インド – 歴史note

【45】アジア諸地域の紛争

【45】アジア諸地域の紛争
(1)ベトナム戦争
(2)カンボジア・ラオスの情勢
(3)インドシナ半島以外の東南アジア
(4)南アジアの紛争
(5)中東戦争
(6)イラン革命


(1)ベトナム戦争
ポイント①社会主義の拡大を防ぎたい!
アメリカ、ベトナム戦争へ介入するも財政悪化

<インドシナ戦争後のベトナム>北緯17度線
・北ベトナム:ベトナム民主共和国(ホーチミン)
VS
・南ベトナム:ベトナム国(バオダイ)が擁立
↓↓
ベトナム共和国の成立(1955)が擁立
ゴ・ディン・ジエム大統領
→南北統一選挙を拒否。親米・反共の独裁政治。

南ベトナム解放民族戦線の結成(解放戦線)
一部の民衆が抵抗。「北とくっつきたい」。南ベトナムの内部でできた組織。南ベトナムでクーデタ頻発。
→ゴ・ディン・ジエム暗殺

↓↓ 焦るアメリカ・・
(トンキン湾事件をねつ造)

ベトナム戦争(1955~1975)>
米国の北ベトナム爆撃(北爆)(1965)
36代 ジョンソン大統領
米、韓国、フィリピン、オーストラリアなど50万人以上の軍を派遣

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②ベトナム戦争の泥沼化・・
アメリカの国際的威信は大きく低下。停戦を求めて動き始める。

<ベトナム戦争>
・南ベトナム解放民族戦線が各地で猛反撃(ゲリラ戦)
ベトナム反戦運動の高揚
米国内をはじめ欧州・日本でも展開
→アメリカの国際的孤立

・パリ和平会談
ジョンソン大統領が北爆の部分停止を表明

ニクソン訪中(1972)
中国に頼んだ「アメリカに不利にならないように斡旋して下さい」
↓↓
ベトナム(パリ)和平協定(1973)
米軍のベトナム撤退
37代 ニクソン大統領
(※ベトナム戦争はジョンソンで始め、ニクソンで終わる)
↓↓
・サイゴン攻略(1975)
南ベトナム政府が壊滅
↓↓
ベトナム社会主義共和国の成立(1976)南北ベトナム統一
北ベトナムが南ベトナムを吸収。
↓↓
ドイモイ(刷新)の展開(1980年代)
改革・開放路線


(2)カンボジア・ラオスの情勢
ポイント①ベトナム戦争に巻き込まれた?
米軍、ベトナムの隣国カンボジア、ラオスへ侵攻

<カンボジア>
カンボジア独立(1953)(仏→日→仏より)
国王シハヌーク(親中派
社会主義へ傾倒
↓↓
・米軍のカンボジア侵攻
シハヌークを追放
ロン=ノル政権(親米派)

<ラオス>
ラオス独立(1953)(仏→日→仏より)
政情不安定が続く
親米派首相 VS 左派勢力(社会主義)
米軍のラオス侵攻

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②カンボジアにおける内戦の激化
米軍撤退後、暗黒の時代へ突入・・

国王シアヌーク追放後・・
民主カンプチア(民主カンボジア)
米軍ベトナムから撤退。ロン・ノルは後ろ盾(米)を失う
↓↓
ポル・ポト政権>(1975~1979)
・親中派(中国をモデルにした国づくり)
・赤色(せきしょく)クメール(クメールルージュ)
農村を基盤とする極端な共産主義社会の建設
反対派を虐殺。
↓↓
ヘン・サムリン政権・・反ポルポト。ベトナムの支援を受ける。
ベトナム軍のカンボジア侵攻
ポル・ポト政権の崩壊
↓↓
中越(中国=ベトナム)戦争(1979)
中国(ポルポト)✕  VS  〇ベトナム(ヘンサムリン)
(初の社会主義同士の戦い)
↓↓
ヘン・サムリン政権はベトナムの力を借りて長期政権へ。


(3)インドシナ半島以外の東南アジア
ポイント①開発独裁の行き詰まり
フィリピン・インドネシアでみられた独裁の終焉

(フィリピン)
マルコス大統領(任1965~1986)>(反共・親米)
開発独裁
反政府運動の高まり
イスラーム勢力

======
(インドネシア)
<初代 スカルノ大統領(任1945~1967)>
・九・三〇事件(軍部クーデタ)
軍部保守派が実験を掌握
↓↓
<2代 スハルト大統領(任1968~1998)>(反共・親米)

東南アジア諸国連合結成(ASEAN)アセアン
Association of South-East Asian Nations)
東南アジアの社会主義化を防ぐためにできた。
→後に反共の色は薄れ、経済協力組織になっていく。現在でもある。(高市首相も参加 2025/10/26)

(cf ※東南アジア条約機構(SEATO)はベトナム戦争の終結で解消。現在はもうない。)

・東ティモール、アチェ、インドネシアからの独立の動き
・アジア通貨危機の混乱
→スハルト退陣

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②マレー半島内部の民族対立
現地マレー人と華僑の対立

(マレーシア)
マラヤ連邦の成立
イギリス連邦の自治領

マレーシア連邦の成立
マラヤ連邦・シンガポールなど

現地マレー人を優遇する経済政策
→貧富の差を解消することが目的
↓↓
華僑(中国からの移民)が反発
マレーシアから独立
↓↓
シンガポール、分離・独立(1965)
新興工業経済地域(NIES/ニーズの一員へ
(韓国・台湾・香港・シンガポール・ブラジル)
発展途上国の中から急速な工業化に成功し高い経済成長率を実現。


(4)南アジアの紛争
ポイント①インド VS パキスタン
東パキスタンの独立を支援するインド

第1次インド・パキスタン戦争(1947~1949)>
カシミール帰属問題
住民はイスラーム系、藩王はヒンドゥー系
・ガンディー暗殺(1948)

・インドの核保有(1974)
世界で6番目

パキスタン共和国独立(1947)>
初代総督:ジンナー(任1947~1948)
全インド=ムスリム連盟の指導者

バングラデシュ(東パキスタン)分離・独立(1971)
インドが支援
↓↓
第3次インド・パキスタン戦争(1971)

・パキスタンの核保有(1998)

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②スリランカの内戦
宗教対立が火種に・・

<スリランカ内戦>
・スリランカ(セイロン)独立(1948)
(セイロン→スリランカに改名(1972))

・スリランカ内戦(1983~2009)26年
タミル人(少数派・ヒンドゥー教徒)
VS
シンハラ人(先住民・仏教徒)

※英が茶葉の栽培の労働力のため、南インドからタミル人を強制連行した。


(5)中東戦争
ポイント①第1次・第2次中東戦争
パレスチナ分割案が引きがねに・・

WW1後、英がパレスチナを管理
WW2、英が管理を放棄
↓↓
<第1次中東戦争(1948)>
パレスチナ分割案が国連総会で可決
→ユダヤ人がイスラエル建国
アラブ諸国連盟✕ VS 〇イスラエル
→アラブ人がパレスチナ難民に・・

=========
<第2次中東戦争(スエズ戦争)1956)>
ナセル大統領(エジプト)
スエズ運河国有化宣言
→イスラエル、英、仏が出兵
→国連が即時停戦を決議
→停戦

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②第3次・第4次中東戦争
アラブ人を追い出した!非道なイスラエル

<第3次中東戦争(1967)> イスラエル圧勝〇
パレスチナ解放機構(PLO)結成
アラファト議長(任1969~2004)
難民を救済。アラブ人の権利を守っていこう。

イスラエルがエジプト・シリア・ヨルダンに先制攻撃
[1]シナイ半島(エジプト)
[2]ガザ地区(エジプト)
[3]ヨルダン川西岸(ヨルダン)
[4]ゴラン高原(シリア)
を軍事占領
→ますます難民が増える・・

