アジア – 歴史note

【40】第二次世界大戦と戦後秩序の形成

【40】第二次世界大戦と戦後秩序の形成
(1)ドイツとソ連の猛進撃
(2)ヨーロッパ戦線の終結へ
(3)アジア・太平洋戦線
(4)日本支配への抵抗と日本の敗北
(5)敗戦国の処理
(6)国際連合の設立と戦後経済の再建


(1)ドイツとソ連の猛進撃
ポイント①ドイツのヨーロッパ進撃!
ヨーロッパを席巻するドイツの「電撃戦」とは?

<ドイツの進撃>
・ポーランド侵攻(1939.9.1)
第二次世界大戦の開始
強制収容所の建設 アウシュヴィッツ
デンマーク・ノルウェーに侵入
オランダ・ベルギーに侵入
=イギリスを牽制しながらフランスへ進む。

電撃戦・・首都までの道を空爆。兵隊をトラックで首都まで運んで都を占領。

(英)
弱腰のネヴィル・チェンバレンから→チャーチルへ
チャーチル挙国一致内閣

(伊)
・イタリア参戦

(仏)
<パリ占領(フランス降伏)>
ヴィシー政府
南仏・首班ペタン
対独協力政権
VS
自由フランス政府
ロンドンに亡命。軍人ド=ゴール
レジスタンス(抵抗)運動を指導

(米)
・アメリカの軍事支援
武器貸与法・・孤立したを支援

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②ソ連も攻める!社会主義圏の拡大へ!
国際連盟はソ連の暴走を止められず・・

<ソ連の進撃>
ポーランド侵攻
バルト3国へ侵攻→後に併合
・ソ連=フィンランド戦争(冬戦争)
→国際連盟、ソ連を除名(それでもソ連は止まらず)


(2)ヨーロッパ戦線の終結へ
ポイント①戦局が大きく変わった!?独ソ戦争の開始!
独ソの対立でヨーロッパ戦線の流れがかわる

独ソがバルカン半島を取り合う

<ドイツのバルカン制圧(1941)>
・ドイツ軍がユーゴスラヴィア・ギリシアを占領
ティトー(共産主義)、独の支配に対してパルチザン闘争(ゲリラ戦)

<ドイツ VS ソ連>
日ソ中立条約(1941)ソ連は後ろを守る

独ソ戦争の開始(仲間割れ)
独ソ不可侵条約は破棄。
ドイツは電撃作戦を実行。
→当初は戦局有利

大西洋上会談(米英首脳会談)(1941)
米フランクリン・ローズヴェルトと英チャーチル
大西洋憲章

独伊、対米宣戦

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ポイント②連合国の反撃!ドイツの降伏!
ファシズム VS 反ファシズムへ

米軍も動き始めた
<伊・独の苦戦>
・連合軍、北アフリカ上陸
スターリングラードの戦い(1942)(ソ連内)
独✕ VS 〇ソ連
これ以降ドイツは劣勢に・・

<イタリアの降伏>
・連合軍、シチリア島上陸
イタリア新政府、無条件降伏(1943.9.8)

テヘラン会談(1943.11)
米・英・ソ
対ドイツ戦の基本方針

<ドイツの降伏>
・ソ連軍、東欧に侵攻

ノルマンディー上陸作戦(北仏に連合軍が上陸)
最高司令官:アイゼンハワー

・パリ解放
ドイツ軍撤退

ヤルタ会談(1945.2)(ウクライナ・クリミア半島)
米・英・ソ
対ドイツ戦後処理を協議:ヤルタ協定

ベルリン陥落
ドイツ無条件降伏(1945.5.7)


(3)アジア・太平洋戦線
ポイント①日本の東南アジア進出!
日本は欧米諸国の対中国支援を断ち切ろうと・・

<日中戦争(1937~1945)>
蒋介石 重慶政府
VS
日本(汪兆銘) 南京国民政府

欧米が東南アジアから中国を支援

「大東亜共栄圏」
日本を盟主とする東アジアのブロック構想

・北部フランス領インドシナ進駐

日独伊三国軍事同盟(1940.9)

日米交渉
米は一方的。中国からの日本軍の撤退、三国同盟からの撤退が議題。

日ソ中立条約(1941.4)北の防衛に成功

・南部フランス領インドシナ進駐

→米、対日石油禁輸策で対抗=ABCDライン
(Aアメリカ、Bイギリス、C中国、Dオランダ)

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ポイント②ついにアメリカが動いた!日米の開戦!
連合軍と枢軸国の対決へ

太平洋戦争(1941~1945)

真珠湾奇襲(1941.12.8)
→独・伊の対米宣戦

連合国 米・英・仏・ソ・中(反ファシズム)
VS
枢軸国 日・独・伊(ファシズム)

日本は石油を探す・・
・フィリピン占領
・マレー・シンガポール占領
・ジャワ・スマトラ占領
・ビルマ(ミャンマー)占領
現地の資源、労働力を使う。


(4)日本支配への抵抗と日本の敗北
ポイント①日本よ、出ていけ!
アジア諸地域で日本支配に抵抗する動きが活発に

<日本の植民地支配>
皇民化政策(日中戦争開始以降)朝鮮にて
神社参拝、日本語強制、創氏改名

朝鮮人の強制連行(太平洋戦争開始以降)

<日本支配への抵抗運動>
<中国・朝鮮>
(中国)・・共産党軍と国民党軍の合流
(朝鮮)・・金日成(きんにちせい/キムイルソン)(朝鮮共産党)の抵抗運動

<東南アジア>
・ベトナム独立同盟(ベトミン)
指導者:ホーチミン

・ミャンマー
アウン・サン
日本支配に抵抗

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ポイント②タイムリミットは8月7日…
戦後処理をめぐって焦るアメリカの思いとは?

