11_江戸時代 – 歴史note

日本史【33】幕末の動乱(近代ー2)

260718
日本史【33】幕末の動乱(近代ー2)

<徳川家茂⑭の時代>
大老:井伊直弼
アメリカ以外の他国とも「修好通商条約」を結ぶ。
・和親条約は4ヶ国(アオイロ)
・通商条約は5ヶ国。
米・蘭・英・仏・露(ア・オ・イ・フ・ロ)
→「安政の五カ国条約」
(すべて「違勅条約」(無許可))

・1859年 貿易開始
(輸入品)
(1)毛織物(40%)(2)綿織物(3)武器物
(輸出品)
(1)生糸(絹織物の原料)(80%)(2)茶(3)蚕卵紙
(※生糸は日本の輸出品のメインになっていく)

中心港:横浜(神奈川という町からちょっと離れた場所)
(貿易は、横浜・箱館・長崎)
中心相手国:イギリス
(アメリカは南北戦争中・1861~65)

★井伊直弼への非難
・1858年~1859年 安政の大獄(あんせいのたいごく)
井伊直弼を批判した吉田松陰(長州)や橋本左内(越前)らを処刑。→100名以上を処罰

・1860年 桜田門外の変(江戸城の外)
水戸浪士(+薩摩浪士)らが井伊直弼を暗殺。

★開国・貿易開始の影響(経済)
①在郷商人(農村の商人)が江戸を通さず、居留地(横浜)へ直送。
(居留地:外国人の住む場所。ここで貿易をする)
↓↓
・1860年 「五品江戸廻送令(ごしな えどかいそうれい)」
雑穀、水油、ろう、呉服、生糸
この五品は「必ず江戸を通すこと」という令。
→反発が起きる。

②金貨大量流出
金銀交換比率の相違。
日本金:銀=1:5
外国金:銀=1:15
金の価値が外国金の方が高い。比べて日本金は安い。
→外国に日本から金を持っていって、両替するようになる。
→日本から金が流出。金がかなり少なくなる。

・1860年 「万延小判(まんえんこばん)」鋳造
金の含有量を3分の1に減らす。
(=外国とレートを同じにした。)
↓
貨幣価値が下がる。
インフレ。物価高。庶民の生活を圧迫。
↓
攘夷(外国排斥)運動へ・・

<老中(井伊直弼→)安藤信正へ>

・1862年 和宮降嫁
孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)を、徳川家茂⑭の夫人に迎える。(公武合体政策)(京都(上方)から江戸へ下る。)
(「幕府を討て」派の人を押さえられる。)
↓↓
・1862年 坂下門外の変
老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)が尊攘派に襲われ負傷。

★幕末の思想
「尊王攘夷論」(尊攘派)
天皇中心。幕府打倒を図る(=幕府は不要)
VS
「公議政体(こうぎせいたい)論」
雄藩連合の会議による政治。(=幕府は残す)

<徳川家茂⑭>
・1862年 文久の(幕政)改革
薩摩藩・島津久光による幕政改革。
薩摩から江戸に行って幕府を立て直す。
(内容)
(1)将軍後見職(将軍のサポート):一橋慶喜
(2)政事総裁職(せいじそうさいしょく)(慶喜のサポート):松平慶永(よしなが)(親藩大名)
(3)京都守護職(京都の治安維持):松平容保(かたもり)(会津藩)
会津(東北)から江戸を通って京都へ。その途中で募集されたのが新撰組。近藤勇。土方歳三。
(※「京都所司代」の上に「京都守護職」を置いた。)

ほかに「参勤交代の数を減らす」など。
↓↓
(薩摩への復路でのできごと)
・1862年8月 生麦(なまむぎ)事件
薩摩藩士が武蔵(神奈川県)・生麦でイギリス人3人を殺傷。
↓↓
・1863年 「薩英戦争」
英〇 VS ✕薩
双方、被害を受け、講和。
→双方接近(お互い認め合う。)
(薩摩は攘夷は無理だと悟る。→外国とは手を組んで幕府を討とう。)
→後に薩長が幕府を倒すとき、英がバックアップする。

・1863年 「長州藩・外国船砲撃事件」(下関事件)
長州藩が、米・仏・蘭の船を下関で攻撃。
(5月10日。幕府の決定した攘夷の決行)