=========
<第4次中東戦争(1973)>
サダト参戦
アラブ石油輸出国機構(OAPEC)の結成
石油が取れるアラブ人国家

アラブ側が先制攻撃
→イスラエルの反撃

・アラブ産油国が石油戦略を発動
第1次石油危機(オイルショック)
OAPEC・・親イスラエル諸国への石油輸出停止
OPEC(石油輸出国機構)・・原油価格を値上


(6)イラン革命
ポイント①イラン=イスラーム共和国の成立
イスラーム原理主義を掲げ、革命が発生

イラン(首都:テヘラン、他の都市:イスファハーン)右・東
イラク(首都:バグダッド)左・西
イ|イ
ラ|ラ
ク|ン
ーーーーーーー
クウェ|
ペルシア湾

イランで起きた革命
国王パフレヴィー2世(位1941~1979)>親米、親英、反共
・「上からの近代化」を推進
・バグダード条約機構(中東条約機構・METO)に加盟
反共路線
→中央条約機構に加盟(CENTO)

↓↓ 貧富の差が拡大

イラン=イスラーム革命(1979)>
シーア派ホメイニが指導
イスラーム原理主義
(※シーア派は少数派で、人口の10%だが、イランシーア派が多い。→サファヴィー朝ペルシアで、シーア派が国教だったため)

→パフレヴィー2世の亡命
イラン=イスラーム共和国が成立
これまでの路線をガラッと変える→反米、反英

・産油量の削減
第2次石油危機(オイルショック)

アメリカとイランの関係は急速に悪化。米はイラクが憎い!国交断絶に・・

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②湾岸戦争、勃発
イラク、クウェートへ侵攻

イラクの動向>(都:バグダッド)

イラク革命・・王政を廃止

サダム・フセイン大統領(任1979~2003)>
独裁権力(→イラクにはシーア派、スンナ派、その他の民族が混在しているため)

隣のイランでシーア派のホメイニが革命を起こした(イラン=イスラーム革命1979)。イラクでもシーア派が立ち上がられたら困る・・。
↓↓
イラン・イラク戦争(1980~1988)
米が味方になってくれる(米はイランが嫌いなので)
長期戦、勝負は引き分け。財政難に・・。
↓↓
クウェート侵攻(1990)
石油が取れる地域。フセインが「元々クウェートはイラクの領土だ」と言って侵攻する。
↓↓
湾岸戦争(1991)
米を中心とする多国籍軍がイラクを空爆

多国籍軍(米)〇 VS ✕イラク(フセイン)
(米の手のひら返し・・)

 


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【41】米ソ冷戦の時代

【41】米ソ冷戦の時代
(1)第二次世界大戦後のヨーロッパ世界
(2)冷戦の始まり
(3)米ソ両陣営の軍事ブロック
(4)中国と朝鮮半島の行方
(5)東南アジア諸地域の独立
(6)南アジア・西アジアの独立


(1)第二次世界大戦後のヨーロッパ世界
ポイント①西ヨーロッパ世界の動向
世界大戦の痛手から復興を目指す

<イギリス>
チャーチル
アトリー内閣(任1945~1951)労働党
・重要産業国有化(イングランド銀行、石炭など)
・社会福祉制度の充実
「ゆりかごから墓場まで」

・エール、イギリス連邦離脱
アイルランドと改称

<フランス>
第四共和政(1946~1958)
議会制内閣を採用
フランス共産党が勢力拡大

<イタリア>
王政廃止
国民投票で王政が廃止され、共和政へ

イタリア共産党
西欧最大の共産党

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②東ヨーロッパ世界には大きな変化が!?
忍び寄るソ連の影響力

<東欧>
ソ連のおかげでナチスを追い出せた。なのでソ連の影響を受ける。ソ連の衛星国に。(言いなりに)
↓↓
人民民主主義
・ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア
・ユーゴスラヴィア
指導者:ティトー(自力でナチスを追い出した。ソ連とは距離を置く)

「鉄のカーテン」演説>
英・元首相チャーチル
シュテッティン(バルト海)からトリエステ(アドリア海)まで
→ソ連の「鉄のカーテン」


(2)冷戦の始まり
ポイント①アメリカの対ソ封じ込め政策とは?
ソ連の影響力拡大を防げ

(政治対立)
<資本主義陣営(アメリカ中心)>
封じ込め政策
トルーマン=ドクトリン(トルーマン宣言)
ギリシア、トルコを援助
両国の共産主義化を阻止

↓↓ 具体的なプラン

マーシャル・プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)
国務長官:マーシャル
全ヨーロッパ対象の経済援助を表明。

<社会主義陣営(ソ連中心)>
コミンフォルム(共産党情報局)の発足
ソ連がリーダー。東欧7カ国+伊仏の共産党。
他国に指示を出す。
途中、ユーゴスラヴィアを除名

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②資本主義陣営に衝撃がはしる!
共産党クーデタが発生

<資本主義陣営の動揺>
チェコスロバキア=クーデタ
共産党クーデタで当時の大統領が辞任
資本主義国→共産党政権が発足
(ナチスからチェコを解放したのはソ連だったため。)
↓↓
西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)
英・仏・ベネルクス3国(オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)の5カ国の軍事同盟


(3)米ソ両陣営の軍事ブロック
ポイント①ドイツをめぐるトラブルの発生!
東西ドイツへの分裂は回避不可能!

<東西ドイツの対立>
・西側管理地区・通貨改革(米英仏)
独立の準備を始める(ソ連に無断)
→ソ連がベルリン封鎖
西ベルリンへの交通を封鎖
↓↓
米は1年間、空輸で物資を運ぶ
↓↓
ベルリン封鎖解除。東西ドイツ、それぞれ独立。

ドイツ連邦共和国(西ドイツ)
首相:アデナウアー(任1949~)
奇跡の経済復興

ドイツ民主共和国(東ドイツ)

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②米ソ両陣営の経済・軍事同盟の成立
ますます対立を深める米ソ両陣営の行方・・

<東西両陣営の対立>
(経済対立)
ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)(資本主義)
マーシャル・プランの受け入れ機関
VS
コメコン(経済相互援助会議、COMECON)(社会主義)
ソ連と東欧6カ国
======
(軍事対立)
北大西洋条約機構(NATO)
アメリカ中心に12カ国加盟
西ドイツ再軍備→NATOに加盟
VS
ワルシャワ条約機構
ソ連の核実験成功。アメリカに次ぐ2番目の核保有国に。
ソ連中心の軍事同盟。NATOに対抗。


(4)中国と朝鮮半島の行方
ポイント①国民党vs共産党
第二次世界大戦後、中国を支配するのはどっち?

<内戦(国共内戦)>
中国共産党
指導者:毛沢東
地主の土地所有を廃止
→農民からの指示拡大
VS
中国国民党
指導者:蒋介石
→国共内戦に敗北
中華民国政府を台湾へうつす

中華人民共和国の成立(1949)
首都:北京
国家主席:毛沢東(任1949~1959)
(中国共産党・党首)
首相:周恩来(任1949~1976)

中ソ友好同盟相互援助条約(1950)
軍事、経済の同盟

・中華人民共和国の承認
建国直後にソ連、東欧、インドが承認

・土地改革
大地主から土地を没収→農民に分配

第1次五カ年計画(1953~1957)
ソ連の援助。
重工業の優先、農業の集団化

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②朝鮮半島の分断化
現在まで続く南北戦争の分断の原因とは?

