260704
日本史【24】豊臣秀吉(近世ー2)
<豊臣秀吉・全国への進出>
1582年 「山崎(やまさき)の戦い」:本能寺の変後、毛利氏と講和し京都へ戻り、明智光秀を破る(山城)。自分が後継者だと表明。
1583年 「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」:近江で柴田勝家を破る。
1583年 大坂城築城:石山本願寺の跡地。
(※大「阪」になるのは明治。)
1584年 「小牧・長久手の戦い」:徳川家康・織田信雄(信長の次男)連合軍と講和(尾張)。
<朝廷権威の利用・西の平定>
1585年 関白就任(→日本全国に命令できる。)
惣無事令(戦争禁止令)を発布。
(戦国時代の「喧嘩両成敗」を継いだ。)
1585年 【四国平定】:長宗我部元親を破る。
1586年 太政大臣就任:豊臣の姓をもらう。
羽柴→豊臣
1587年 【九州平定】:島津義久を破る。
<人民統制・東の平定>
1587年 「バテレン追放令」:宣教師の国外退去令(20日以内)
1588年 「刀狩令」:農民の武器所有を禁止。
一揆の防止と、兵農分離が目的。
1590年 【小田原平定】(相模):北条氏政・氏直親子を破る。
1590年 【東北平定】:伊達政宗(独眼竜)が小田原攻めの際に帰属し、全国平定。
1591年 「人掃令」(ひとばらいれい)(身分統制令):武士の農民への転換などを禁止。目的は「兵農分離」。→江戸の「士農工商」につながる。
1592年 「文禄の役」(朝鮮出兵①)
(朝鮮の暦から壬辰倭乱(じんしんわらん)と呼ぶことも。)
加藤清正、小西行長らを朝鮮に派遣。
秀吉は名護屋(肥前/佐賀)で指揮。
李舜臣(亀甲船)や義兵(一般民兵)などの強い抵抗で苦戦。
1596年 「サン・フェリペ号事件」:スペインの船が土佐に漂着。乗務員が「領土拡張に宣教師を利用している」と証言。↓↓
1596年 「二十六聖人殉教(にじゅうろくせいじん・じゅんきょう)事件」:フランシスコ会などの宣教師・信者26人を長崎で処刑。
(殉教:宗教で命を落とすこと)
1597年 「慶長の役」(朝鮮出兵②)
(丁酉倭乱(ていゆうわらん)ともいう)
1598年 秀吉の死去により撤退。
<太閤検地>
天正の石直し(こくなおし)
「山崎の戦い」以降、直接役人を派遣し、全国を検地して石高を決定した。
(太閤:前関白。関白を譲って辞めた人。)
☆単位の統一
・長さ:六尺三寸(=1間(けん)=191cm)四方を、一歩(いっぷ)とする。
・面積:町(ちょう)・段(たん)・畝(せ)・歩(ぷ)
(1町=10段=100畝=3000歩)(1段=300歩)
・はかり(容積):「京枡」を採用。米を数える。
→公正に税金を取る。
☆「石高制(こくだかせい)」を採用
(前は貴高制(かんだかせい))
・石高は「米の量」
石高=面積 × 石盛(こくもり)(1段あたりの標準収穫高)
1石(こく)=10斗=180リットル
「貴」(お金の単位)から「石高」(容積・体積)に代わった。
石高に応じた年貢を課す。
上田(じょうでん)、中田(ちゅうでん)、下田(げでん)、下々田(げげでん)
年貢率は「二公一民」(税率66%)が原則
→各地で一揆誘発。
☆「一地一作人(いっちいっさくにん)」の原則
直接、耕作民を「検地帳」に登録し、その作人から年貢を徴収。
「中間搾取層(作合)」(荘官、領家、本家など)の否定。
→「荘園制(私有地)」の崩壊
すべての土地は秀吉(次は江戸幕府)のもの。
<秀吉の諸政策>
☆直轄地=「蔵入地(くらいりち)」(200万石)
(cf. 江戸幕府「天領」「幕領」
室町幕府「御料所」)
☆重要鉱山の直轄化
・佐渡・相川金山
・石見(いわみ)・大森銀山(島根)(元は毛利氏のもの)
・但馬・生野銀山
軍隊を編成する、武器を買うなど。
☆貨幣鋳造
天正大判(金貨)(恩賞用・by 後藤徳乗)
<五奉行と五大老>
☆五奉行(秀吉の部下)
・浅野長政
・石田三成
・前田玄以
・増田(ました)長盛
・長束(なつか)正家
☆五大老(有力大名)
・徳川家康(関東)
・前田利家(加賀)
・宇喜多秀家(中国)
・毛利輝元(中国)(元就の孫)
・(小早川隆景(北九州))
・上杉景勝(北陸)