日本史【29】文治政治(近世ー7) – 歴史note

日本史【29】文治政治(近世ー7)

260712
日本史【29】文治政治(近世ー7)

<武断(ぶだん)政治>(武力で威圧)
家康①・秀忠②・家光③
武断政治。50年間。(1603~1650頃)
武力で威圧→牢人・かぶき者(荒くれ者)の増加。社会不安。
牢人:主君、大名を失った武士。仕事がなくなる。

・1651年 「慶安の変(けいあんのへん)」(慶安事件)
由井正雪(ゆいしょうせつ)(駿河の学者)による幕府への反乱未遂事件。(将軍代替わりを狙われた。)
→「文治政治」に変わるきっかけになった。

<徳川家綱④>1651~1680年
(補佐)
前半:保科正之(ほしなまさゆき)(家光③の弟)
後半:大老・酒井忠清(ただきよ)

1651年 「末期養子の禁(まつごようしのきん)緩和」
(前提)大名(殿)が後継ぎを決めないまま亡くなると、領地取り上げだった。

死の直前に養子を取ることも禁止されていたが、これを緩和した。→50歳以下は末期養子(死の直前に養子を取る)を認めた。

★文治(ぶんち)政治(儒教的・徳治政治)のあらわれ

1657年 明暦の大火(振袖火事)
江戸の半分を焼く→財政難

1669年 シャクシャインの乱

1673年 分地制限令

<諸藩の文治政治>
「名藩主のもとに名学者あり!」
(藩主)______(学者)
・会津藩・保科正之・・山崎闇斎(やまざきあんさい)(儒学・垂加神道)
・岡山藩・池田光政・・熊沢蕃山(くまざわばんざん)(陽明学)
・水戸藩・水戸光圀・・朱舜水(しゅ・しゅんすい)(明)
・加賀藩・前田綱紀(つなのり)・・木下順庵(きのしたじゅんあん)(新井白石の師匠)

<徳川綱吉⑤>1680~1709年
館林(たてばやし)藩主
補佐:大老・堀田正俊(ほったまさとし)
側用人→老中・柳沢吉保(やなぎさわよしやす)

★儒教重視政策
①「武家諸法度・天和令(てんなれい)」1683年
(元和げんな→寛永→天和)
「文武忠孝を励(れい)し、礼儀を正すべき事」

②「湯島聖堂(ゆしませいどう)」創建(孔子をまつるお堂)

③併設して「聖堂学問所(せいどうがくもんじょ)」 設立
大学頭(だいがくのかみ)に林信篤(鳳岡・ほうこう)を任命(林羅山(「武家諸法度(寛永令)」起草)の孫)
「幕府御用達の塾」となっていく。

・1685年~ 生類憐みの令
極端な動物愛護令。
(母・桂昌院の影響)犬公方

・1695年 「元禄金銀(げんろくきんぎん)」鋳造
小判を作り直した。
<勘定吟味役:荻原重秀(おぎわらしげひで)>
貨幣の質を「慶長金銀(金84%含)」より落とし、出目(差額)で幕府の財政は一時回復。「元禄金銀(56%)」。
→インフレ(物価高・貨幣価値下がる)で経済混乱。

<徳川家宣⑥>1709年~1713年
<徳川家継⑦>1713年~1716年
補佐:新井白石(侍講)「正徳(しょうとく)の治」

1710年 閑院宮家(かんいんのみやけ)創設
幕府が費用を出して、朝廷に新しい宮家を創設。

1711年 朝鮮使節(通信使)の待遇を簡素化
費用を削減する一方、朝鮮から徳川将軍への呼称を「日本国大君(にほんこくたいくん)」(朝鮮ではトップ以外も使う)から「日本国王」(トップのみの称号)へ変更させる。

1714年 「正徳金銀」鋳造(←品位を慶長小判に戻す)

1715年 「海舶互市新例(かいはくごししんれい)」(長崎新令・正徳新令)
長崎貿易を制限し、金銀の海外流出を防止
(銀は輸出品だったが、銀が取れなくなってきたから貿易を減らす)
・中国(清)・・船30隻まで、銀6000貫だけ渡していい
・オランダ・・船2隻まで、銀3000貫だけ渡していい