日本の敗戦。朝鮮から撤退。
↓↓
米ソの分割占領
北緯38度線
大韓民国(韓国)
首都:ソウル
初代大統領:李承晩(りしょうばん/イ・スンマン)

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)
首都:ピョンヤン
初代首相:金日成(きんにちせい/キム・イルソン)


(5)東南アジア諸地域の独立
ポイント①ベトナムの独立を認めないフランス!
インドシナ戦争の勃発とその後の展開

<戦後のベトナム>
・ベトナム独立同盟(ベトミン)
指導者:ホーチミン(社会主義
↓↓
ベトナム民主共和国の成立
ホーチミン
↓↓
仏は認めない。日本撤退後は仏が再度支配する。軍事侵攻。
↓↓
インドシナ戦争(1946~1954)>
仏✕ VS 〇ベトナム
ベトナム国の成立(南ベトナム・仏の傀儡国家)
首都:サイゴン
主席:バオダイ

ディエンビエンフーで仏軍が大敗
ジュネーヴ会議(1954)
ジュネーヴ休戦協定・・北緯17度線を暫定的な軍事境界線
↓↓
慌てたのはアメリカ。。このままでは社会主義になる・・。
東南アジア条約機構(SEATO)の結成
反共軍事同盟

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②ベトナム以外の東南アジアの独立
旧宗主国からの独立を達成!

<東南アジアの諸島部>
インドネシア共和国独立
首都:ジャカルタ
初代大統領:スカルノ大統領(任1945~1967)
インドネシア国民党

フィリピン共和国独立
首都:マニラ

<東南アジアの大陸部>(から独立)
インドシナ戦争で仏が負けて出ていった
↓↓
カンボジア独立
首都:プノンペン

ラオス独立
首都:ビエンチャン

<東南アジアの大陸部>(から独立)
マラヤ連邦独立
ビルマ独立


(6)南アジア・西アジアの独立
ポイント①インドの独立達成!
統一インドを主張し続けたガンディーは・・

インド独立>(1947)
・インド連邦→インド共和国
首相:ネルー(国民会議派)(任1947~1964)

パキスタン共和国独立 イスラム教徒
総督:ジンナー(任1947~1948)
(全インド=ムスリム連盟)
(※パキスタンは東・西に飛び地だった。東パキスタン→後のバングラデシュに)

スリランカ(セイロン)独立

第1次インド=パキスタン戦争(1947~1949)
カシミール帰属問題(インド北)
住民はイスラーム教徒。王はヒンドゥー教徒。

ガンディー暗殺(1948)
戦争をやめるように訴えた。
同じヒンドゥー教徒に弱腰だと言われ、暗殺される・・。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②西アジア諸地域の動き
戦後も欧米諸国の思惑に振り回される中東

<イラン>
WW2中、王朝パフレヴィー朝は英米にすりよる外交。(親米・親英)
石油を英米に安く渡していた。
↓↓
WW2が終わると
・首相:モサデグ(任1951~1953)
石油を国有化=資源ナショナリズム
「石油はイランのものだ!」
→英の石油会社の施設を接収
→国王派のクーデタで失脚
↓↓
国王パフレヴィー2世
「上からの近代化」を推進(英・米の支援
貧富の差が拡大

======
パレスチナ>(国ではなく地域)
アラブ人(多)、ユダヤ人(少)が住む。
英が委任統治していたが放棄
↓↓
アラブ諸国連盟の結成
アラブ連盟
↓↓
パレスチナ分割案が国連総会で可決
パレスチナをユダヤ人地域とアラブ人地域に分割。
面積は半分ずつ。ユダヤに有利に。
↓↓
イスラエル建国(ユダヤ人国家)(1948)
↓↓
アラブ人が不満。
・パレスチナ戦争(第1次中東戦争)(1948~1949)
イスラエル+米〇 VS ✕アラブ諸国連盟
↓↓
100万人のパレスチナ難民
(→イスラエルに追い出されたアラブ人)

 


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【38】戦間期のアジア諸地域

【38】戦間期のアジア諸地域
(1) 新文化運動と中国の民衆運動
(2) 北伐と中国共産党の動向
(3) 朝鮮と東南アジアの民族運動
(4) インドの民族運動
(5) トルコ革命
(6) イスラーム諸国の動向


当時植民地にならなかったのは日本とタイだけ。(中央集権化が進んでいたのも一因)。ほとんどのアジアは欧米列強に支配された。第一次世界大戦のあと、戦争でヨーロッパが弱っている、今が独立のチャンスと思った。

(1)新文化運動と中国の民衆運動
ポイント①中国国民を巻き込む一大運動へ!
北京大学の教授陣が中心となった啓蒙運動

新文化運動(文学革命)
北京大学
教授陣が民衆の啓蒙化に尽力。

陳独秀(→後に共産党を創始)
『新青年』
雑誌刊行
「民主主義と科学」をスローガンに。
中国の旧体制、儒学を批判。

胡適(こせき・こてき)
白話(はくわ)文学運動 文語⇒口語

李大釗(りたいしょう)
マルクス主義研究会の創設。中国に社会主義、共産主義を伝える。

魯迅(ろじん)日本の東北大学医学部に留学
『狂人日記』『阿Q正伝』民衆への啓蒙

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②国民党と共産党の協力体制の完成!
孫文が目指した中国の国民革命

<五・四運動(1919)>
パリ講和会議で二十一カ条要求取り下げ認められず
↓↓
北京大学の学生を中心に大規模なデモが発生
→全国的な反帝国主義へ発展。
反欧米、反日、反軍閥政府。
↓↓
軍閥政府はヴェルサイユ条約調印を拒否

中国国民党を結成(資本主義的)
孫文。大衆政党。金持ちの味方。

中国共産党を結成。(社会主義的)
初代委員長:陳独秀。上海で。貧しい人の味方。
(※毛沢東は途中からリーダーになった。)
↓↓
2つの党は相反する主義だが、目的は同じ
「外国を追い出して、中国国民のための国を作る」
↓↓
第1次国共合作(1924)
国民党と共産党が力を合わせる。
孫文「連ソ・容共・扶助工農
(共産党を受け入れよう。中国の工業・農業を育てよう。)
国民革命の遂行(軍閥打倒
まず外国の言いなりになっている軍閥を倒す。そのあと外国勢力を追い出そう。


(2)北伐と中国共産党の動向
ポイント①北京にいる軍閥を倒せ!
国民党と共産党がともに立ち上がるが・・

孫文の死(1925)

五・三〇(ごさんじゅう)運動(1925)>
上海で労働者がスト。英人警察が発砲してしまった。
→再び全国的な反帝国主義運動へ拡大。(外国出てけ。軍閥倒せ。)

北伐(1926)
=「京にいる軍閥を倒せ!つ!」という動きのこと
国民党と共産党は広州(広東かんとん)国民政府を樹立。

2つのルートに分かれて北へ向かう
・国民党右派(反共的)指導者:蒋介石
・国民党左派(容共派)指導者:汪兆銘
↓↓
上海クーデタ(1927)
蒋介石共産党員を虐殺する。
帝国主義勢力や地主・浙江(せっこう)財閥と結託。
(蒋介石自体も浙江財閥の出身)
↓↓
国共分裂
国民党と共産党の関係が悪化
↓↓
南京国民政府(国民党のみで結成)
別ルートに行った国民党左派を南京に呼び寄せる。国民党だけで北伐する。(共産党は逃げる)

当時の軍閥は奉天派と呼ばれ、日本の操り人形。
リーダーは張作霖。蒋介石の北伐に日本は焦る。
↓↓
山東出兵(1927~1928)
日本が山東省に出兵。北伐軍(蒋介石)を邪魔したい。
→しかし蒋介石はひょいとかわし北京に入り、軍閥を倒す。
↓↓
張作霖(軍閥のリーダー)
北伐軍(蒋介石)に敗れて逃亡
↓↓
張作霖爆殺事件(奉天事件)(1928)
日本の関東軍がやった。口封じ。
↓↓
息子の張学良が北伐軍(蒋介石)に降伏
北伐完成
↓↓
南京国民政府が中国の実験を掌握

