げが認められず。
↓↓
北京大学の学生を中心に大規模なデモが発生
→全国的な反帝国主義へ発展。
反欧米、反日、反軍閥政府。
↓↓
軍閥政府はヴェルサイユ条約調印を拒否。
・中国国民党を結成(資本主義的)
孫文。大衆政党。金持ちの味方。
・中国共産党を結成。(社会主義的)
初代委員長:陳独秀。上海で。貧しい人の味方。
(※毛沢東は途中からリーダーになった。)
↓↓
2つの党は相反する主義だが、目的は同じ
「外国を追い出して、中国国民のための国を作る」
↓↓
・第1次国共合作(1924)
国民党と共産党が力を合わせる。
孫文「連ソ・容共・扶助工農」
(共産党を受け入れよう。中国の工業・農業を育てよう。)
・国民革命の遂行(軍閥打倒)
まず外国の言いなりになっている軍閥を倒す。そのあと外国勢力を追い出そう。
(2)北伐と中国共産党の動向
ポイント①北京にいる軍閥を倒せ!
国民党と共産党がともに立ち上がるが・・
・孫文の死(1925)
<五・三〇(ごさんじゅう)運動(1925)>
上海で労働者がスト。英人警察が発砲してしまった。
→再び全国的な反帝国主義運動へ拡大。(外国出てけ。軍閥倒せ。)
・北伐(1926)
=「北京にいる軍閥を倒せ!伐つ!」という動きのこと
国民党と共産党は広州(広東かんとん)国民政府を樹立。
2つのルートに分かれて北へ向かう
・国民党右派(反共的)指導者:蒋介石
・国民党左派(容共派)指導者:汪兆銘
↓↓
・上海クーデタ(1927)
蒋介石が共産党員を虐殺する。
帝国主義勢力や地主・浙江(せっこう)財閥と結託。
(蒋介石自体も浙江財閥の出身)
↓↓
・国共分裂
国民党と共産党の関係が悪化
↓↓
・南京国民政府(国民党のみで結成)
別ルートに行った国民党左派を南京に呼び寄せる。国民党だけで北伐する。(共産党は逃げる)
当時の軍閥は奉天派と呼ばれ、日本の操り人形。
リーダーは張作霖。蒋介石の北伐に日本は焦る。
↓↓
・山東出兵(1927~1928)
日本が山東省に出兵。北伐軍(蒋介石)を邪魔したい。
→しかし蒋介石はひょいとかわし北京に入り、軍閥を倒す。
↓↓
張作霖(軍閥のリーダー)
北伐軍(蒋介石)に敗れて逃亡。
↓↓
・張作霖爆殺事件(奉天事件)(1928)
日本の関東軍がやった。口封じ。
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息子の張学良が北伐軍(蒋介石)に降伏。
→北伐完成
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南京国民政府が中国の実験を掌握
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ポイント②中国共産党の「草の根」運動!
都市から農村へ、共産党は活動場所を変えた。
上海クーデタ後の共産党
・紅軍の創設(共産党の軍隊)
・中華ソヴィエト共和国臨時政府の成立
主席:毛沢東
都:瑞金(ずいきん)
都市から農村へ。
(3)朝鮮と東南アジアの民族運動
ポイント①朝鮮でおきた「民族自決」を求める動き!
日本の朝鮮総督府、統治方法を転換
・韓国併合(1910)
朝鮮は日本領土に。
朝鮮総督府 支配機関(天皇直属)
・武断政治の実施
軍隊・力による韓国支配。
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三・一独立運動(1919)
第一次世界大戦後のパリ講和会議の民族自決の原則に触発。
朝鮮各地で民衆デモが拡大(※五・四運動より先。同年)
↓↓
朝鮮総督府は焦る・・。
・文化政治へ移行
早く日本人にする。日本語や日本文化を強制。
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ポイント②東南アジアの民族運動!
アジアで最初の「ある組織」が結成
・ビルマ(ミャンマー)の独立運動
英領インド帝国(インドの東隣)
・タキン党
ビルマの即時完全独立を要求。英の支配を終わらせるのが目的。
指導者:アウン=サン
(現在でもミャンマーでは民族的英雄として崇められている。娘はアウン・サン・スーチー。WW2後、軍部独裁の中、自由と民主化を呼びかけた。ノーベル平和賞)
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・インドネシア独立運動
オランダ領東インド
・インドネシア共産党の結成
(→アジア初の共産党。初は中国ではない。ロシア革命の影響)
・インドネシア国民党
指導者:スカルノ
(第3夫人:デヴィ夫人)
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・インドシナ民族運動(ベトナム、カンボジア、ラオス)
仏領インドシナ
・ベトナム青年革命同志会
↓↓ 発展
・インドシナ共産党
指導者:ホー=チ=ミン
労働者・農民に支持を拡大
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・フィリピン民族運動
フィリピン独立の約束。
フランクリン・ローズヴェルト
フィリピン独立準備政府(武力ではなく平和的に独立)
(4)インドの民族運動
ポイント①インドを裏切ったイギリスに反発!
「非暴力」「不服従」の抵抗運動
<第一次世界大戦中のインドの動き>
・国民会議派
ヒンドゥー教徒。人口の80%。反英。
VS
・全インド=ムスリム連盟
イスラーム教徒。人口の10%。(英が作った)
大戦中は一時的に反英化。
大戦で英はオスマン帝国と敵対。
ムハンマドの代理人カリフがいたため。
↓↓
2つは対立していたが、協力関係に。手を結んで反英運動に。
↓↓
焦った英は・・戦後自治の約束。
インドは英に協力した。
↓↓
しかし・・戦争後
・ローラット法の制定(1919)
(令状なしの逮捕、裁判なしの投獄など。)
自治は反故にされる。インド国民は怒り爆発!