★幕府に対する挙兵
・1863年 ①生野の変(但馬)
・1864年 ②天狗党の乱(常陸)

・1864年 「池田屋事件」
幕府の警備隊「新撰(選)組」(近藤勇ら)が、尊攘派(長州中心)を襲う。
↓↓
・1864年 「禁門の変」(蛤御門(はまぐりごもん)の変)
長州藩が報復に京都(幕府)に攻め込む。
→京都の幕府軍(諸藩(薩摩・桑名・会津))が長州藩を討つ。
↓↓
・1864年 「第一次長州征伐(征討)」
(長州が弱っている今がチャンス)
幕府による長州攻撃→長州降伏

・1864年 「四国艦隊 下関砲撃事件」
「下関事件」(外国船に大砲を撃った)の報復に、英・米・仏・蘭が長州藩を攻撃。→下関を占領
(長州も攘夷は無理だと悟る。→外国とは手を組んで幕府を討とう。)
↓↓
・1866年 「薩長同盟(連合)」
仲が悪かった両藩が連合し、相互援助・武力倒幕を約す。(下級藩士が台頭)
・薩摩:西郷隆盛
・長州:桂小五郎(後の木戸孝允)
・仲介:土佐・坂本龍(竜)馬(商人)(海援隊(会社の始まり))
龍馬→薩摩が長崎でトーマス・グラバー(英)から武器を買う。その仲介、交渉をするなど。
↓↓
・1866年 「第二次長州征討」
→薩摩は参加せず(長州と同盟を組んでるから。)
→幕府が苦戦。

<徳川慶喜⑮>
・1866年 孝明天皇死去
薩長は天皇による「幕府討伐命令」を出してほしい。
(孝明天皇は出さなかった。)→明治天皇へ

・1867年10月14日 ①「討幕の密勅」
公家・岩倉具視の尽力。
「錦の御旗」新政府軍が正義の軍隊を掲げられる。

↓↓(同じ日)

・1867年 ②「大政奉還」(たいせいほうかん)
(江戸時代終わり。1603~1867年)
慶喜が朝廷に提出し、将軍職を返上。
幕府の方から、幕府、将軍をやめる。権力を天皇に返す。
→「討幕の密勅」が意味をなさないものになる。
(幕府を攻めさせないため。薩長との全面戦争を避けるため。)

<江戸幕府の滅亡>
☆1867年12月9日 「王政復古の大号令」
・摂関・幕府の廃止
・「三職」を設置
①総裁(そうさい):有栖川宮 熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王(皇族)
②議定(ぎじょう):公家、藩主
③参与(さんよ):下級武士 下級貴族

※ここに徳川慶喜が入ってない
=江戸幕府は絶対的な権力。対等、平等にはならない。
↓↓
(同じ日)
☆1867年12月9日 「小御所会議(こごしょかいぎ)」
・徳川慶喜の「辞官」(将軍だけでなく内大臣も辞退させる)
・「納地」を決定(領地を返上)
(=薩長は煽っている。そうすれば徳川軍を反乱軍として討てるので。)
↓↓
慶喜は挑発に乗らず、受け入れる。
↓↓
しかし「幕臣」が暴発。「戊辰戦争」へ・・。
(直参たちのプライドが許さない。)

☆世直し一揆・打ちこわしの頻発
「ええじゃないか」の乱舞(1867年)
世の中が退廃的なムードに・・。

 

日本史【32】開国(近代ー1)

260717
日本史【32】開国(近代ー1)

<徳川家慶⑫>
(水野忠邦→)老中・阿部正弘(あべまさひろ)

☆各国の開国要求
・1844年 オランダ国王の開国勧告(蘭)(「オランダとは貿易してるけど、他国とも開国した方がいいよ」)→幕府拒否。

・1846年 ビッドル来航(米)
浦賀に来航し、強硬に開国要求→幕府拒否。「大統領の国書を持ってこい」という。

・1853年 ペリー来航(米)
アメリカ大統領フィルモアの国書を持参し、浦賀に来航。
(浦賀:相模(神奈川県・横須賀市)。モリソン号(米)事件も浦賀。)一回帰る。