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②中国共産党の「草の根」運動!
都市から農村へ、共産党は活動場所を変えた。

上海クーデタ後の共産党
紅軍の創設(共産党の軍隊)

中華ソヴィエト共和国臨時政府の成立
主席:毛沢東
都:瑞金(ずいきん)
都市から農村へ。


(3)朝鮮と東南アジアの民族運動
ポイント①朝鮮でおきた「民族自決」を求める動き!
日本の朝鮮総督府、統治方法を転換

・韓国併合(1910)
朝鮮は日本領土に。

朝鮮総督府 支配機関(天皇直属)
武断政治の実施
軍隊・力による韓国支配。
↓↓
三・一独立運動(1919)
第一次世界大戦後のパリ講和会議の民族自決の原則に触発。
朝鮮各地で民衆デモが拡大(※五・四運動より先。同年)
↓↓
朝鮮総督府は焦る・・。
文化政治へ移行
早く日本人にする。日本語や日本文化を強制。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②東南アジアの民族運動!
アジアで最初の「ある組織」が結成

ビルマ(ミャンマー)の独立運動
英領インド帝国(インドの東隣)

タキン党
ビルマの即時完全独立を要求。英の支配を終わらせるのが目的。
指導者:アウン=サン
(現在でもミャンマーでは民族的英雄として崇められている。娘はアウン・サン・スーチー。WW2後、軍部独裁の中、自由と民主化を呼びかけた。ノーベル平和賞)
==============
インドネシア独立運動
オランダ領東インド

インドネシア共産党の結成
(→アジア初の共産党。初は中国ではない。ロシア革命の影響)

インドネシア国民党
指導者:スカルノ
(第3夫人:デヴィ夫人)
==============
インドシナ民族運動(ベトナム、カンボジア、ラオス)
仏領インドシナ

・ベトナム青年革命同志会
↓↓ 発展
インドシナ共産党
指導者:ホー=チ=ミン
労働者・農民に支持を拡大

==============
フィリピン民族運動
フィリピン独立の約束。
フランクリン・ローズヴェルト
フィリピン独立準備政府(武力ではなく平和的に独立)


(4)インドの民族運動
ポイント①インドを裏切ったイギリスに反発!
「非暴力」「不服従」の抵抗運動

<第一次世界大戦中のインドの動き>
国民会議派
ヒンドゥー教徒。人口の80%。反英。
VS
全インド=ムスリム連盟
イスラーム教徒。人口の10%。(英が作った)
大戦中は一時的に反英化。
大戦でオスマン帝国と敵対。
ムハンマドの代理人カリフがいたため。
↓↓
2つは対立していたが、協力関係に。手を結んで反英運動に。
↓↓
焦った英は・・戦後自治の約束。
インドは英に協力した。
↓↓
しかし・・戦争後
ローラット法の制定(1919)
令状なしの逮捕裁判なしの投獄など。)
自治は反故にされる。インド国民は怒り爆発!
↓↓
アムリットサール事件(1919)
英への抗議集会。武力で弾圧される

ガンディーの抵抗運動(1919~1922)
非暴力・不服従
英への抵抗運動。→全インド国民に呼びかけ拡大。
サティヤーグラハ(真理の把握)」を掲げる。
(=「私たちは正しいことを知っている」)

・ラホール大会
国民会議派:ネルー
完全独立(プールナ=スワラージ)
を要求
「自治」ではなく「独立」!英出ていけ

第2次非暴力・不服従運動(1930~1934)
「塩の行進」
英の塩の専売法に反対

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②焦った!イギリス
インドをなだめようとするも・・

イギリスの懐柔策

英印円卓会議の開催(1930~1932)
開催地:ロンドン
ガンディーは1回だけ参加するも、あとは国民会議派はボイコット。
↓↓

新インド統治法(改正インド統治法)(1935)
連邦制と各州の自治制を導入。
↓↓
ネルーは自治ではなく完全独立(プールナ=スワラージ)を要求!
インドの民族運動に拍車を掛ける。


(5) トルコ革命
ポイント①無力なオスマン帝国を滅ぼせ!
国民は弱腰なオスマン帝国に愛想を尽かす・・

オスマン帝国の降伏
第一次世界大戦に参戦。同盟国側敗北
↓↓
連合軍に支援されたギリシア軍がイズミル(トルコ内)に侵入・占領。(皇帝は容認)

セーヴル条約(不平等条約)
領土の大部分を喪失、主権の制限、軍備制限、治外法権。

↓↓ 弱腰の政府に反発!

ムスタファ=ケマル(ケマル=パシャ)
アンカラで臨時政府を樹立。
侵入ギリシア軍との戦い。→成功

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②共和政トルコの新たな改革!
西欧風近代国家を目指せ

共和制トルコ
ムスタファ=ケマル(ケマル=パシャ)

スルタン制廃止(1922)→オスマン帝国の滅亡
スルタン=オスマン皇帝。トルコの国民が立ち上がって弱腰なオスマン帝国を倒した。
↓↓
ローザンヌ条約の締結(1923)
セーブル条約に変わる新しい連合国との講和条約。イズミル回復。軍備制限や治外法権の撤廃。
↓↓
トルコ共和国の成立(1923)
(都:イスタンブルから→アンカラに変わる)

・ムスタファ・ケマルが初代大統領になり、西洋的な近代化を目指す。

カリフ制廃止(カリフ=イスラーム世界のリーダー)
政教分離・・イスラム国家の中では政教分離は珍しい

女性解放

文字改革 ローマ字採用
コーランの文字、アラビア文字⇒ローマ字へ。識字率アップ

・尊称:「アタテュルク(トルコの父)」と議会から称号を付与。

 


(6)イスラーム諸国の動向
ポイント①イギリス支配からの脱却を目指せ
エジプト・イラン・アフガニスタンの動向・・

エジプト
ワフド党(「代表」の意)の結成
エジプトの英からの独立をめざす。

エジプト王国の「条件付き」独立(1922)
英はエジプトの防衛権を保有。英の軍隊がエジプト内にいる。(軍事占領)
↓↓ 軍、出ていって・・

エジプト=イギリス同盟条約(1936)(完全独立
エジプト国内の軍事占領は終了。スエズ運河地帯駐屯権を承認。

============
イラン
カージャール朝
第一次世界大戦前、(北)と(南)に支配されていた
WW1中は両国に占領。→ロシアは革命で抜ける。英の支配
↓↓
英の言いなりの王朝をつぶして、英に出ていってもらおう
↓↓
パフレヴィー朝
建国者:レザー=ハーン(位1925~1941)
英との不平等条約を撤廃!
国号をペルシアから⇒イラン

============
アフガニスタン>インドの北
WWⅠ前 英の保護国
↓↓
第3次アフガン戦争
英✕ VS 〇アフガニスタン
↓↓
アフガニスタン独立(1919)
英はあっさり認める。
インドで独立運動が起こっていてそちらで手一杯。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②現在まで続く、中東問題の諸悪の根源!
ここに原因あり!

