「軍師官兵衛」Disc4-第16回「上月城の守り」メモ
秀吉軍は書写山へ本陣を移す。
円教寺。
毛利軍。三道併進(さんどうへいしん)。
総勢5万。
上月城。尼子軍700。
荒木村重が秀吉軍に合流。
安土城で能。
上杉謙信亡くなる。
信長は官職を辞する。
右大臣、右近衛大将(うこんえのだいしょう)
朝廷を庇護しているのは自分だ。
1578年 天正6年 5月
上月城。織田と毛利のにらみ合い。1月半。兵糧も尽きていた。援軍は来ない。
歴史、学びメモ
「軍師官兵衛」Disc4-第16回「上月城の守り」メモ
秀吉軍は書写山へ本陣を移す。
円教寺。
毛利軍。三道併進(さんどうへいしん)。
総勢5万。
上月城。尼子軍700。
荒木村重が秀吉軍に合流。
安土城で能。
上杉謙信亡くなる。
信長は官職を辞する。
右大臣、右近衛大将(うこんえのだいしょう)
朝廷を庇護しているのは自分だ。
1578年 天正6年 5月
上月城。織田と毛利のにらみ合い。1月半。兵糧も尽きていた。援軍は来ない。
「軍師官兵衛」Disc4-第15回「播磨分断」メモ
毛利との決戦に信長本人に来てもらう。
具足始(ぐそくはじめ)
虎之介、市松とともに。
本願寺との和睦はならず。
加古川城での評定で別所と櫛橋が毛利側に付くと割れる。
「軍師官兵衛」Disc4-第14回「引き裂かれる姉妹」メモ
天正5年 1577年 11月
福原城 織田と毛利が激突。1日で織田が勝つ。
播磨の中で毛利に味方するのは上月城のみとなった。
上月城
身内同士の戦い。力(りき)とてる。
官兵衛が調略にいくが上月影貞(義兄)は毛利側のまま。
官兵衛の家臣団も仲間割れ。太兵衛と右衛門が喧嘩。
山陰の麒麟児、山中鹿介(やまなかしかのすけ)、尼子勝久(あまご かつひさ)
はやる官兵衛軍を助ける。半兵衛が根回ししてくれていた。
尼子家は毛利家に滅ぼされ再興をめざしていた。
「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った。
今日は身内が相手で焦りが出た。。と反省する官兵衛。
鹿介「自らのしくじりをつぶさに顧みるはなかなかできぬこと。。官兵衛殿はいずれとてつもない戦上手になられるでしょう。生き残っておれば・・の話ですが。ははは。」
家臣が謀反。上月影貞は討たれる。上月城は落城。
(宇喜田直家が後ろで糸をひいていた)
秀吉は上月城を尼子家に任せた。
播磨平定。
しかし上月城の家臣は信長によってみな討たれた。。←謀反して降伏したため。
信長は乙御前(おとごぜ)の茶釜を秀吉に。
「軍師官兵衛」Disc4-第13回「小寺はまだか」メモ
秀吉の援軍が播磨に来る。
姫路城を明け渡す。義兄弟の書状。
粉骨砕身(ふんこつさいしん)・・(骨を粉にし身を砕いて)力の限りを尽くすこと。
秀吉のところに挨拶に来る。
神吉城主。神吉頼定 (かんきよりさだ)
三木城の別所長治と御着城の小寺は来ない。
秀吉的には別所重宗(しげむね)と官兵衛をつなぎとめるのが肝要。
重宗の娘と官兵衛の嫡男松寿丸を縁組みさせる。
長浜城で、おねの元で松寿丸、福島正則、加藤清正も一緒に育つ。
摂津。本願寺との闘い。荒木村重、高山右近、中川清秀が苦戦。
秀吉の方から小寺に会いにいく。プレッシャーかける。
天正5年 1577年 11月
秀吉8千の軍勢は西播磨へ。
福原城。
囲師必闕(いしひっけつ)。孫子の兵法。
三方を囲んで一方だけ逃げ道を作る。
大儀。天下統一。乱世を終わらせて天下泰平に。。
軍師官兵衛 ここに誕生。。
「軍師官兵衛」Disc3-第12回「人質松寿丸」メモ
天正5年 1577年8月
2年越し。播磨に秀吉の援軍がくる。
武家社会に茶の湯が流行していた。名物と呼ばれる茶道具は一国一城に匹敵するほどの価値がある。富と権力の象徴。
天正5年 1577年8月
松永久秀謀反
平蜘蛛(ひらぐも)
大和の国主。信貴山城(しぎさんじょう)
播磨から人質を取る。
9月9日
邪気を払い長寿を願う。
重陽(ちょうよう)の節句。
岐阜城 城主は嫡男・織田信忠に。
織田の当主。
松寿丸が自ら人質を申し出る。
「軍師官兵衛」Disc3-第11回「命がけの宴」メモ
1574年7月
木津川の合戦
毛利軍の勝利。織田の負け。
秀吉の援軍が来ない。
義昭の仲立ちで上杉、武田、北条が和睦。
丹波の波多野。
備前の宇喜田直家を調略する。
上月城。上月影貞。