・1853年 プチャーチン来航(露)
長崎に来航し、開国要求。

<徳川家定⑬>
1854年 ペリー、再び浦賀に来航。

1854年 「日米和親条約」(神奈川条約)
老中・阿部正弘
(天皇からは一応OKが出ていたが、「すぐに鎖国に戻す」という約束だった。)
①下田(伊豆)、箱館(松前)の開港
②薪水、食料の給与
③アメリカに(一方的・片務的(へんむてき))最恵国待遇を与える。(米に与えた条件より他国との条件がいい場合、米にも同じ条件を認める。)
④領事(大使)の下田在住。

↓↓(他国とも結ぶ)
ア・オ・イ・ロ
(アメリカ、オランダ、イギリス、ロシア)

1854年 「日露和親条約」
①下田、箱館、長崎の開港
②国境規定
☆千島列島
・得撫(うるっぷ)島以北→ロシア領
・択捉(えとろふ)島以南→日本領
☆樺太
ロシア・日本、両国雑居地

<老中首座・堀田正睦(ほったまさよし)>
(cf.堀田正俊は綱吉⑤)

1856年 アロー号事件(英)
英船アロー号が清に臨検(検査)されたことに、英が抗議
→アロー戦争(第2次アヘン戦争)

1856年 下田に総領事としてハリス着任。
→「通商条約」の締結を強く求める。
老中首座・堀田正睦が京都に行くが、条約勅許を得られず。

<徳川家定⑬>
<大老・井伊直弼>
1858年 井伊直弼、大老就任
→無勅許(天皇の許可なし)のまま、条約調印。

1858年 「日米修好通商条約」
①神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港
②江戸、大坂の開市
③「領事裁判権(治外法権)の承認」
④「関税自主権の欠如」(協定関税制)
(→この2つはその後、50年ほど戻らない)
関税:貿易に対してかけられる税金

★将軍継嗣問題(家定⑬のあと)(1857年)

〇 南紀派(なんぎは):徳川慶富(よしとみ)(紀伊藩・若年)→家茂⑭
井伊直弼ら譜代大名(大老・老中・寺社奉行・京都所司代・若年寄)
VS
✕ 一橋派(ひとつばしは):一橋慶喜(よしのぶ)・・水戸斉昭の子。水戸藩から一橋家に養子に出ていた。(頭のいい切れ者)
外様大名ら、島津斉彬、山内豊信(とよしげ)、松平慶永(まつだいら・よしなが)

 

日本史【31】三大改革2(近世ー9)

260713
日本史【31】三大改革2(近世ー9)

<徳川家斉⑪>1787年~1837年
大御所時代。(家斉の時代は化政時代で、文化が華やぐ時代ではあったが、まともな政治改革はなく、反乱が起こる。)

・1798年 近藤重蔵、千島列島を探検。(択捉島まで行った)

・1804年 レザノフ来航
ロシア使節、長崎に来航。通商を要求。
→拒否
→レザノフ、キレる。(大砲撃って樺太で人襲う。)
↓↓ 幕府ビビる。
・1806年 【文化の薪水給与令】 (ぶんかのしんすいきゅうよれい(【】は幕府の政策)
「文化の撫恤(ぶじゅつ)令」ともいう。

・1808年 間宮林蔵 樺太探検

外国に優しくしようとしたら、2つの事件が起こる。
↓↓
・1808年 フェートン号事件(英)
英船フェートン号がオランダ船を追って、長崎湾内に侵入。長崎が荒らされた。長崎奉行が切腹。

・1811年 ゴローニン事件(露)
日本人がロシア人ゴローニンを国後で捕らえる。
→翌年、報復に国後で捕らえられた高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)と交換で帰国。

↓↓ 厳しい方針に転換

・1825年 【異国船打払令】
外国船撃退命令。「無二念 打払令(むにねん うちはらいれい)」ともいう。「外国の船は迷わず撃て!」
(覚え方:いっぱつゴン1825と打ち払え)

・1832年 天保の大飢饉:東北→全国へ
(cf. 天明の大飢饉1782年~87年)