<第一次世界大戦中のイギリス外交>
英の3つの秘密条約
[1]フセイン=マクマホン協定
アラブ人国家建設を約束

[2]サイクス・ピコ協定
トルコ領を英仏露で分割

[3]バルフォア宣言
パレスチナ(トルコ領)にユダヤ人国家の建設を支援
↓↓
委任統治(中東地域)
戦後、英仏の委任統治になった。
の管理(北)
シリア、レバノン
の管理(南)
パレスチナ、トランスヨルダン、イラク

英仏が民族、宗派関係なく勝手に国境を引いた。WW2後その国境線のまま独立してしまった。これが今でも中東地域の情勢を不安定にしている要因。
↓↓
・イラク王国独立
・レバノン独立
(WWⅡ後)
・ヨルダン王国独立
・シリア独立

パレスチナ
アラブ人 VS ユダヤ人
この対立を英は無視し続けた。
WWⅡ後、英は手放し、国連に渡す。

 


 

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【34】帝国主義とアジアの民族運動

【34】帝国主義とアジアの民族運動
(1)インドの反英運動
(2)東南アジアの民族運動
(3)西アジアの民族運動


(1)インドの反英運動
ポイント①当初は親英的?インド国民議会の結成
インドの民族運動を懐柔するためにイギリスが取った政策

<インド民族運動の形成>
インド国民会議の結成(ヒンドゥー教徒中心)ボンベイ
がインド支配にあたってインドの知識人を抱き込む。「君たちの意見を政策に反映させるよ」。
↓↓
国民会議派
インド国民会議に参加した人々による親英的な政治結社。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②イギリスなんて早く出ていけ!
親英的な組織が反親英組織へ・・

反英運動の高まり>
ベンガル分割令(1905)(カーゾン法)
ベンガルでイスラーム教徒とヒンドゥー教徒を分けて住まわせる政策。
↓↓
英は宗教対立を引き起こして団結するのを防ごうとした。国民会議派に見破られた。
↓↓
国民会議派は激怒。親英から反親英に。
↓↓
カルカッタ大会4綱領(こうりょう)の採択
国民会議派の急進派・指導者:ティラク
4つの綱領
[1]英貨排斥(えいかはいせき)(英製品の不買)
[2]スワデーシ国産品愛用)スワ「自分の」デーシ「国の」
[3]スワラージ自治の獲得)スワ「自分の」ラージ「支配」
[4]民族教育

英は焦る。
↓↓
全インド=ムスリム連盟を発足。
の支援で結成。インドのイスラーム教徒の政治団体。
VS
国民会議派 ヒンドゥー教徒

ベンガル分割令撤回(1911)
撤回はされたが宗教対立は残ってしまった。


(2)東南アジアの民族運動
ポイント①ベトナム・インドネシアの民族運動
フランス・オランダに対する民族運動の行方・・

ベトナム民族運動
フランス支配下・仏領インドシナ
ファン=ボイ=チャウ
維新会の結成(←日本の明治維新を参考にしている)
↓↓
ドンズー(東遊)運動=日本に留学生を多く送る。
ベトナムの近代化をめざす。日露戦争での日本の勝利に影響。

↓↓ しかし・・日本と手を組みドンズー運動は弾圧を受ける。

ベトナム光復会(今度は中国をモデルに)

インドネシア民族運動
オランダ支配・オランダ領東インド

サレカット=イスラーム結成
「イスラーム同盟」という意味。商人や知識人を中心に組織を拡大。自治を要求。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②フィリピンの民族運動
スペイン支配の次はアメリカ支配!?

フィリピン独立運動
スペイン支配下
ホセ=リサール
小説でスペインを批判。銃殺刑に・・。

アギナルド
スペイン支配からの独立をめざしフィリピン革命をおこす。革命政府大統領になったがスペインに追われて逃げる。
↓↓
米西(アメリカ=スペイン)戦争(1898)
アギナルドが米の援助で帰国。フィリピン共和国の建国。スペインからの独立
↓↓ ところが・・
フィリピンは米の領土になってしまう。
↓↓
フィリピン=アメリカ戦争(1899~1902)
フィリピン✕ VS 〇アメリカ
アギナルドは反米闘争→逮捕。フィリピンは独立できず米支配に。


(3)西アジアの民族運動
ポイント①オスマン帝国では立憲運動が再発!?
日露戦争の影響がオスマン帝国にまで届く

オスマン帝国立憲運動
・皇帝アブデュル=ハミト2世(位1876~1909)
ロシア=トルコ戦争時に、ミドハト憲法を停止した。
↓↓
領土縮小。もう一度皇帝の力を抑えようという動き。
↓↓
「青年トルコ人」の結成
中心団体:「統一と進歩団
日露で勝った日本に影響。憲法復活をめざす
↓↓
青年トルコ革命(1908)
ミドハト憲法復活!(日露戦争の影響)
皇帝アブデュル=ハミト2世→退位
オスマン帝国は立憲君主制を確立。
(しかしもう遅かったか・・。列強の植民地支配から脱却できず。)

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②イランの立憲運動の行方
英露の干渉に耐えるイランで起きた運動とは?

イラン立憲運動
パン=イスラーム主義
アフガーニーが提唱
「全てのイスラム教徒が団結して、欧米の帝国主義に対抗しよう」
↓↓
タバコ=ボイコット運動(1891)
イランの民衆が反英、反国王運動。

イラン立憲革命(1905~1911)
日露戦争の影響。日本の明治維新を参考にして仮憲法の制定、国会開設までいくも・・
↓↓
英露協商(1907)
ペルシア分割(イランの領土が一部英露に支配される)
北部:露領(カスピ海の南半分周辺)
南部:英領(ペルシア湾周辺)
※英と露はイランをめぐって対立していたが、独に対抗するため手を結ぶ。
↓↓
イラン立憲革命は英露が干渉し、つぶす。

憲法制定して国内を立て直し、外国を追い出す。
⇒オスマン帝国は成功〇、イランは失敗✕。

 


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【30】アジア諸地域の植民地化

【30】アジア諸地域の植民地化
(1)フランスのインドシナ進出
(2)オランダ・イギリスの東南アジア進出
(3)イギリス東インド会社のインド経営
(4)オスマン帝国の衰退
(5)オスマン帝国の近代化
(6)イラン・アフガニスタンの植民地化


30ーキーワード
<東南アジア>
・仏⇒仏領インドシナ(ベトナム・カンボジア・ラオス)
・蘭⇒オランダ領東インド(インドネシア)
・英⇒マレー連合州(マレーシア)=海峡植民地(シンガポール、ペナン、マラッカ)+α。ミャンマー。
<インド>
・英⇒印:シパーヒーの反乱(1857)⇒ムガル帝国滅亡(1858)⇒インド帝国(1877)
<オスマン帝国>
・アブデュル=メジト1世「タンジマート(恩恵改革)」
・ミドハト=パシャ「ミドハト憲法」(1876)
<その他>
・ウラービー運動(エジプトの反英運動)
・タバコボイコット運動(イランの反英運動)


30ーガイダンス(1~6)
・東南アジア・・仏・蘭・英(仏は中国への中継基地がほしい)
・インド・・英の単独支配(英仏の戦争に英が勝ったため)
英本国ではなく英東インド会社(貿易会社)がインド経営をする。(ある変化が。。貿易→徴税)
・西アジア・・オスマン帝国の衰退・近代化。イラン・アフガニスタンなど。


(1)フランスのインドシナ進出
ポイント①ナポレオン3世のインドシナ進出
なぜこのタイミングでベトナムを攻めるの?