<日本の劣勢>
ミッドウェー海戦(1942.6.5~6.7)
日本✕ VS 〇アメリカ
日本の主力部隊が敗れる。ここから日本は劣勢に・・

・日本、ガダルカナル島より撤退

カイロ会談(1943.11)
米・英・中
対日本戦の基本方針を決定:カイロ宣言

・米軍、日本本土空襲
・米軍、沖縄本島上陸

ポツダム会談(1945.7)
トルーマン(米)、チャーチル(→アトリー)(英)、スターリン(ソ)

Fローズヴェルトはヤルタ会談まで。→このとき米ソは密約。「独が降伏した後、3カ月たっても日本が降伏しない場合、日ソ中立条約を破棄して、ソ連も入ってきてくれ。」と。
→しかしトルーマンは戦後の日本を米だけで占領したかったので、ソ連が入ってくる期限の8/7までに戦争を終わらせたかった

戦後のドイツと日本の処理を協議
ポツダム宣言:日本に対し無条件降伏を勧告

・アメリカ、広島に原爆投下(1945.8.6)
・ソ連、対日宣戦(1945.8.8)
・米、長崎に原爆投下(1945.8.9)
(→5年間で30万人以上の人が亡くなる・・)
日本無条件降伏(1945.8.15)
第二次世界大戦の集結


(5)敗戦国の処理
ポイント①ヨーロッパの戦後処理
ドイツは徹底して戦勝国が管理するシステムへ

<ドイツの戦後処理>厳重に管理
ニュルンベルク裁判
・ドイツ4カ国分割占領(分割管理)
西側管理地区:米・英・仏
東側管理地区:ソ連
・ベルリン分割管理

<その他の戦後処理>
・オーストリア
4カ国共同管理・・米・英・仏・ソ
オーストリア国家条約・・主権回復(永世中立国になる)

・パリ講和条約(1947)
伊、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランド
領土変更や賠償金などを規定

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ポイント②日本の戦後処理
ドイツとは違ってアメリカが単独で管理

<日本の戦後処理>
東京裁判(極東国際軍事裁判)
・連合国軍総司令部(GHQ)
マッカーサー元帥
日本政府を通して日本国民を間接的に支配。
(米単独支配→アジアの反共の防壁にしたかった。)

・日本の非軍事化と民主化
軍隊の解散、農地改革、財閥解体など

日本国憲法の発布
(公布)1946年11月3日
(施行)1947年5月3日(→憲法記念日に)

・サンフランシスコ講和会議
日本と連合国との講和条約討論
↓↓
サンフランシスコ平和(講和)条約(1952)
日本、主権を回復

 


(6)国際連合の設立と戦後経済の再建
ポイント①世界大戦を防ぐための、新たな組織
国際連盟の失敗をいかした集団安全保障体制

<戦後の国際平和構想>
・ダンバートン=オークス会議
米英ソ中の代表により「国際連合憲章」の原案が作成

・ヤルタ会談
常任理事国に拒否権を付与
↓↓
サンフランシスコ会議(1945)
(※「サンフランシスコ講和会議」とは別物。→これは日本の主権回復の話)
国際連合憲章の発表→国際連合の創設

国際連合(国連)本部:ニューヨーク>
・総会:加盟各国1票の投票権をもつ多数決制
緊急時は・・
↓↓
安全保障理事会(安保理)
常任理事国(米英仏ソ中)拒否権を有する

<付属機関>
・経済社会理事会
・国際労働機関(ILO)
・国際司法裁判所
・ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)UNESCO
・世界保健機関(WHO)

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②戦後の経済秩序の再建!
アメリカが中心となって世界経済の再建を試みる

第二次世界大戦の原因は「世界恐慌」による経済困窮。

ブレトン=ウッズ国際経済体制>米中心の経済体制
ブレトン=ウッズ会議
・国際通貨基金(IMF)=緊急時。財政破綻。
・国際復興開発銀行(IBRD)=戦後の復興の支援

唯一爆撃を受けていない国はアメリカ
・米ドルと各国通貨の交換比率を固定・・固定為替相場

・ガット(GATT・関税および貿易に関する一般協定)
自由で平等な国際貿易を目指す。ブロック経済はしないように。
↓↓
・世界貿易機関(WTO)へと発展・解消(1995)
自由貿易拡大のためのルールづくり
経済のグローバル化を促進する

 


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【38】戦間期のアジア諸地域

【38】戦間期のアジア諸地域
(1) 新文化運動と中国の民衆運動
(2) 北伐と中国共産党の動向
(3) 朝鮮と東南アジアの民族運動
(4) インドの民族運動
(5) トルコ革命
(6) イスラーム諸国の動向


当時植民地にならなかったのは日本とタイだけ。(中央集権化が進んでいたのも一因)。ほとんどのアジアは欧米列強に支配された。第一次世界大戦のあと、戦争でヨーロッパが弱っている、今が独立のチャンスと思った。

(1)新文化運動と中国の民衆運動
ポイント①中国国民を巻き込む一大運動へ!
北京大学の教授陣が中心となった啓蒙運動

新文化運動(文学革命)
北京大学
教授陣が民衆の啓蒙化に尽力。

陳独秀(→後に共産党を創始)
『新青年』
雑誌刊行
「民主主義と科学」をスローガンに。
中国の旧体制、儒学を批判。

胡適(こせき・こてき)
白話(はくわ)文学運動 文語⇒口語

李大釗(りたいしょう)
マルクス主義研究会の創設。中国に社会主義、共産主義を伝える。

魯迅(ろじん)日本の東北大学医学部に留学
『狂人日記』『阿Q正伝』民衆への啓蒙

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②国民党と共産党の協力体制の完成!
孫文が目指した中国の国民革命