・1837年 大塩平八郎の乱
陽明学者・大坂町奉行所・元与力(警察官)が大坂で反乱。
「幕府の役人」の反乱は衝撃。幕府の権威が落ちてきた証拠・・。

<徳川家慶(いえよし)⑫>1837年~1853年
・1837年 モリソン号事件(米)
米商船モリソン号を浦賀(相模)と山川(薩摩)で打ち払う。

・1839年 蛮社の獄(ばんしゃのごく)
モリソン号事件を批判した渡辺崋山(『慎機論』)、高野長英(『戊戌夢物語』)を弾圧。

・1840年 アヘン戦争
清がイギリスに敗北。南京条約締結。

<天保の改革>
★老中・水野忠邦「天保の改革」1841年~1843年(2年)

・1841年 株仲間解散令(特権をなくす)
物価の引き下げをはかる。
→効果出ず。業者の反対もあり、元に戻る。

・1842年 【天保の薪水(しんすい)給与令】
モリソン号事件、アヘン戦争の結果などを見て、日本も外国への態度を再度緩める。
1806【文化の薪水給与令】(優)→1825【異国船打払令】(厳)→1842【天保の薪水給与令】(優)

・1843年 「人返し令(ひとがえしれい)」 無宿人対策③
(①人足寄場②旧里帰農令)
都市に流入した農民の「強制」帰村。

・1843年 「上知例(あげちれい)」
江戸・大坂周辺の土地を、幕府が直轄化する計画。
→替地を命じられた有力な譜代大名らが反対。(元・浜松藩主程度の水野ごときに言われる筋合いはない!)→幕府の権威が落ちている。(ペリー来航10年前)

→失敗し、水野忠邦は失脚。

<諸藩の改革(薩摩・長州)>

・諸藩の改革【天保~幕末期】
→「雄藩(ゆうはん)」として、力(経済力)を持ち始める。

薩摩・長州・土佐・肥前

★薩摩藩
薩摩・大隅の2国(鹿児島)(正式には鹿児島藩)
・家老(幕府でいう老中)調所広郷(ずしょひろさと)(元下級武士)・・奄美の砂糖の専売制。
・大名・島津斉彬(なりあきら)・・反射炉(大砲工場)を築造
西郷隆盛、大久保利通

★長州藩
長門・周防の2国(山口)
・藩士・村田清風(せいふう)
「越荷方(こしにかた)」の役所を設置(委託販売)
→借金返済するなど経済力が付いた。→倒幕へ
高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)

<諸藩の改革(肥前・土佐)>

★肥前藩(佐賀藩ともいう)
肥前の1国(長崎・佐賀)
大名・鍋島直正(なべしまなおまさ)・・反射炉を築造。(幕府・薩摩より先)

★土佐藩
土佐の1国(高知)
大名・山内豊信(やまのうちとよしげ)(容堂)ようどう
坂本龍馬→脱藩

 

日本史【30】三大改革1(近世ー8)

2607
日本史【30】三大改革1(近世ー8)
①享保の改革→田沼時代
②寛政の改革→大御所時代
③天保の改革

<徳川吉宗⑧>1716年~1745年
紀伊藩主→将軍へ
★「享保の改革」
・1719年 「相対済し令(あいたいすましれい)」
武士の借金が増えていた。幕府は金銭貸借関係の訴訟(金公事・かねくじ)を受け付けない。裁判の迅速化が目的。

・1720年 「町火消し(まちびけし)」設置
いろは47組(それまでは幕府の定火消(じょうびけし)のみ)。町人たちの消防隊。

・1721年 「目安箱」設置
庶民の意見を直接将軍が聞き入れる。記名式。
→「小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)」(薬・病院)設置

・1722年(~1730年)「上米(あげまい)の制」
大名1万石につき100石(1%)の米を幕府へ出させる。
代わりに大名の参勤交代の在江戸期間を半年に軽減。
→財政回復した。

・1723年 「足高(たしだか)の制」
人材登用に際し、「在職期間のみ」石高の不足分を「加増」する。→辞職後戻す。
支出抑制と、家各(かかく)にこだわらない人材登用が可能になる。

・1730年 「株仲間」公認
「専売同業者組合」を「幕府が公認」した。
(株仲間自体は前からあった。)
→その代わり運上・冥加などの税金徴収。

・1742年 「公事方御定書(くじがたおさだめがき)」 制定
裁判の基本となる刑罰法。(罪と罰)
下巻を「御定書百箇条」といい、以後の裁判の基準となる。

<徳川家治⑩>1767年~1786年
★「田沼時代」
側用人→老中:田沼意次
・1767年 田沼意次、側用人に就任
・1772年 田沼意次、老中に就任

(商業政策)農民から商人へシフト
・幕府の専売制度(独占販売)の拡張
ex. 銅座・朝鮮人参座
(今までは金座、銀座、鉄座などが幕府専売)