↓↓
・アムリットサール事件(1919)
英への抗議集会。武力で弾圧される
・ガンディーの抵抗運動(1919~1922)
非暴力・不服従
英への抵抗運動。→全インド国民に呼びかけ拡大。
「サティヤーグラハ(真理の把握)」を掲げる。
(=「私たちは正しいことを知っている」)
・ラホール大会
国民会議派:ネルー
完全独立(プールナ=スワラージ)を要求
「自治」ではなく「独立」!英出ていけ
・第2次非暴力・不服従運動(1930~1934)
「塩の行進」
英の塩の専売法に反対
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ポイント②焦った!イギリス
インドをなだめようとするも・・
イギリスの懐柔策
・英印円卓会議の開催(1930~1932)
開催地:ロンドン
ガンディーは1回だけ参加するも、あとは国民会議派はボイコット。
↓↓
・新インド統治法(改正インド統治法)(1935)
連邦制と各州の自治制を導入。
↓↓
ネルーは自治ではなく完全独立(プールナ=スワラージ)を要求!
インドの民族運動に拍車を掛ける。
(5) トルコ革命
ポイント①無力なオスマン帝国を滅ぼせ!
国民は弱腰なオスマン帝国に愛想を尽かす・・
<オスマン帝国の降伏>
第一次世界大戦に参戦。同盟国側で敗北。
↓↓
連合軍に支援されたギリシア軍がイズミル(トルコ内)に侵入・占領。(皇帝は容認)
・セーヴル条約(不平等条約)
領土の大部分を喪失、主権の制限、軍備制限、治外法権。
↓↓ 弱腰の政府に反発!
ムスタファ=ケマル(ケマル=パシャ)
アンカラで臨時政府を樹立。
侵入ギリシア軍との戦い。→成功
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ポイント②共和政トルコの新たな改革!
西欧風近代国家を目指せ
共和制トルコ
ムスタファ=ケマル(ケマル=パシャ)
・スルタン制の廃止(1922)→オスマン帝国の滅亡
スルタン=オスマン皇帝。トルコの国民が立ち上がって弱腰なオスマン帝国を倒した。
↓↓
・ローザンヌ条約の締結(1923)
セーブル条約に変わる新しい連合国との講和条約。イズミル回復。軍備制限や治外法権の撤廃。
↓↓
トルコ共和国の成立(1923)
(都:イスタンブルから→アンカラに変わる)
・ムスタファ・ケマルが初代大統領になり、西洋的な近代化を目指す。
・カリフ制廃止(カリフ=イスラーム世界のリーダー)
政教分離・・イスラム国家の中では政教分離は珍しい。
・女性解放
・文字改革 ローマ字採用。
コーランの文字、アラビア文字⇒ローマ字へ。識字率アップ
・尊称:「アタテュルク(トルコの父)」と議会から称号を付与。
(6)イスラーム諸国の動向
ポイント①イギリス支配からの脱却を目指せ
エジプト・イラン・アフガニスタンの動向・・
<エジプト>
・ワフド党(「代表」の意)の結成
エジプトの英からの独立をめざす。
・エジプト王国の「条件付き」独立(1922)
英はエジプトの防衛権を保有。英の軍隊がエジプト内にいる。(軍事占領)
↓↓ 軍、出ていって・・
・エジプト=イギリス同盟条約(1936)(完全独立)
エジプト国内の軍事占領は終了。スエズ運河地帯駐屯権を承認。
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<イラン>
・カージャール朝
第一次世界大戦前、英(北)と露(南)に支配されていた
WW1中は両国に占領。→ロシアは革命で抜ける。英の支配。
↓↓
英の言いなりの王朝をつぶして、英に出ていってもらおう
↓↓
・パフレヴィー朝
建国者:レザー=ハーン(位1925~1941)
英との不平等条約を撤廃!
国号をペルシアから⇒イランへ
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<アフガニスタン>インドの北
WWⅠ前 英の保護国
↓↓
・第3次アフガン戦争
英✕ VS 〇アフガニスタン
↓↓
・アフガニスタン独立(1919)
英はあっさり認める。
インドで独立運動が起こっていてそちらで手一杯。
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ポイント②現在まで続く、中東問題の諸悪の根源!
ここに原因あり!
<第一次世界大戦中のイギリス外交>
英の3つの秘密条約
[1]フセイン=マクマホン協定
アラブ人国家建設を約束
[2]サイクス・ピコ協定
トルコ領を英仏露で分割
[3]バルフォア宣言
パレスチナ(トルコ領)にユダヤ人国家の建設を支援
↓↓
委任統治(中東地域)
戦後、英仏の委任統治になった。
・仏の管理(北)
シリア、レバノン
・英の管理(南)
パレスチナ、トランスヨルダン、イラク
英仏が民族、宗派関係なく勝手に国境を引いた。WW2後その国境線のまま独立してしまった。これが今でも中東地域の情勢を不安定にしている要因。
↓↓
・イラク王国独立
・レバノン独立
(WWⅡ後)
・ヨルダン王国独立
・シリア独立
・パレスチナ
アラブ人 VS ユダヤ人
この対立を英は無視し続けた。
WWⅡ後、英は手放し、国連に渡す。
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