<五・四運動(1919)>
パリ講和会議で二十一カ条要求取り下げ認められず
↓↓
北京大学の学生を中心に大規模なデモが発生
→全国的な反帝国主義へ発展。
反欧米、反日、反軍閥政府。
↓↓
軍閥政府はヴェルサイユ条約調印を拒否

中国国民党を結成(資本主義的)
孫文。大衆政党。金持ちの味方。

中国共産党を結成。(社会主義的)
初代委員長:陳独秀。上海で。貧しい人の味方。
(※毛沢東は途中からリーダーになった。)
↓↓
2つの党は相反する主義だが、目的は同じ
「外国を追い出して、中国国民のための国を作る」
↓↓
第1次国共合作(1924)
国民党と共産党が力を合わせる。
孫文「連ソ・容共・扶助工農
(共産党を受け入れよう。中国の工業・農業を育てよう。)
国民革命の遂行(軍閥打倒
まず外国の言いなりになっている軍閥を倒す。そのあと外国勢力を追い出そう。


(2)北伐と中国共産党の動向
ポイント①北京にいる軍閥を倒せ!
国民党と共産党がともに立ち上がるが・・

孫文の死(1925)

五・三〇(ごさんじゅう)運動(1925)>
上海で労働者がスト。英人警察が発砲してしまった。
→再び全国的な反帝国主義運動へ拡大。(外国出てけ。軍閥倒せ。)

北伐(1926)
=「京にいる軍閥を倒せ!つ!」という動きのこと
国民党と共産党は広州(広東かんとん)国民政府を樹立。

2つのルートに分かれて北へ向かう
・国民党右派(反共的)指導者:蒋介石
・国民党左派(容共派)指導者:汪兆銘
↓↓
上海クーデタ(1927)
蒋介石共産党員を虐殺する。
帝国主義勢力や地主・浙江(せっこう)財閥と結託。
(蒋介石自体も浙江財閥の出身)
↓↓
国共分裂
国民党と共産党の関係が悪化
↓↓
南京国民政府(国民党のみで結成)
別ルートに行った国民党左派を南京に呼び寄せる。国民党だけで北伐する。(共産党は逃げる)

当時の軍閥は奉天派と呼ばれ、日本の操り人形。
リーダーは張作霖。蒋介石の北伐に日本は焦る。
↓↓
山東出兵(1927~1928)
日本が山東省に出兵。北伐軍(蒋介石)を邪魔したい。
→しかし蒋介石はひょいとかわし北京に入り、軍閥を倒す。
↓↓
張作霖(軍閥のリーダー)
北伐軍(蒋介石)に敗れて逃亡
↓↓
張作霖爆殺事件(奉天事件)(1928)
日本の関東軍がやった。口封じ。
↓↓
息子の張学良が北伐軍(蒋介石)に降伏
北伐完成
↓↓
南京国民政府が中国の実験を掌握

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②中国共産党の「草の根」運動!
都市から農村へ、共産党は活動場所を変えた。

上海クーデタ後の共産党
紅軍の創設(共産党の軍隊)

中華ソヴィエト共和国臨時政府の成立
主席:毛沢東
都:瑞金(ずいきん)
都市から農村へ。


(3)朝鮮と東南アジアの民族運動
ポイント①朝鮮でおきた「民族自決」を求める動き!
日本の朝鮮総督府、統治方法を転換

・韓国併合(1910)
朝鮮は日本領土に。

朝鮮総督府 支配機関(天皇直属)
武断政治の実施
軍隊・力による韓国支配。
↓↓
三・一独立運動(1919)
第一次世界大戦後のパリ講和会議の民族自決の原則に触発。
朝鮮各地で民衆デモが拡大(※五・四運動より先。同年)
↓↓
朝鮮総督府は焦る・・。
文化政治へ移行
早く日本人にする。日本語や日本文化を強制。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②東南アジアの民族運動!
アジアで最初の「ある組織」が結成

ビルマ(ミャンマー)の独立運動
英領インド帝国(インドの東隣)

タキン党
ビルマの即時完全独立を要求。英の支配を終わらせるのが目的。
指導者:アウン=サン
(現在でもミャンマーでは民族的英雄として崇められている。娘はアウン・サン・スーチー。WW2後、軍部独裁の中、自由と民主化を呼びかけた。ノーベル平和賞)
==============
インドネシア独立運動
オランダ領東インド

インドネシア共産党の結成
(→アジア初の共産党。初は中国ではない。ロシア革命の影響)

インドネシア国民党
指導者:スカルノ
(第3夫人:デヴィ夫人)
==============
インドシナ民族運動(ベトナム、カンボジア、ラオス)
仏領インドシナ

・ベトナム青年革命同志会
↓↓ 発展
インドシナ共産党
指導者:ホー=チ=ミン
労働者・農民に支持を拡大

==============
フィリピン民族運動
フィリピン独立の約束。
フランクリン・ローズヴェルト
フィリピン独立準備政府(武力ではなく平和的に独立)


(4)インドの民族運動
ポイント①インドを裏切ったイギリスに反発!
「非暴力」「不服従」の抵抗運動

<第一次世界大戦中のインドの動き>
国民会議派
ヒンドゥー教徒。人口の80%。反英。
VS
全インド=ムスリム連盟
イスラーム教徒。人口の10%。(英が作った)
大戦中は一時的に反英化。
大戦でオスマン帝国と敵対。
ムハンマドの代理人カリフがいたため。
↓↓
2つは対立していたが、協力関係に。手を結んで反英運動に。
↓↓
焦った英は・・戦後自治の約束。
インドは英に協力した。
↓↓
しかし・・戦争後
ローラット法の制定(1919)
令状なしの逮捕裁判なしの投獄など。)
自治は反故にされる。インド国民は怒り爆発!
↓↓
アムリットサール事件(1919)
英への抗議集会。武力で弾圧される