(ナポレオン3世)がインドシナ(=現ベトナム・カンボジア・ラオス)に進出。

<ベトナム>
阮朝(げんちょう)/ 越南国
建国:阮福映(げんふくえい)。仏宣教師ピニョーが支援。
清の朝貢国(弟分)。清からは越南国(えつなんこく)と呼ばれる。

ラオス  |ベ
_________|ト
カンボジア|ナ
_________|ム

仏のインドシナ(ベトナム)進出理由は・・
→アロー戦争で仏は中国進出を始めた。中継基地が欲しかった。
↓↓
仏越(ふつえつ)戦争。〇仏ナポ3世 VS 越✕
仏がベトナムのサイゴンを獲得。
カンボジアを保護国化。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②フランス領インドシナ連邦の成立
ベトナム・カンボジア・ラオスの植民地化

ユエ条約・・ベトナム保護国化
↓↓
(兄)がベトナム(弟)の宗主権(指導する権利)を主張。(清は仏にクレーム)(朝鮮の時と同じ。清は日本にクレーム。)
↓↓
清仏戦争(〇仏 VS 清✕)(1884~5)
天津条約・・清はベトナムの宗主権を放棄
↓↓
・仏領インドシナ連邦
(1887~1945)
(現ベトナム・カンボジア・ラオス)

 


(2)オランダ・イギリスの東南アジア進出

ポイント①オランダのジャワ・スマトラの植民地化
現在のほぼインドネシアにあたる地域をオランダが植民地化

オランダ領東インド
オランダのジャワ・スマトラ(インドネシア)を植民地化

・イギリス=オランダ協定(イギリスとオランダの打ち合わせ)
マラッカ海峡を境界に北は、南はと分けた。

・ジャワ戦争(1825)〇蘭 VS ジャワ✕
⇒蘭は勝ったが、財政窮乏に・・
↓↓
強制栽培制度(1830)
商品作物(コーヒー)⇒ヨーロッパに販売。
オランダ産業革命の資金源になる。
↓↓
・アチェ戦争(1873)
スマトラ島の北端。✕アチェ王国 VS 蘭〇
オランダ領東インド完成(現インドネシア)

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②イギリスが東南アジアを植民地化するわけは?
インド帝国とのアクセスを最優先

英植民地のインド清(中国)をつなぐために(海回り)中継基地としてマレー半島が必要。

ぺナン、シンガポール、マラッカ(=海峡植民地)の獲得
↓↓
マレー連合州(現マレーシア)の成立
プランテーション
(すず)・・華僑(中国)を労働力
ゴム・・印僑(インド)を労働力

ビルマ(ミャンマー)戦争
コンバウン朝を滅ぼしインド帝国に併合

 


(3)イギリス東インド会社のインド経営
ポイント①東インド会社のインド植民地の動き
商業活動を停止された会社が生き残るための工夫

<英東インド会社の進出>
プラッシーの戦い(1757)
インド・ベンガル地方をめぐって争う 〇英 VS 仏✕

イギリス東インド会社(貿易会社)は、ベンガル(インド北東・ガンジス川下流域・豊かな土地)の徴税権を得る。
↓↓
イギリス東インド会社が商業活動停止される(1833)
↓↓
インド統治機関へと移行。
↓↓
<各地で戦争へ>
マイソール戦争(南インド)
マラーター戦争(中部・デカン高原)
マラーター同盟・インドの豪族
シク戦争(北西パンジャーブ地方)シク教徒
あとはムガル帝国のみ。。

<征服地への税制>
ザミンダーリー制
地主・領主から直接地税を徴収。(ベンガル地方)

ライヤットワーリー制
自作農民から直接地税を徴収。(シンド地方、南インド)

徴税に加え、プランテーション経営もするようになる。
→茶、アヘンの栽培・輸出

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②全インドを揺るがす大反乱
イギリスのインド支配における転換期

・シパーヒーの反乱(1857~1859)
シパーヒーとはイギリス東インド会社に雇われたインド人傭兵(ヒンドゥー教徒+イスラム教徒)。薬包に牛と豚の脂を使っていると噂。

デリー城を占拠。ムガル皇帝を擁立
↓↓
インド大反乱に発展。
↓↓
英本国軍が鎮圧。ムガル帝国が滅亡(1858)
↓↓
イギリス東インド会社は解散。統治権は英本国に移る。(=英はただ同然でインドを手に入れる形になった。噂は英本国が流した・・?)

↓↓

・インド帝国1877~1947)成立
初代インド皇帝 ヴィクトリア女王
(ディズレーリ保守党内閣)

植民地なのに「帝国」と付いているのは、他のヨーロッパ諸国に向けた、英はインドを重要視しているというメッセージ。触れたらあきまへんえ・・の威嚇。

分割統治
保守的な藩王国を懐柔。間接統治。(=農民の怒りは地主へ行く。英本国には行かない。)

 


(4)オスマン帝国の衰退
ポイント①アラビア半島での独立の動き
ムハンマドの教えに帰れ!ワッハーブ運動の展開

<アラビア半島>
オスマン帝国支配下で自立の動き
ワッハーブ運動(ワッハーブ派)
ムハンマド時代のイスラーム教復帰を目指す。
↓↓
豪族サウード家と結んでワッハーブ王国建設。
都:リヤド
↓↓
エジプトのムハンマド・アリーの攻撃でワッハーブ王国は滅亡。
⇒アラビア半島の自立は失敗。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②エジプトでの自立の動き
オスマン帝国の部下であって部下でない?

<エジプト自立の動き>
仏・ナポレオンのエジプト占領(1798~99)
→ナポレオンはエジプト先住民(アラブ人)にオスマン帝国(トルコ人)への反抗を呼びかけた。「悔しくないのか?民族の誇りを持つべきだ!」

↓↓ エジプト自立の運動の中心

・ムハンマド=アリー
エジプトからナポレオンを追い出す。オスマン皇帝に変わってエジプト総督の地位を授かる。エジプトの自立・近代化を目指す。

オスマン帝国に要求。

第1次エジプト=トルコ戦争(1831~33)
オスマン帝国にシリアの領有を要求し、開戦。
〇エジプト VS トルコ✕
シリアを獲得

第2次エジプト=トルコ戦争(1839~40)
エジプトとシリアの世襲権要求。
△エジプト VS トルコ(欧の干渉もあり)
⇒シリアを返還。エジプトとスーダンの世襲権は獲得。

ムハンマド・アリーの死後・・

・スエズ運河 開通(1869)at エジプト
(仏・技術者)レセップス
地中海からインド洋に直接行ける。英は喉から手が出るほど欲しい。(英)ディズレーリ内閣。スエズ運河会社の株を買収。支配権獲得

↓↓ トルコの次はイギリスかよ・・

ウラービー運動(反乱)(1881)(エジプトの反英運動)
「エジプト人のためのエジプト」英支配に抵抗するが、鎮圧される。
↓↓
エジプトは英の保護国化に。(英の植民地に・・)

 


(5)オスマン帝国の近代化
ポイント①ついに目覚めたオスマン帝国!
皇帝が率先して行う「上からの近代化」とは?

<オスマン帝国>
・アブデュル=メジト1世
(位1839~1861)
「タンジマート(恩恵改革)」(1839)
ギュルハネ勅令

・皇帝が率先して近代化。「上からの改革」。司法、行政、財政、軍事、文化など。
・非イスラムへの平等課税。法的にも平等。

↓↓ 一定の成果が出たが・・(オスマン帝国を敗れるぐらい成長)

クリミア戦争(1853~56)
〇オスマン帝国 VS ロシア✕
英・仏・サルディーニャ。

タンジマートの成果が出てトルコは勝利!
→しかしトルコは英・仏に借金。財政面では英仏の従属状態に・・。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②アジア初の憲法が制定されるも・・
立憲君主政への移行と皇帝の思惑

・アブデュル=ハミト2世(位1876~1909)

宰相 ミドハト=パシャ

・ミドハト憲法
(1876)
アジア初の憲法
。(大日本帝国憲法(1889)より13年早い。)

・二院制議会、責任内閣制
立憲君主制への移行を目指した。皇帝の独占ではなく議会で話し合いをしよう。
↓↓
ロシア=トルコ(露土)戦争(1877)
アブデュル=ハミト2世が、皇帝の力を制限されるのを嫌ってミドハト憲法を停止!