・株仲間奨励(享保時は「公認」→「積極的公認」へ)

・「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)」
(秤量貨幣→計数銀貨へ)発行(1772年)
大黒常是(だいこくじょうぜ)・銀座
1両=16朱
南鐐二朱銀が8つで小判1両と交換できる。

(貿易拡大)
・長崎貿易の制限(「海舶互市新例」新井白石)を緩和

・銀の代わりに銅・俵物(中国向け海産物)で支払う。
(いりこ・ふかひれ・ほしあわび)

・1782年~ 印旛沼(いんばぬま)・手賀沼(てがぬま)(下総)の開拓→失敗(洪水などが起きた)

・1782年~87年 天明の大飢饉

・1783年 浅間山(あさまやま)噴火
(上野(群馬)と信濃(長野)の境)

・1784年 田沼意知(意次の子)暗殺
(賄賂政治に対する不満)→田沼意次も失脚

・1787年 天明の打ちこわし

(蝦夷地開発)
・1783年 工藤平助(仙台藩医)が『赤蝦夷風説考』(北海道はロシアのものになってしまう)を献上
→蝦夷地開発を計画
↓↓
・1785年 最上徳内(もがみとくない)(出羽)が蝦夷地探検

<徳川家斉⑪>1787年~1837年(いえなり・遊び人)
松平定信「寛政の改革」1787年~1793年(6年)

・1787年 陸奥・白河藩主・松平定信が老中就任

・1789年 「棄捐令(きえんれい)」
旗本・御家人の札差からの借金を帳消し。

1789年 「囲米(かこいまい)」の制
大名1万石につき50石の米を蓄えさせる。(0.5%)
義倉(ぎそう)倉庫:富裕者
社倉(しゃそう):一般

・1790年 「人足寄場(にんそくよせば)」 設置(無宿人対策①)
無宿人などに職業指導。石川島(江戸隅田川)に置かれた。

・1790年 「旧里帰農令(きゅうりきのうれい)」(無宿人対策②)
都市に流入した農民の帰村を「奨励」(旅費などを支給。→まだ優しい方)。

・1791年 「七分積金(しちぶつみきん)」
江戸町費(町入用・まちにゅうよう)を節約させ、節約分の7割を積み立てさせ、災害への備えとする。「七分金積立」ともいう。

林子平「海国兵談」(ロシア南下の警告)を記した直後に・・
↓↓
・1792年 ラックスマン来航
ロシア皇帝エカテリーナ2世の命を受け、根室に来航し、通商を要求。幕府は信牌(長崎入港証)を渡し、帰国させる。
漂流してロシアにいた大黒屋光大夫(だいこくやこうだゆう)(伊勢の商人)を伴う。

☆庶民の不満
「白河の清きに魚も住みかねて、元の濁りの田沼恋しき」
「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶというて夜も寝られず」

1793年 松平定信、失脚

<諸藩の改革(寛政期)>
・熊本藩・細川重賢(しげかた)
・米沢藩(山形)・上杉治憲(はるのり)(上杉鷹山(ようざん))
・秋田藩・佐竹義和

<農民の抵抗(百姓一揆)>
・百姓一揆
農民が領主(幕府や藩)などを襲う。

☆百姓一揆の3つの種類
17C 代表越訴型一揆 (だいひょうおっそがたいっき)
代表者が領主に直訴。
ex.下総・佐倉惣五郎
(越訴は死罪。命がけで訴えた)
↓↓
18C 惣百姓一揆
農民が団結して蜂起
↓↓
19C 世直し一揆
政治的変革を求める。
・甲斐郡内(かいぐんない)一揆
・三河加茂(みかわかも)一揆

<農民の抵抗(その他)>

・村方騒動(むらかたそうどう)
貧農が豪農(村役人)を襲う。(農民同士)村方は農村のこと。

・打ちこわし
金融業者・商人などを襲う。

・国訴(こくそ)
合法的訴え。国や群の規模、大人数で訴える。

☆傘連判状
一揆の首謀者が分からないように円形に署名。

 