ガンディーの抵抗運動(1919~1922)
非暴力・不服従
英への抵抗運動。→全インド国民に呼びかけ拡大。
サティヤーグラハ(真理の把握)」を掲げる。
(=「私たちは正しいことを知っている」)

・ラホール大会
国民会議派:ネルー
完全独立(プールナ=スワラージ)
を要求
「自治」ではなく「独立」!英出ていけ

第2次非暴力・不服従運動(1930~1934)
「塩の行進」
英の塩の専売法に反対

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②焦った!イギリス
インドをなだめようとするも・・

イギリスの懐柔策

英印円卓会議の開催(1930~1932)
開催地:ロンドン
ガンディーは1回だけ参加するも、あとは国民会議派はボイコット。
↓↓

新インド統治法(改正インド統治法)(1935)
連邦制と各州の自治制を導入。
↓↓
ネルーは自治ではなく完全独立(プールナ=スワラージ)を要求!
インドの民族運動に拍車を掛ける。


(5) トルコ革命
ポイント①無力なオスマン帝国を滅ぼせ!
国民は弱腰なオスマン帝国に愛想を尽かす・・

オスマン帝国の降伏
第一次世界大戦に参戦。同盟国側敗北
↓↓
連合軍に支援されたギリシア軍がイズミル(トルコ内)に侵入・占領。(皇帝は容認)

セーヴル条約(不平等条約)
領土の大部分を喪失、主権の制限、軍備制限、治外法権。

↓↓ 弱腰の政府に反発!

ムスタファ=ケマル(ケマル=パシャ)
アンカラで臨時政府を樹立。
侵入ギリシア軍との戦い。→成功

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②共和政トルコの新たな改革!
西欧風近代国家を目指せ

共和制トルコ
ムスタファ=ケマル(ケマル=パシャ)

スルタン制廃止(1922)→オスマン帝国の滅亡
スルタン=オスマン皇帝。トルコの国民が立ち上がって弱腰なオスマン帝国を倒した。
↓↓
ローザンヌ条約の締結(1923)
セーブル条約に変わる新しい連合国との講和条約。イズミル回復。軍備制限や治外法権の撤廃。
↓↓
トルコ共和国の成立(1923)
(都:イスタンブルから→アンカラに変わる)

・ムスタファ・ケマルが初代大統領になり、西洋的な近代化を目指す。

カリフ制廃止(カリフ=イスラーム世界のリーダー)
政教分離・・イスラム国家の中では政教分離は珍しい

女性解放

文字改革 ローマ字採用
コーランの文字、アラビア文字⇒ローマ字へ。識字率アップ

・尊称:「アタテュルク(トルコの父)」と議会から称号を付与。

 


(6)イスラーム諸国の動向
ポイント①イギリス支配からの脱却を目指せ
エジプト・イラン・アフガニスタンの動向・・

エジプト
ワフド党(「代表」の意)の結成
エジプトの英からの独立をめざす。

エジプト王国の「条件付き」独立(1922)
英はエジプトの防衛権を保有。英の軍隊がエジプト内にいる。(軍事占領)
↓↓ 軍、出ていって・・

エジプト=イギリス同盟条約(1936)(完全独立
エジプト国内の軍事占領は終了。スエズ運河地帯駐屯権を承認。

============
イラン
カージャール朝
第一次世界大戦前、(北)と(南)に支配されていた
WW1中は両国に占領。→ロシアは革命で抜ける。英の支配
↓↓
英の言いなりの王朝をつぶして、英に出ていってもらおう
↓↓
パフレヴィー朝
建国者:レザー=ハーン(位1925~1941)
英との不平等条約を撤廃!
国号をペルシアから⇒イラン

============
アフガニスタン>インドの北
WWⅠ前 英の保護国
↓↓
第3次アフガン戦争
英✕ VS 〇アフガニスタン
↓↓
アフガニスタン独立(1919)
英はあっさり認める。
インドで独立運動が起こっていてそちらで手一杯。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②現在まで続く、中東問題の諸悪の根源!
ここに原因あり!

<第一次世界大戦中のイギリス外交>
英の3つの秘密条約
[1]フセイン=マクマホン協定
アラブ人国家建設を約束

[2]サイクス・ピコ協定
トルコ領を英仏露で分割

[3]バルフォア宣言
パレスチナ(トルコ領)にユダヤ人国家の建設を支援
↓↓
委任統治(中東地域)
戦後、英仏の委任統治になった。
の管理(北)
シリア、レバノン
の管理(南)
パレスチナ、トランスヨルダン、イラク

英仏が民族、宗派関係なく勝手に国境を引いた。WW2後その国境線のまま独立してしまった。これが今でも中東地域の情勢を不安定にしている要因。
↓↓
・イラク王国独立
・レバノン独立
(WWⅡ後)
・ヨルダン王国独立
・シリア独立

パレスチナ
アラブ人 VS ユダヤ人
この対立を英は無視し続けた。
WWⅡ後、英は手放し、国連に渡す。

 


 

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【36】ヴェルサイユ体制とワシントン体制

【36】ヴェルサイユ体制とワシントン体制
パリ講和会議(1919)/ ヴェルサイユ条約(1919)/ 国際連盟
ワシントン会議(1921~2)/ ロンドン軍縮会議(1930)
(1) 敗戦国ドイツの処分
(2) 敗戦国の処理
(3) 戦後の国際秩序の維持
(4) 国際協調主義にむけて


(1)敗戦国ドイツの処分
ポイント①第一次世界大戦後の国際秩序を決めよう!
紛糾する講和会議とその議題に注目

パリ講和会議(1919)
・戦勝国(連合国)のみ参加。敗戦国とソヴィエト=ロシアは招かれず。(←周りの国々が警戒)
・ウッドロー=ウィルソン(米)十四カ条の平和原則
・ロイド=ジョージ(英)英の地位の復帰
・クレマンソー(仏)独に厳しい制裁をすべき