宇喜田直家「お主の目は澄んでおるな。そのような目の男を何人か知っておる。皆早死にしたがな。ハハハ。」
常に損得で考える。人は信じない。
お道と善助が夫婦に
摂津
善助「いつでもワシらが殿を支えてみせます」
官兵衛「頼むぞ」
キリシタン大名 高槻城主・高山右近と出会う
有岡城
荒木村重に頼むが援軍もむり。
「軍師官兵衛」Disc3-第10回「毛利襲来」メモ
将軍義昭
備後 鞆の浦
石山本願寺とも手を組む
顕如
信長包囲網
1576年 天正4年
姫路に毛利軍が襲来
英賀の浜(あがのはま)
毛利 五千 VS 姫路 千
1576年
信長VS本願寺
信長が太ももを討たれる
英賀御道(あがみどう)に毛利本陣
毛利に一向宗の門徒宗も付いた。
毛利軍大将 浦宗勝
旗を立てて援軍が来たように見せる。
官兵衛が勝利する。
信長が官兵衛を褒める書状を出す。
信長、安土城を作り始める。
安土に移る。
秀吉とおねとの夫婦喧嘩をいさめる手紙を信長が書く。
天正4年7月
摂津 木津川河口
織田軍が毛利水軍に大敗する
本願寺へ兵糧を運ぶ毛利軍
「軍師官兵衛」Disc3-第9回「官兵衛試される」メモ
石田三成と官兵衛がバチバチ。
竹中半兵衛と初対面。これまた厳しくバチバチに試される。
お手前(おてまえ)・・同じ身分の武士に使う対称。
「播磨の三家の当主をそろって信長に拝謁させる。」という策。
三木城・別所
御着城・小寺
龍野城・赤松
織田家
越前の一向一揆は、長島よりまとまりがない。
播磨
三木城当主・別所長治(18)(べっしょながはる・織田派)学問に秀でている。叔父の賀相(よしすけ・毛利派)と重棟(しげむね・織田派)が後見役。
「人に国柄(こくへい)を貸すなかれ」(「六韜」りくとう)
=(意味)「君主は臣下に統治の力を貸してはならない」
龍野城・赤松広秀
赤松は備前の宇喜田に攻められているので、織田側につけば宇喜多領も手に入れられると説いた。
御着がごねているのは竹中半兵衛が荒木村重をつかわせてくれた。
京都 妙覚寺で、播磨三当主と信長が会う。
「兵の情は速やかなるを主とす」孫子
(意味)戦いは迅速でなくてはならない
「軍師官兵衛」第8回「秀吉という男」メモ
1575年 天正3年7月
官兵衛は岐阜城で信長に拝謁する。
織田家の双璧。
瓶割り柴田。
丹羽長秀。
滝川一益、佐久間信盛。
姫路の兵は500。
山陽道は平たん。山陰道。
秀吉。瀬田の唐橋を見ていて遅れて到着。
官兵衛は信長に刀「へし切長谷部」をもらう。
門地門閥(もんちもんばつ)・・家柄。家の格式。
勝家は北国。明智光秀は丹波。
長浜城主 秀吉
北近江・長浜城下も楽市楽座。
「命の使い道」
石田三成
無調法・不調法(ぶちょうほう)・・行き届いた態度でないこと。へた。
秀吉が官兵衛の家臣、太兵衛たちを一千石などでスカウト。
善助「黒田の家を離れることだけはできかねまする。」
九郎右衛門「たとえ百万石積まれようとも我らの忠義はびくとも致しません。離れるときは死ぬときにございます。」
ーーーーー
秀吉と官兵衛 サシ飲み 苦い
尾張・中村の生まれ。
「味方の兵を減らすことなく勝利する」という考えが重要。
「人こそ宝」「戦わずして勝つ」ということで2人の考えは一致する。
「軍師官兵衛」第7回「決断のとき」メモ
1573年
武田信玄 死去
姫路城・黒田家に毛利家の外交、安国寺・恵瓊(えけい)が来る。
官兵衛の弟 黒田兵庫助利高(くろだひょうごのすけとしたか)
毛利10か国。領国を守る。
1573年 天正元年 9月
浅井、朝倉滅亡
浅井領の北近江・小谷城を秀吉に。大名になる。⇒長浜城
木下藤吉郎⇒羽柴筑前守秀吉
丹羽長秀
柴田勝家
又兵衛(後藤又兵衛)
上月城 上月影貞は毛利に付く
織田か毛利か決断するのが当主の努め
織田家
長島 一向一揆
業が深い。因果応報。
備前・宇喜田尚家 は毛利についた。播磨の地侍は、ほぼ毛利に。
1575年 天正3年5月
長篠の戦い
織田・徳川連合軍が武田勝頼を破る。
3千丁の鉄砲。
誼を通じる (よしみをつうじる)親しいつながりをもつ。
御着での大評定。
父「官兵衛、失うことを恐れるな。お前が考えお前が決めるのだ。すべては生き残るため。」
織田は大儀を持って兵を進めているからこそ勢いは大河のごとく。。今川、浅井朝倉、武田を破った。
「国を治める者は義立てばすなわち王たり」(荀子・じゅんし)
織田は武勇・智謀(ぶゆうちぼう)ともに兼ね備えている。
摂津 有岡城(伊丹)
官兵衛は荒木村重を通じて信長と会う。