宰相ミドハト=パシャを解任(1877)。
戦争の責任を押し付けて島流しに。。

結局、皇帝独裁政治が変わらぬまま、英仏に財政面で頭が上がらないまま・・

 


(6)イラン・アフガニスタンの植民地化
ポイント①イランの植民地化
イランをめぐるイギリスとロシアの熾烈な争い

(イラン)カージャール朝(1796~1925)
北にはカスピ海、南にはペルシア湾。
北から海を求めてロシアが狙う・・。南東から英が狙う。

トルコマンチャーイ条約(1828)
イランにロシアが押しつけた不平等条約。
アルメニアの大半を獲得。治外法権を承認。
(※トルコだがオスマントルコとは関係ない。トルコマンチャーイという町の名前)

↓↓ 何でイラン政府はロシアの言いなりなんだ・・!

バーブ教徒の乱(イスラーム教・シーア派の一派)
イラン・カージャール朝の貧困農民中心の反乱
英・露・弱腰なイラン政府に反対するも、鎮圧される。

タバコ=ボイコット運動(1891~92)(イランの反英運動)
タバコの独占販売権がイラン政府から英業者に渡される。
⇒民衆はタバコをボイコット。知識人(ウラマー)らも含めた反英・反国王運動。
↓↓
鎮圧される。英露のプレッシャーは続く。イランの植民地化は避けられない・・

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②なぜアフガニスタン?
イギリスはアフガニスタンを絶対に渡したくない!

英の2回のアフガン戦争
アフガニスタンはインドの真上。英はインドが大事。北からのロシアからの侵攻の防波堤として、アフガニスタンは押さえておきたい。
↓↓
第1次アフガン戦争(1838~42)英✕ VS 〇アフガニスタン
何と、英・完敗!

ベルリン会議(1878)
ロシアのバルカン半島方面の南下を阻止した。
↓↓
英「そうするとロシアは違う地域から降りてくるかも・・。やばい。アフガニスタンにも来るかも・・!」
↓↓
第2次アフガン戦争1878~80)英〇 VS ✕アフガニスタン
今度は英勝利。アフガニスタンを保護国化

 


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【17】イスラーム世界の繁栄

イスラム前回【10】イスラーム世界


【17】イスラーム世界の繁栄
(1)イラン世界の動き
(2)オスマン帝国の領土拡大
(3)インドのムガル帝国


モンゴル帝国が崩壊した後(14C~)のイスラーム世界


(1)イラン世界の動き
ポイント①ティムールの野望!
中央アジアから台頭したティムールの遠征

ティムール朝(1370~1507)約140年
(都:サマルカンド

■ ティムール(鬼武者)(位1370~1405)
モンゴル人国家で生まれる。トルコ系。
西チャガタイ・ハン国から自立。

野望「モンゴル帝国を復活させたい!」
チャガタイ・ハン国の分裂をなげく。。

・イル・ハン国を征服
イラン・イラクを支配

・キプチャク・ハン国
領土を一部奪う

・トゥグルク朝を征服
西北インド

アンカラの戦い(1402)
オスマン皇帝・バヤジット1世を捕縛

これで「草原の道」と「シルクロード」を押さえた。
次は中国・・と遠征に向かっているところで病死。
ティムールの野望はここで終わる。

 

ポイント②ティムール死後の世界
文化の発展と遊牧民族の侵入

ティムールの死後、強大な国が出て倒すことは難しくなった。さらに遠征より文化活動が盛んに。

・ウルグ=ベク(位1447~1449)
(ティムールの孫・学者)
文学・天文・暦法・建築を保護。
細密画(ミニアチュール)・・書物の挿絵

・遊牧ウズベク(ウズベク人)の侵入
中央アジアから南下→ティムール朝滅亡(1507)

遊牧ウズベクは自分たちの国を作る。
ブハラ・ハン国
ヒヴァ・ハン国
コーカンド・ハン国
→現在のウズベキスタン(都:サマルカンド)の母体。

 

ポイント③イラン世界の繁栄
イラン世界に現在でも影響を及ぼす王朝

ティムール朝が崩れたあとのイラン世界・・

サファヴィー朝(1501~1736)
(都:タブリーズ→イスファハーン)

イラン・イラクがメイン(中央アジアはウズベク人が入ってきたので支配してない)

■ イスマーイール
(建国者)
神秘主義教団の指導者。神との一体化をめざし、分かりやすく民衆に布教。

外の領土の広がりより、国内の守り、まとまりを重視。
↓↓
シーア派の国教化(十二イマーム派(穏健派))
・王号シャーを採用(イランの伝統的王号)
↓↓
今でもイラン・イラクにはシーア派が多い。WWⅡ後、シーア派とスンナ派の対立など。

アッバース1世(全盛期)
イスファハーンへ遷都(1597)
東西交易の中継地点として繁栄。
「イスファハーンは世界の半分」
人口が増えた。

・イマームのモスク建立

ホルムズ島の奪回(1622)
ペルシャ湾の出入口をポルトガルから奪い返す。(大航海時代に奪われていたがイラン・サファヴィー朝が奪還。)

 


(2)オスマン帝国の領土拡大
ポイント①オスマン帝国の支配!
領土拡大が必然的である制度の採用

オスマン帝国(1299~1922)
・ティマール制(軍事封土制)
シパーヒー(騎士)に給料は現金ではなく土地と徴税金を与える。
→領土拡大が必要
イェニチェリ(奴隷身分兵士)・・皇帝直属の常備歩兵軍団。キリスト教徒の男子を改宗させて、高級官僚や軍人に育成。

ポイント②なぜバルカン半島に進出する?
あえて異教徒の多い地域に進出する理由は

<オスマン帝国の領土拡大>

■ オスマン1世(建国)
・アナトリア西部で自立(1299)

なぜバルカン半島へ?
→異教徒の土地の方が攻めやすい。領土拡大。
→あと、もしイスラーム教に改宗しなければ、人頭税(ジズヤ)を払ってもらえばいい。

■ ムラト1世
(都:アドリアノープル→エディルネに改名)
・コソヴォの戦い(1389)でスラブ勢力を撃破

4代・バヤジット1世(稲妻・雷帝)
・ハンガリー王を破り、ドナウ川下流域を支配
↓↓
・アンカラの戦い(1402)
バヤジット1世✕ VS 〇ティムールに敗北。没。
(西のバルカン半島を攻めていたら、後ろ(東の方)からティムールに不意打ちで攻められた。)

その後、10年は皇帝不在のピンチ。。

ポイント③もう領土を広げなくてもいい!
オスマン帝国の転換期

<商業国家への転換>

■ 7代・メフメト2世(位1444~1446、1451~1481)
ビザンツ帝国を征服(1453)
コンスタンティノープルへ遷都(→20Cにイスタンブルと改名)
東西交易の要所。→これを機に、領土拡大から商業国家へと変わる。

・クリミア半島を支配

■ セリム1世(位1512~1520)
・サファヴィー朝と抗争
マムルーク朝を征服(1517)・・メッカ・メディナを支配。スンナ派盟主の地位を確立。=南の商業ルートの獲得。


■ スレイマン1世
(位1520~1566)(全盛期)
・ハンガリー征服

第1次ウィーン包囲(1529)✕
神聖ローマ皇帝・カール5世と衝突。寒冷化で撤退。

プレヴェザ海戦(1538)◯
スペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊に勝利
地中海域での制海権を掌握。
→完全に商業国家になる。交易でお金が集まる。

・スレイマン=モスクの完成(1557)
イスタンブル

 


(3)インドのムガル帝国
ポイント①インドのイスラーム国家の繁栄
ヒンドゥー教徒の多いインドをどう統治したのか

ムガル帝国(1526~1858)
少数のイスラーム教徒が多数のヒンドゥー教徒を支配。

■ 初代・バーブル(建国者)
(父方はティムールの子孫。母方はチンギス・ハンの子孫とも)