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②ドイツに徹底した復讐を!
敗戦国ドイツに課された過酷な条件・・・

ヴェルサイユ条約(1919)>独に付きつけられた条件
・海外植民地は全て喪失。
アルザス・ロレーヌ(独仏国境。地下資源豊富)をに割譲。(普仏戦争1870で仏→独領に。それを返還した)
・ポーランド回廊をポーランドへ割譲。
・国際連盟の管理下に・・ザール地方、ダンツィヒ
ラインラント非武装・・ライン川流域。独仏の国境線。
軍備制限・・空軍✕、潜水艦✕、徴兵制禁止など。
・巨額の賠償金・・未決定(後に1320億金マルク/約200兆円と決定)
国際連盟の発足


(2)敗戦国の処理
ポイント①ドイツ以外の敗戦国の処分
戦勝国の思惑が反映された講和条約・・

<独以外の敗戦国との講和条約>
(連合国と各国が結んだ条約)
サン・ジェルマン条約・・対オーストリア
トリアノン条約・・対ハンガリー
(※オーストリア=ハンガリー帝国は切り離された。)
ヌイイ条約・・対ブルガリア
セーヴル条約・・対トルコ(オスマン帝国)

東欧諸国の独立
・バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)
・ポーランド
・フィンランド
・ハンガリー
・チェコスロバキア
・セルブ=クロアート=スロヴェーン王国→ユーゴスラビア

※ウィルソン十四カ条の「民族自決」は東欧にだけ適用。ソ連との壁・ブロックとして独立を認めた。アジア、アフリカには適用されず。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②第一次世界大戦後の西アジア情勢
21世紀まで続く中東問題の火種はここにある!

第一次世界大戦後の西アジア情勢(旧オスマン帝国領)

アラビア独立
・ヒジャーズ王国(アラビア半島の西)
メッカの首長:フセインが建国(フセイン=マクマホン協定)

英に協力したらアラブ人国家を作っていいよと英は言ったので、フセインはヒジャーズ王国を作った。
↓↓
しかし英は自分たちと仲がいいイブン・サウード(サウード家)を使って攻撃。
↓↓
サウジアラビア王国の成立。(=サウード家のアラビア)

<アラビア半島の北部(旧オスマン帝国領)>
委任統治
国際連盟が預かる。英仏が統治。
の管理・・イラク、パレスチナ、トランスヨルダン
の管理・・シリア、レバノン
レバ・シリア
パレ・ヨル・イラク
英仏が民族や宗派に関係なく勝手に国境線を引いてしまったので、今でも民族紛争が絶えない・・。


(3)戦後の国際秩序の維持
ポイント①世界初の集団安全保障!
国際連盟の発足とその問題点

・国際連盟(1920)・・世界初の集団安全保障組織
本部:ジュネーヴ(スイス)
最高議決機関:総会
(理事会)
常任理事国・・英・仏・伊・日
非常任理事国 総会で選出された4カ国

・国際労働機関(ILO)
労働問題の調整機関。(社会主義革命を阻止するため)

(国際連盟の問題点)
・提唱国のアメリカ不参加
脱退・参加の自由
全会一致の原則(各国の利害関係で機能せず・・)
制裁規定の欠落
↓↓
だから第二次世界大戦を防ぐことができなかった・・。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②東アジアの国際秩序を形成せよ!
アメリカ主導で動く戦後の国際秩序とは?

東アジアの国際秩序
・ワシントン会議(1921~22)
(本心:米が日本の成長に警戒。抑制したい。。)
米ハーディング大統領が開催

四カ国(しかこく/よんかこく)条約
太平洋地域の領土と権益の相互尊重→日英同盟解消

九カ国条約
中国の主権、独立の尊重。→二十一カ条要求の失効。

ワシントン海軍軍備制限条約
主力艦の保有比率
米:英:日:仏:伊=5:5:3:1. 67:1. 67
世界で軍縮(軍備縮小)の動きへ・・


(4) 国際協調主義にむけて
ポイント①ヨーロッパは皆で仲良く!?
第一次世界大戦を反省したヨーロッパ諸国の動き

国際協調主義(みんなで仲良くお互い尊重しよう)

ロカルノ条約(1925)
西ヨーロッパの安全保障。
ドイツ外相:シュトレーゼマン(戦後ドイツの立て直し)
→独の国際連盟加入(1926)

不戦条約(1928)(60カ国)
米国務長官:ケロッグ
仏外相:ブリアン
「国際紛争の解決は武力によらない」
(戦争放棄)(←日本国憲法にも反映される)

ロンドン軍縮会議(1930)
補助艦の保有比率
米:英:日=10:10:7弱(←日本の海軍の反発を招いた)

(コミック『アルキメデスの大戦』)

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②払えるワケがない!ドイツを苦しめたお金のトラブル
第一次世界大戦後のドイツ賠償問題の行方

賠償問題

ヴェルサイユ条約
ドイツの賠償を規定→1320億金マルクに

独が払えない。

↓↓ 仏が怒る。「金がないならモノで払え」

ルール占領(1923)仏とベルギー
が独の工業地帯ルール地方を占領
独は消極的抵抗。生産停止→物価高インフレーション激化
↓↓
ドーズ案
が独にお金を貸す。⇒独は英・仏に賠償金を支払う。⇒英仏は復興に。米に借金を返す。
これで仏もルールから撤兵。

・ヤング案
賠償金の減額。
↓↓
しかし「世界恐慌」で米に余裕がなくなった・・
↓↓
フーヴァー=モラトリアム
ドーズ案を1年停止。かえって独英仏が苦しくなる。。経済圧迫。

