【17】イスラーム世界の繁栄 – 歴史note

【17】イスラーム世界の繁栄

イスラム前回【10】イスラーム世界


【17】イスラーム世界の繁栄
(1)イラン世界の動き
(2)オスマン帝国の領土拡大
(3)インドのムガル帝国


モンゴル帝国が崩壊した後(14C~)のイスラーム世界


(1)イラン世界の動き
ポイント①ティムールの野望!
中央アジアから台頭したティムールの遠征

ティムール朝(1370~1507)約140年
(都:サマルカンド

■ ティムール(鬼武者)(位1370~1405)
モンゴル人国家で生まれる。トルコ系。
西チャガタイ・ハン国から自立。

野望「モンゴル帝国を復活させたい!」
チャガタイ・ハン国の分裂をなげく。。

・イル・ハン国を征服
イラン・イラクを支配

・キプチャク・ハン国
領土を一部奪う

・トゥグルク朝を征服
西北インド

アンカラの戦い(1402)
オスマン皇帝・バヤジット1世を捕縛

これで「草原の道」と「シルクロード」を押さえた。
次は中国・・と遠征に向かっているところで病死。
ティムールの野望はここで終わる。

 

ポイント②ティムール死後の世界
文化の発展と遊牧民族の侵入

ティムールの死後、強大な国が出て倒すことは難しくなった。さらに遠征より文化活動が盛んに。

・ウルグ=ベク(位1447~1449)
(ティムールの孫・学者)
文学・天文・暦法・建築を保護。
細密画(ミニアチュール)・・書物の挿絵

・遊牧ウズベク(ウズベク人)の侵入
中央アジアから南下→ティムール朝滅亡(1507)

遊牧ウズベクは自分たちの国を作る。
ブハラ・ハン国
ヒヴァ・ハン国
コーカンド・ハン国
→現在のウズベキスタン(都:サマルカンド)の母体。

 

ポイント③イラン世界の繁栄
イラン世界に現在でも影響を及ぼす王朝

ティムール朝が崩れたあとのイラン世界・・

サファヴィー朝(1501~1736)
(都:タブリーズ→イスファハーン)

イラン・イラクがメイン(中央アジアはウズベク人が入ってきたので支配してない)

■ イスマーイール
(建国者)
神秘主義教団の指導者。神との一体化をめざし、分かりやすく民衆に布教。

外の領土の広がりより、国内の守り、まとまりを重視。
↓↓
シーア派の国教化(十二イマーム派(穏健派))
・王号シャーを採用(イランの伝統的王号)
↓↓
今でもイラン・イラクにはシーア派が多い。WWⅡ後、シーア派とスンナ派の対立など。

アッバース1世(全盛期)
イスファハーンへ遷都(1597)
東西交易の中継地点として繁栄。
「イスファハーンは世界の半分」
人口が増えた。

・イマームのモスク建立

ホルムズ島の奪回(1622)
ペルシャ湾の出入口をポルトガルから奪い返す。(大航海時代に奪われていたがイラン・サファヴィー朝が奪還。)

 


(2)オスマン帝国の領土拡大
ポイント①オスマン帝国の支配!
領土拡大が必然的である制度の採用

オスマン帝国(1299~1922)
・ティマール制(軍事封土制)
シパーヒー(騎士)に給料は現金ではなく土地と徴税金を与える。
→領土拡大が必要
イェニチェリ(奴隷身分兵士)・・皇帝直属の常備歩兵軍団。キリスト教徒の男子を改宗させて、高級官僚や軍人に育成。

ポイント②なぜバルカン半島に進出する?
あえて異教徒の多い地域に進出する理由は

<オスマン帝国の領土拡大>

■ オスマン1世(建国)
・アナトリア西部で自立(1299)