パーニーパットの戦い(1526)
↓↓
ロディー朝を破り、デリーを占領・建国
インドの北側に建国。
「北から入ってくる人」を「モンゴル」と呼んだ。(→ムガルの由来)

■ 3代・アクバル
・マンサブダール制度(官僚制度)

人頭税(ジズヤ)の廃止
多数派のヒンドゥー教徒に配慮。
現代でもいい皇帝だと人気。

・アグラへ遷都

ポイント②ムガル帝国の混乱の時代へ
多数派のヒンドゥー教徒に対してとった失政

■ 5代 ・シャー=ジャハーン
・タージ=マハルの造営(1648)
シンメトリー。白大理石。アグラに建設。
↓↓
財政難に・・

■ 6代 ・アウラングゼーブ
人頭税(ジズヤ)の復活(1679)
・デカン高原を征服、最大領土に(17C後半)
ジズヤの適用範囲を広げるため
↓↓
ヒンドゥー教徒からの反乱へ・・

ポイント③インド=イスラーム文化の発展
インドに生まれた独特のイスラーム文化

(芸術)
細密画(ミニアチュール)(中国絵画→イラン世界)の影響
↓↓
・ムガル絵画・・宮廷芸術、肖像画や動物画
・ラージプート絵画・・ヒンドゥー教の神々

(言語)
・公用語・・ペルシア語、ヒンディー語
隣のサファヴィー朝の言葉、ペルシア語を使ってもよかった。

・ウルドゥー語・・ペルシア語やアラビア語の影響。現在のパキスタンの公用語。

(宗教)
ナーナクが創始
イスラーム神秘主義をヒンドゥー教の改革運動に導入した。
シク教の成立(16C初)

(インダス川流域・パンジャーブ地方にシク王国建国。→英・東インド会社に征服される。)

 


 

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【05】インドの古典文明

【05】 インドの古典文明
(1)インダス文明
(2)アーリヤ人の抗争と新しい宗教
(3)インドの4王朝(マウリヤ/クシャーナ/グプタ/ヴァルダナ)
(4)インドの古典文化と宗教


(1)インダス文明(B2600~B1800)

西(←)インダス川 / 東(→)ガンジス川

・インダス文明(青銅器)
インダス川流域。
ドラヴィダ系(現在は南インドに)

都市建設。(上下水道、計画的な町)
しかし、宮殿や陵墓は未発見。

インダス文字(未解読)

遺跡
・ハラッパー
インダス川中流・パンジャーブ地方

・モエンジョ・ダーロ
インダス川下流・シンド地方

インダス文明が突然消滅。理由は分からず。(B1800)
↓↓
その後、アーリヤ人南下。鉄。

・アーリヤ人
カイバル峠を越えてパンジャーブ地方に入る。(B1500)
↓↓
ガンジス川流域に移動。(B1000)

アーリア人は少人数なのでヴァルナ(身分制度)を使って支配。

★ヴァルナ(身分制度)(「色」の意味)
・バラモン(司祭者)
・クシャトリア(戦士・貴族)
・バイシャ(商人・庶民)
・シュードラ(隷属民・征服された先住民)
ハリジャン(不可触民)
↓↓
ジャーティ・・職業と結びついた社会階層
(英語:カースト)


(2)アーリヤ人の抗争と新しい宗教

・バラモン教
バラモン教の聖典・ヴェーダ
『リグ=ヴェーダ』(最古のヴェーダ。賛歌集)
多神教、自然への畏怖。

・都市国家の抗争
十六大国の抗争(B6C)
〇マガダ国 VS ✕コーサラ国

争いの中で社会の変化があった。

戦争中はクシャトリア、バイシャが活躍。
バラモン教への批判から新しい宗教が生まれる。
バラモン教の価値観から脱却しよう。
↓↓
ウパニシャッド(奥義書)
(古代インドの宗教・哲学書)
輪廻転生。
↓↓
それを元に作られる。

・仏教(B5C)
ガウタマ・シッダールタ(釈迦)
ブッダ(仏陀)
カースト制を否定。慈悲の心と人間の平等を説いた。クシャトリヤ、ヴァイシャから支持される。

・ジャイナ教(B5C)
ヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)
禁欲・不殺生。カースト制を否定。ヴァイシャに支持される。

・クシャトリヤの活躍している作品。
サンスクリット語(古代インドの言葉)
二大叙事詩『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』


(3)インドの4王朝

アレクサンドロス大王の東方遠征(B327)で、一つにまとまらなくちゃ・・と焦った。

1★マウリヤ朝(B317~B180)
(都:パータリプトラ)

◯ チャンドラグプタ王(建国)
(セレウコス朝シリアの攻撃を食い止める。セレウコスの娘はチャンドラグプタの第二婦人になる。メガステネス『インド誌』)

◯ アショーカ王(領土最大)
・仏教。ダルマ(法=仏教理念)に基づく政治。
・磨崖碑(まがいひ)、石柱碑。
・ストゥーパ(石造の仏塔)シャカの遺骨を納める
・第3回仏典結集
・スリランカ布教(セイロン島)上座部仏教

ーーーーーーーーーーーーーーーー

2★クシャーナ朝(1C~3C)
(都:プルシャプラ←この辺りガンダーラ地方)

・カニシカ王(位130~170)(全盛期)
第4回仏典結集

・東西交易拠点。中国とイラン方面の中継地点。
東西文化が混ざり合う。

・ガンダーラ美術
ヘレニズム文化(ギリシア+オリエント)の影響で、仏像が初めて制作される。(仏教美術)

・ササン朝ペルシアの侵入で滅亡

・南には、サータヴァーハナ朝

ーーーーーーーーーーーーーーーー

3★グプタ朝(320~550)
(都:パータリプトラ)

・チャンドラグプタ2世(位376~416)(最盛期)

・法顕(東晋)『仏国記』
チャンドラグプタ2世のことも書かれている。

インドの古典文化

・サンスクリット文学

カーリダーサ『シャクンタラー』(5C)
インドのシェイクスピア。劇作家。

二大叙事詩
・『マハーバーラタ』バーラタ族の争い
・『ラーマーヤナ』コーサラ国のラーマ王子が愛妻シータを救いに行く英雄叙事詩。(ラピュタ)→東南アジアや中国などにも伝わる。

・ナーランダー僧院
仏教教学
(玄奘、義浄もここで学ぶ)

・アジャンター石窟寺院
崖をくりぬいて仏像を彫る。
グプタ様式。(純インド的)

・ヒンドゥー教

ーーーーーーーーーーーーーーーー

4★ヴァルダナ朝(7C)
(都:カナウジ)
ハルシャ=バルダナ王(建国)
(ハルシャ王)

玄奘(唐)(602~664)『大唐西域記』

 

★インドの分裂期
義浄(唐)(635~713)『南海寄帰内法伝』

 


(4)インドの古典文化と宗教

・2種類の仏教

・上座部(小乗)仏教
自身の修行・解脱。マウリヤ朝で成立。
スリランカ、東南アジアへ

・大乗仏教
菩薩信仰。
すべての人々の救済をめざす。
クシャーナ朝で成立。
中央アジア、チベット、中国、朝鮮、日本へ。

・ヒンドゥー教
(バラモン教+地域の民間信仰)

ヒンドゥー=インド

シヴァ神(破壊・舞踏)
ダンシング・シヴァ
踊りながら悪い物を排除する。

ヴィシュヌ神(維持)

『マヌ法典』
各ヴァルナの権利や義務を規定。バラモン優位。女性差別。

バクティ運動(7C)
ヒンドゥー教の神に絶対的に帰依することで解脱する。


 

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