 


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【34】帝国主義とアジアの民族運動

【34】帝国主義とアジアの民族運動
(1)インドの反英運動
(2)東南アジアの民族運動
(3)西アジアの民族運動


(1)インドの反英運動
ポイント①当初は親英的?インド国民議会の結成
インドの民族運動を懐柔するためにイギリスが取った政策

<インド民族運動の形成>
インド国民会議の結成(ヒンドゥー教徒中心)ボンベイ
がインド支配にあたってインドの知識人を抱き込む。「君たちの意見を政策に反映させるよ」。
↓↓
国民会議派
インド国民会議に参加した人々による親英的な政治結社。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②イギリスなんて早く出ていけ!
親英的な組織が反親英組織へ・・

反英運動の高まり>
ベンガル分割令(1905)(カーゾン法)
ベンガルでイスラーム教徒とヒンドゥー教徒を分けて住まわせる政策。
↓↓
英は宗教対立を引き起こして団結するのを防ごうとした。国民会議派に見破られた。
↓↓
国民会議派は激怒。親英から反親英に。
↓↓
カルカッタ大会4綱領(こうりょう)の採択
国民会議派の急進派・指導者:ティラク
4つの綱領
[1]英貨排斥(えいかはいせき)(英製品の不買)
[2]スワデーシ国産品愛用)スワ「自分の」デーシ「国の」
[3]スワラージ自治の獲得)スワ「自分の」ラージ「支配」
[4]民族教育

英は焦る。
↓↓
全インド=ムスリム連盟を発足。
の支援で結成。インドのイスラーム教徒の政治団体。
VS
国民会議派 ヒンドゥー教徒

ベンガル分割令撤回(1911)
撤回はされたが宗教対立は残ってしまった。


(2)東南アジアの民族運動
ポイント①ベトナム・インドネシアの民族運動
フランス・オランダに対する民族運動の行方・・

ベトナム民族運動
フランス支配下・仏領インドシナ
ファン=ボイ=チャウ
維新会の結成(←日本の明治維新を参考にしている)
↓↓
ドンズー(東遊)運動=日本に留学生を多く送る。
ベトナムの近代化をめざす。日露戦争での日本の勝利に影響。

↓↓ しかし・・日本と手を組みドンズー運動は弾圧を受ける。

ベトナム光復会(今度は中国をモデルに)

インドネシア民族運動
オランダ支配・オランダ領東インド

サレカット=イスラーム結成
「イスラーム同盟」という意味。商人や知識人を中心に組織を拡大。自治を要求。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②フィリピンの民族運動
スペイン支配の次はアメリカ支配!?

フィリピン独立運動
スペイン支配下
ホセ=リサール
小説でスペインを批判。銃殺刑に・・。

アギナルド
スペイン支配からの独立をめざしフィリピン革命をおこす。革命政府大統領になったがスペインに追われて逃げる。
↓↓
米西(アメリカ=スペイン)戦争(1898)
アギナルドが米の援助で帰国。フィリピン共和国の建国。スペインからの独立
↓↓ ところが・・
フィリピンは米の領土になってしまう。
↓↓
フィリピン=アメリカ戦争(1899~1902)
フィリピン✕ VS 〇アメリカ
アギナルドは反米闘争→逮捕。フィリピンは独立できず米支配に。


(3)西アジアの民族運動
ポイント①オスマン帝国では立憲運動が再発!?
日露戦争の影響がオスマン帝国にまで届く

オスマン帝国立憲運動
・皇帝アブデュル=ハミト2世(位1876~1909)
ロシア=トルコ戦争時に、ミドハト憲法を停止した。
↓↓
領土縮小。もう一度皇帝の力を抑えようという動き。
↓↓
「青年トルコ人」の結成
中心団体:「統一と進歩団
日露で勝った日本に影響。憲法復活をめざす
↓↓
青年トルコ革命(1908)
ミドハト憲法復活!(日露戦争の影響)
皇帝アブデュル=ハミト2世→退位
オスマン帝国は立憲君主制を確立。
(しかしもう遅かったか・・。列強の植民地支配から脱却できず。)

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②イランの立憲運動の行方
英露の干渉に耐えるイランで起きた運動とは?

イラン立憲運動
パン=イスラーム主義
アフガーニーが提唱
「全てのイスラム教徒が団結して、欧米の帝国主義に対抗しよう」
↓↓
タバコ=ボイコット運動(1891)
イランの民衆が反英、反国王運動。

イラン立憲革命(1905~1911)
日露戦争の影響。日本の明治維新を参考にして仮憲法の制定、国会開設までいくも・・
↓↓
英露協商(1907)
ペルシア分割(イランの領土が一部英露に支配される)
北部:露領(カスピ海の南半分周辺)
南部:英領(ペルシア湾周辺)
※英と露はイランをめぐって対立していたが、独に対抗するため手を結ぶ。
↓↓
イラン立憲革命は英露が干渉し、つぶす。

憲法制定して国内を立て直し、外国を追い出す。
⇒オスマン帝国は成功〇、イランは失敗✕。

 


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【30】アジア諸地域の植民地化

【30】アジア諸地域の植民地化
(1)フランスのインドシナ進出
(2)オランダ・イギリスの東南アジア進出
(3)イギリス東インド会社のインド経営
(4)オスマン帝国の衰退
(5)オスマン帝国の近代化
(6)イラン・アフガニスタンの植民地化