なぜバルカン半島へ?
→異教徒の土地の方が攻めやすい。領土拡大。
→あと、もしイスラーム教に改宗しなければ、人頭税(ジズヤ)を払ってもらえばいい。

■ ムラト1世
(都:アドリアノープル→エディルネに改名)
・コソヴォの戦い(1389)でスラブ勢力を撃破

4代・バヤジット1世(稲妻・雷帝)
・ハンガリー王を破り、ドナウ川下流域を支配
↓↓
・アンカラの戦い(1402)
バヤジット1世✕ VS 〇ティムールに敗北。没。
(西のバルカン半島を攻めていたら、後ろ(東の方)からティムールに不意打ちで攻められた。)

その後、10年は皇帝不在のピンチ。。

ポイント③もう領土を広げなくてもいい!
オスマン帝国の転換期

<商業国家への転換>

■ 7代・メフメト2世(位1444~1446、1451~1481)
ビザンツ帝国を征服(1453)
コンスタンティノープルへ遷都(→20Cにイスタンブルと改名)
東西交易の要所。→これを機に、領土拡大から商業国家へと変わる。

・クリミア半島を支配

■ セリム1世(位1512~1520)
・サファヴィー朝と抗争
マムルーク朝を征服(1517)・・メッカ・メディナを支配。スンナ派盟主の地位を確立。=南の商業ルートの獲得。


■ スレイマン1世
(位1520~1566)(全盛期)
・ハンガリー征服

第1次ウィーン包囲(1529)✕
神聖ローマ皇帝・カール5世と衝突。寒冷化で撤退。

プレヴェザ海戦(1538)◯
スペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊に勝利
地中海域での制海権を掌握。
→完全に商業国家になる。交易でお金が集まる。

・スレイマン=モスクの完成(1557)
イスタンブル

 


(3)インドのムガル帝国
ポイント①インドのイスラーム国家の繁栄
ヒンドゥー教徒の多いインドをどう統治したのか

ムガル帝国(1526~1858)
少数のイスラーム教徒が多数のヒンドゥー教徒を支配。

■ 初代・バーブル(建国者)
(父方はティムールの子孫。母方はチンギス・ハンの子孫とも)

パーニーパットの戦い(1526)
↓↓
ロディー朝を破り、デリーを占領・建国
インドの北側に建国。
「北から入ってくる人」を「モンゴル」と呼んだ。(→ムガルの由来)

■ 3代・アクバル
・マンサブダール制度(官僚制度)

人頭税(ジズヤ)の廃止
多数派のヒンドゥー教徒に配慮。
現代でもいい皇帝だと人気。

・アグラへ遷都

ポイント②ムガル帝国の混乱の時代へ
多数派のヒンドゥー教徒に対してとった失政

■ 5代 ・シャー=ジャハーン
・タージ=マハルの造営(1648)
シンメトリー。白大理石。アグラに建設。
↓↓
財政難に・・

■ 6代 ・アウラングゼーブ
人頭税(ジズヤ)の復活(1679)
・デカン高原を征服、最大領土に(17C後半)
ジズヤの適用範囲を広げるため
↓↓
ヒンドゥー教徒からの反乱へ・・

ポイント③インド=イスラーム文化の発展
インドに生まれた独特のイスラーム文化

(芸術)
細密画(ミニアチュール)(中国絵画→イラン世界)の影響
↓↓
・ムガル絵画・・宮廷芸術、肖像画や動物画
・ラージプート絵画・・ヒンドゥー教の神々

(言語)
・公用語・・ペルシア語、ヒンディー語
隣のサファヴィー朝の言葉、ペルシア語を使ってもよかった。

・ウルドゥー語・・ペルシア語やアラビア語の影響。現在のパキスタンの公用語。

(宗教)
ナーナクが創始
イスラーム神秘主義をヒンドゥー教の改革運動に導入した。
シク教の成立(16C初)

(インダス川流域・パンジャーブ地方にシク王国建国。→英・東インド会社に征服される。)

 


 

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