徳川家康 – ページ 2 – 歴史note

官職名・呼び名

徳川家康 大納言

内大臣 正二位(内府)

征夷大将軍

ーーーーーーーーーーーーーーーー
織田 上総守 信長

右大臣(右府)

総見公(そうけんこう)

ーーーーーーーーーーーーーーーー
羽柴 筑前守 秀吉

関白
太政大臣

太閤殿下(たいこうでんか)
※太閤は摂政、関白を子に譲った人のこと

ーーーーーーーーーーーーーーーー

明智 日向守 光秀

ーーーーーーーーーーーーーーーー

今川 治部太夫(じぶたゆう/じぶたいふ)義元

 

徳川家康ヒストリーその1

徳川家康ヒストリー1(ここ)

徳川家康ヒストリー2

徳川家康ヒストリー3

 

徳川家康ヒストリー1

1542年(天文11年) 1才

12月26日、三河国(愛知の東半分)、岡崎城にて誕生。

父・岡崎城主の松平弘忠、母・於大(おだい)の長男。幼名は竹千代。

 

1544年(天文13年) 3才
母於大と父松平広忠が離縁する。

母於大の兄、水野信元が尾張(愛知の西半分)の織田信秀と同盟を組んだため。

 

1547年(天文16年)6才
父・弘忠は戸田康光の娘と再婚。

織田信秀が攻めてきたので今川義元に援軍を頼む。
息子の竹千代(家康)を人質を出すように言われる。

戸田康光が今川家ではなく、織田家に連れて行ってしまう。

織田信長に出会う。

 

1549年(天文18年)8才
今川家の人質となる。

今川義元の軍師、名僧、太原雪斎(たいげんせっさい)の案で、家康は織田家から連れ戻される。

織田信弘(信長の兄)が今川家にとらえられ、家康と人質交換になる。

竹千代は臨済寺(禅宗)で雪斎に学ぶ。

 

1555年(弘治元年) 14才
駿府で元服。
松平元信と名を改める。

岡崎城に戻ると松平家再興に向けてじい(鳥居忠吉)をはじめ家臣たちが金、米、武具などを準備してくれていた。

 

1557年(弘治3年)16才
今川家の家臣、関口義弘の娘、瀬名(築山殿)と結婚。

瀬名は今川義元の妹の娘なので、義元の姪にあたる。

松平元康と改名。

 

1560年(永禄3年)19才

「桶狭間の戦い」
三河武士を引き連れて大高城を守る。

今川義元が討たれたため、三河の岡崎城に戻る。

 

 

徳川家康ヒストリー1

徳川家康ヒストリー2

徳川家康ヒストリー3

徳川家康 年表(1542-1616)

 

 

「武家諸法度」など(1615)

■ 「武家諸法度(ぶけしょはっと)」(13か条)(1615年)

大名が守るべき決まり。大名の行動を取りしまり、反乱を起こさないようにした。

・大名同士が勝手に結婚してはならない

・勝手に城を作ってはいけない。

・謀反人をかくまってはいけない。

・隣の国に変なことがあれば知らせる。

など。

 

■ 「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」

朝廷・公家が守るべき決まり。天皇は学問を優先することや、衣服、官位などについても定めた。

天皇や公家に政治上の力を持たせないため。

 

 

■ 「諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)」

僧の生活の決まり。

 

 

 

江戸幕府のしくみ

◆江戸幕府

将軍
□□□・大老(たいろう)(臨時職)
□□□・老中(ろうじゅう)
□□□□□□・大目付(おおめつけ)・・大名の監視
□□□□□□勘定奉行(かんじょうぶぎょう)・・幕府の財政
□□□□□□町奉行(まちぶぎょう)・・江戸の行政
□□□□□□遠国奉行(おんごくぶぎょう)・・長崎・日光の取締

□□□若年寄(わかどしより)
□□□□□□目付(めつけ)・・旗本・御家人の監視(幕府内部)

□□□寺社奉行(じしゃぶぎょう)・・寺社の取り締まり

□□□京都所司代(きょうとしょしだい)・・朝廷と西国大名の監視

□□□大阪城代(おおさかじょうだい)・・大阪の役人の統率

 

関ヶ原の戦い(1600)

関ヶ原の戦い
1600年(慶長5年)9月15日

 東軍 徳川家康 74,000 〇  東軍の勝利
□ 西軍 石田三成 84,000 ✖

 ■ 東軍
徳川家康 30,000
福島正則 6,000
黒田長政 5,400
細川忠興 5,000
池田輝政 4,500
井伊直政 3,600
加藤嘉明 3,000
松平忠吉 3,000
京極高知 3,000
田中吉政 3,000
藤堂高虎 2,500
山内一豊 2,000
本田忠勝 500

 

 □ 西軍
石田三成 6,000
宇喜多秀家 17,000
※小早川秀秋 15,600
毛利秀元 15,000
小西行長 4,000
吉川広家 3,000
安国寺恵瓊 1,800
島左近 1,000
島津義弘 750
島津豊久 750
大谷吉継 600

※小早川秀秋は西軍だったが裏切って東軍についた。

関ヶ原合戦図(井伊家伝来資料)彦根博物館

 

 

五大老・五奉行メンバー(1598)

1598年 豊臣秀吉は豊臣家の政治を安定させるため「五大老・五奉行」を定めた。

■ 五大老(ごたいろう)
五奉行の後見人となり政治全体を取り仕切る。

徳川家康(とくがわ・いえやす)
・上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)
・宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)
・毛利輝元(もうり・てるもと)
・前田利家(まえだ・としいえ)

 

■ 五奉行(ごぶぎょう)
実際の政治を行う。

石田三成(いしだ・みつなり)治部(じぶ)
・前田玄以(まえだ・げんい)
・浅野長政(あさの・ながまさ)肥前・名護屋の惣奉行。
・増田長盛(ました・ながもり)土佐に派遣(スペイン・サンフェリペ号事件)
・長束正家(なつか・まさいえ)
(・小早川隆景(こばやかわたかかげ)亡くなる。)

徳川家康の子供たち

父 徳川家康

■ 長男(嫡男):松平信康(まつだいらのぶやす)
信長の娘、徳姫と結婚。のちに謀反を疑われ自害。
母:築山殿

■ 次男:結城秀康(ゆうきひでやす)
於義丸(おぎまる)⇒羽柴秀康(はしばひでやす)⇒結城秀康(ゆうきひでやす)⇒松平秀康(まつだいらひでやす)

秀吉の養子に出される。のちに結城家の養子となる。松平家に戻る。
母:お万(築山殿の女中)

■ 三男:徳川秀忠(とくがわひでただ)
幼名:長松丸(ちょうまつまる)。

羽柴秀吉から秀の一字をもらう。

徳川家二代目将軍。信長の姪、江姫と結婚。

生母:於愛の方(おあいのかた)・西郷局(さいごうのつぼね)

義母:朝日御前

 

長女 亀姫(かめひめ)

母 築山御前

 

次女 督姫(すけひめ)

小田原氏直に嫁いだ。