30ーキーワード
<東南アジア>
・仏⇒仏領インドシナ(ベトナム・カンボジア・ラオス)
・蘭⇒オランダ領東インド(インドネシア)
・英⇒マレー連合州(マレーシア)=海峡植民地(シンガポール、ペナン、マラッカ)+α。ミャンマー。
<インド>
・英⇒印:シパーヒーの反乱(1857)⇒ムガル帝国滅亡(1858)⇒インド帝国(1877)
<オスマン帝国>
・アブデュル=メジト1世「タンジマート(恩恵改革)」
・ミドハト=パシャ「ミドハト憲法」(1876)
<その他>
・ウラービー運動(エジプトの反英運動)
・タバコボイコット運動(イランの反英運動)


30ーガイダンス(1~6)
・東南アジア・・仏・蘭・英(仏は中国への中継基地がほしい)
・インド・・英の単独支配(英仏の戦争に英が勝ったため)
英本国ではなく英東インド会社(貿易会社)がインド経営をする。(ある変化が。。貿易→徴税)
・西アジア・・オスマン帝国の衰退・近代化。イラン・アフガニスタンなど。


(1)フランスのインドシナ進出
ポイント①ナポレオン3世のインドシナ進出
なぜこのタイミングでベトナムを攻めるの?

(ナポレオン3世)がインドシナ(=現ベトナム・カンボジア・ラオス)に進出。

<ベトナム>
阮朝(げんちょう)/ 越南国
建国:阮福映(げんふくえい)。仏宣教師ピニョーが支援。
清の朝貢国(弟分)。清からは越南国(えつなんこく)と呼ばれる。

ラオス  |ベ
_________|ト
カンボジア|ナ
_________|ム

仏のインドシナ(ベトナム)進出理由は・・
→アロー戦争で仏は中国進出を始めた。中継基地が欲しかった。
↓↓
仏越(ふつえつ)戦争。〇仏ナポ3世 VS 越✕
仏がベトナムのサイゴンを獲得。
カンボジアを保護国化。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②フランス領インドシナ連邦の成立
ベトナム・カンボジア・ラオスの植民地化

ユエ条約・・ベトナム保護国化
↓↓
(兄)がベトナム(弟)の宗主権(指導する権利)を主張。(清は仏にクレーム)(朝鮮の時と同じ。清は日本にクレーム。)
↓↓
清仏戦争(〇仏 VS 清✕)(1884~5)
天津条約・・清はベトナムの宗主権を放棄
↓↓
・仏領インドシナ連邦
(1887~1945)
(現ベトナム・カンボジア・ラオス)

 


(2)オランダ・イギリスの東南アジア進出

ポイント①オランダのジャワ・スマトラの植民地化
現在のほぼインドネシアにあたる地域をオランダが植民地化

オランダ領東インド
オランダのジャワ・スマトラ(インドネシア)を植民地化

・イギリス=オランダ協定(イギリスとオランダの打ち合わせ)
マラッカ海峡を境界に北は、南はと分けた。

・ジャワ戦争(1825)〇蘭 VS ジャワ✕
⇒蘭は勝ったが、財政窮乏に・・
↓↓
強制栽培制度(1830)
商品作物(コーヒー)⇒ヨーロッパに販売。
オランダ産業革命の資金源になる。
↓↓
・アチェ戦争(1873)
スマトラ島の北端。✕アチェ王国 VS 蘭〇
オランダ領東インド完成(現インドネシア)

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②イギリスが東南アジアを植民地化するわけは?
インド帝国とのアクセスを最優先

英植民地のインド清(中国)をつなぐために(海回り)中継基地としてマレー半島が必要。

ぺナン、シンガポール、マラッカ(=海峡植民地)の獲得
↓↓
マレー連合州(現マレーシア)の成立
プランテーション
(すず)・・華僑(中国)を労働力
ゴム・・印僑(インド)を労働力

ビルマ(ミャンマー)戦争
コンバウン朝を滅ぼしインド帝国に併合

 


(3)イギリス東インド会社のインド経営
ポイント①東インド会社のインド植民地の動き
商業活動を停止された会社が生き残るための工夫

<英東インド会社の進出>
プラッシーの戦い(1757)
インド・ベンガル地方をめぐって争う 〇英 VS 仏✕

イギリス東インド会社(貿易会社)は、ベンガル(インド北東・ガンジス川下流域・豊かな土地)の徴税権を得る。
↓↓
イギリス東インド会社が商業活動停止される(1833)
↓↓
インド統治機関へと移行。
↓↓
<各地で戦争へ>
マイソール戦争(南インド)
マラーター戦争(中部・デカン高原)
マラーター同盟・インドの豪族
シク戦争(北西パンジャーブ地方)シク教徒
あとはムガル帝国のみ。。

<征服地への税制>
ザミンダーリー制
地主・領主から直接地税を徴収。(ベンガル地方)

ライヤットワーリー制
自作農民から直接地税を徴収。(シンド地方、南インド)

徴税に加え、プランテーション経営もするようになる。
→茶、アヘンの栽培・輸出

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②全インドを揺るがす大反乱
イギリスのインド支配における転換期

・シパーヒーの反乱(1857~1859)
シパーヒーとはイギリス東インド会社に雇われたインド人傭兵(ヒンドゥー教徒+イスラム教徒)。薬包に牛と豚の脂を使っていると噂。

デリー城を占拠。ムガル皇帝を擁立
↓↓
インド大反乱に発展。
↓↓
英本国軍が鎮圧。ムガル帝国が滅亡(1858)
↓↓
イギリス東インド会社は解散。統治権は英本国に移る。(=英はただ同然でインドを手に入れる形になった。噂は英本国が流した・・?)