日本史【29】文治政治(近世ー7)

260712
日本史【29】文治政治(近世ー7)

<武断(ぶだん)政治>(武力で威圧)
家康①・秀忠②・家光③
武断政治。50年間。(1603~1650頃)
武力で威圧→牢人・かぶき者(荒くれ者)の増加。社会不安。
牢人:主君、大名を失った武士。仕事がなくなる。

・1651年 「慶安の変(けいあんのへん)」(慶安事件)
由井正雪(ゆいしょうせつ)(駿河の学者)による幕府への反乱未遂事件。(将軍代替わりを狙われた。)
→「文治政治」に変わるきっかけになった。

<徳川家綱④>1651~1680年
(補佐)
前半:保科正之(ほしなまさゆき)(家光③の弟)
後半:大老・酒井忠清(ただきよ)

1651年 「末期養子の禁(まつごようしのきん)緩和」
(前提)大名(殿)が後継ぎを決めないまま亡くなると、領地取り上げだった。

死の直前に養子を取ることも禁止されていたが、これを緩和した。→50歳以下は末期養子(死の直前に養子を取る)を認めた。

★文治(ぶんち)政治(儒教的・徳治政治)のあらわれ

1657年 明暦の大火(振袖火事)
江戸の半分を焼く→財政難

1669年 シャクシャインの乱

1673年 分地制限令

<諸藩の文治政治>
「名藩主のもとに名学者あり!」
(藩主)______(学者)
・会津藩・保科正之・・山崎闇斎(やまざきあんさい)(儒学・垂加神道)
・岡山藩・池田光政・・熊沢蕃山(くまざわばんざん)(陽明学)
・水戸藩・水戸光圀・・朱舜水(しゅ・しゅんすい)(明)
・加賀藩・前田綱紀(つなのり)・・木下順庵(きのしたじゅんあん)(新井白石の師匠)

<徳川綱吉⑤>1680~1709年
館林(たてばやし)藩主
補佐:大老・堀田正俊(ほったまさとし)
側用人→老中・柳沢吉保(やなぎさわよしやす)

★儒教重視政策
①「武家諸法度・天和令(てんなれい)」1683年
(元和げんな→寛永→天和)
「文武忠孝を励(れい)し、礼儀を正すべき事」

②「湯島聖堂(ゆしませいどう)」創建(孔子をまつるお堂)

③併設して「聖堂学問所(せいどうがくもんじょ)」 設立
大学頭(だいがくのかみ)に林信篤(鳳岡・ほうこう)を任命(林羅山(「武家諸法度(寛永令)」起草)の孫)
「幕府御用達の塾」となっていく。

・1685年~ 生類憐みの令
極端な動物愛護令。
(母・桂昌院の影響)犬公方

・1695年 「元禄金銀(げんろくきんぎん)」鋳造
小判を作り直した。
<勘定吟味役:荻原重秀(おぎわらしげひで)>
貨幣の質を「慶長金銀(金84%含)」より落とし、出目(差額)で幕府の財政は一時回復。「元禄金銀(56%)」。
→インフレ(物価高・貨幣価値下がる)で経済混乱。

<徳川家宣⑥>1709年~1713年
<徳川家継⑦>1713年~1716年
補佐:新井白石(侍講)「正徳(しょうとく)の治」

1710年 閑院宮家(かんいんのみやけ)創設
幕府が費用を出して、朝廷に新しい宮家を創設。

1711年 朝鮮使節(通信使)の待遇を簡素化
費用を削減する一方、朝鮮から徳川将軍への呼称を「日本国大君(にほんこくたいくん)」(朝鮮ではトップ以外も使う)から「日本国王」(トップのみの称号)へ変更させる。

1714年 「正徳金銀」鋳造(←品位を慶長小判に戻す)

1715年 「海舶互市新例(かいはくごししんれい)」(長崎新令・正徳新令)
長崎貿易を制限し、金銀の海外流出を防止
(銀は輸出品だったが、銀が取れなくなってきたから貿易を減らす)
・中国(清)・・船30隻まで、銀6000貫だけ渡していい
・オランダ・・船2隻まで、銀3000貫だけ渡していい