↓↓

・インド帝国1877~1947)成立
初代インド皇帝 ヴィクトリア女王
(ディズレーリ保守党内閣)

植民地なのに「帝国」と付いているのは、他のヨーロッパ諸国に向けた、英はインドを重要視しているというメッセージ。触れたらあきまへんえ・・の威嚇。

分割統治
保守的な藩王国を懐柔。間接統治。(=農民の怒りは地主へ行く。英本国には行かない。)

 


(4)オスマン帝国の衰退
ポイント①アラビア半島での独立の動き
ムハンマドの教えに帰れ!ワッハーブ運動の展開

<アラビア半島>
オスマン帝国支配下で自立の動き
ワッハーブ運動(ワッハーブ派)
ムハンマド時代のイスラーム教復帰を目指す。
↓↓
豪族サウード家と結んでワッハーブ王国建設。
都:リヤド
↓↓
エジプトのムハンマド・アリーの攻撃でワッハーブ王国は滅亡。
⇒アラビア半島の自立は失敗。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②エジプトでの自立の動き
オスマン帝国の部下であって部下でない?

<エジプト自立の動き>
仏・ナポレオンのエジプト占領(1798~99)
→ナポレオンはエジプト先住民(アラブ人)にオスマン帝国(トルコ人)への反抗を呼びかけた。「悔しくないのか?民族の誇りを持つべきだ!」

↓↓ エジプト自立の運動の中心

・ムハンマド=アリー
エジプトからナポレオンを追い出す。オスマン皇帝に変わってエジプト総督の地位を授かる。エジプトの自立・近代化を目指す。

オスマン帝国に要求。

第1次エジプト=トルコ戦争(1831~33)
オスマン帝国にシリアの領有を要求し、開戦。
〇エジプト VS トルコ✕
シリアを獲得

第2次エジプト=トルコ戦争(1839~40)
エジプトとシリアの世襲権要求。
△エジプト VS トルコ(欧の干渉もあり)
⇒シリアを返還。エジプトとスーダンの世襲権は獲得。

ムハンマド・アリーの死後・・

・スエズ運河 開通(1869)at エジプト
(仏・技術者)レセップス
地中海からインド洋に直接行ける。英は喉から手が出るほど欲しい。(英)ディズレーリ内閣。スエズ運河会社の株を買収。支配権獲得

↓↓ トルコの次はイギリスかよ・・

ウラービー運動(反乱)(1881)(エジプトの反英運動)
「エジプト人のためのエジプト」英支配に抵抗するが、鎮圧される。
↓↓
エジプトは英の保護国化に。(英の植民地に・・)

 


(5)オスマン帝国の近代化
ポイント①ついに目覚めたオスマン帝国!
皇帝が率先して行う「上からの近代化」とは?

<オスマン帝国>
・アブデュル=メジト1世
(位1839~1861)
「タンジマート(恩恵改革)」(1839)
ギュルハネ勅令

・皇帝が率先して近代化。「上からの改革」。司法、行政、財政、軍事、文化など。
・非イスラムへの平等課税。法的にも平等。

↓↓ 一定の成果が出たが・・(オスマン帝国を敗れるぐらい成長)

クリミア戦争(1853~56)
〇オスマン帝国 VS ロシア✕
英・仏・サルディーニャ。

タンジマートの成果が出てトルコは勝利!
→しかしトルコは英・仏に借金。財政面では英仏の従属状態に・・。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②アジア初の憲法が制定されるも・・
立憲君主政への移行と皇帝の思惑

・アブデュル=ハミト2世(位1876~1909)

宰相 ミドハト=パシャ

・ミドハト憲法
(1876)
アジア初の憲法
。(大日本帝国憲法(1889)より13年早い。)

・二院制議会、責任内閣制
立憲君主制への移行を目指した。皇帝の独占ではなく議会で話し合いをしよう。
↓↓
ロシア=トルコ(露土)戦争(1877)
アブデュル=ハミト2世が、皇帝の力を制限されるのを嫌ってミドハト憲法を停止!

宰相ミドハト=パシャを解任(1877)。
戦争の責任を押し付けて島流しに。。

結局、皇帝独裁政治が変わらぬまま、英仏に財政面で頭が上がらないまま・・

 


(6)イラン・アフガニスタンの植民地化
ポイント①イランの植民地化
イランをめぐるイギリスとロシアの熾烈な争い

(イラン)カージャール朝(1796~1925)
北にはカスピ海、南にはペルシア湾。
北から海を求めてロシアが狙う・・。南東から英が狙う。

トルコマンチャーイ条約(1828)
イランにロシアが押しつけた不平等条約。
アルメニアの大半を獲得。治外法権を承認。
(※トルコだがオスマントルコとは関係ない。トルコマンチャーイという町の名前)

↓↓ 何でイラン政府はロシアの言いなりなんだ・・!

バーブ教徒の乱(イスラーム教・シーア派の一派)
イラン・カージャール朝の貧困農民中心の反乱
英・露・弱腰なイラン政府に反対するも、鎮圧される。

タバコ=ボイコット運動(1891~92)(イランの反英運動)
タバコの独占販売権がイラン政府から英業者に渡される。
⇒民衆はタバコをボイコット。知識人(ウラマー)らも含めた反英・反国王運動。
↓↓
鎮圧される。英露のプレッシャーは続く。イランの植民地化は避けられない・・

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②なぜアフガニスタン?
イギリスはアフガニスタンを絶対に渡したくない!

英の2回のアフガン戦争
アフガニスタンはインドの真上。英はインドが大事。北からのロシアからの侵攻の防波堤として、アフガニスタンは押さえておきたい。
↓↓
第1次アフガン戦争(1838~42)英✕ VS 〇アフガニスタン
何と、英・完敗!

ベルリン会議(1878)
ロシアのバルカン半島方面の南下を阻止した。
↓↓
英「そうするとロシアは違う地域から降りてくるかも・・。やばい。アフガニスタンにも来るかも・・!」
↓↓
第2次アフガン戦争1878~80)英〇 VS ✕アフガニスタン
今度は英勝利。アフガニスタンを保護国化

 


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