260718
日本史【33】幕末の動乱(近代ー2)
<徳川家茂⑭の時代>
大老:井伊直弼
アメリカ以外の他国とも「修好通商条約」を結ぶ。
・和親条約は4ヶ国(アオイロ)
・通商条約は5ヶ国。
米・蘭・英・仏・露(ア・オ・イ・フ・ロ)
→「安政の五カ国条約」
(すべて「違勅条約」(無許可))
・1859年 貿易開始
(輸入品)
(1)毛織物(40%)(2)綿織物(3)武器物
(輸出品)
(1)生糸(絹織物の原料)(80%)(2)茶(3)蚕卵紙
(※生糸は日本の輸出品のメインになっていく)
中心港:横浜(神奈川という町からちょっと離れた場所)
(貿易は、横浜・箱館・長崎)
中心相手国:イギリス
(アメリカは南北戦争中・1861~65)
★井伊直弼への非難
・1858年~1859年 安政の大獄(あんせいのたいごく)
井伊直弼を批判した吉田松陰(長州)や橋本左内(越前)らを処刑。→100名以上を処罰
・1860年 桜田門外の変(江戸城の外)
水戸浪士(+薩摩浪士)らが井伊直弼を暗殺。
★開国・貿易開始の影響(経済)
①在郷商人(農村の商人)が江戸を通さず、居留地(横浜)へ直送。
(居留地:外国人の住む場所。ここで貿易をする)
↓↓
・1860年 「五品江戸廻送令(ごしな えどかいそうれい)」
雑穀、水油、ろう、呉服、生糸
この五品は「必ず江戸を通すこと」という令。
→反発が起きる。
②金貨大量流出
金銀交換比率の相違。
日本金:銀=1:5
外国金:銀=1:15
金の価値が外国金の方が高い。比べて日本金は安い。
→外国に日本から金を持っていって、両替するようになる。
→日本から金が流出。金がかなり少なくなる。
・1860年 「万延小判(まんえんこばん)」鋳造
金の含有量を3分の1に減らす。
(=外国とレートを同じにした。)
↓
貨幣価値が下がる。
インフレ。物価高。庶民の生活を圧迫。
↓
攘夷(外国排斥)運動へ・・
<老中(井伊直弼→)安藤信正へ>
・1862年 和宮降嫁
孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)を、徳川家茂⑭の夫人に迎える。(公武合体政策)(京都(上方)から江戸へ下る。)
(「幕府を討て」派の人を押さえられる。)
↓↓
・1862年 坂下門外の変
老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)が尊攘派に襲われ負傷。
★幕末の思想
「尊王攘夷論」(尊攘派)
天皇中心。幕府打倒を図る(=幕府は不要)
VS
「公議政体(こうぎせいたい)論」
雄藩連合の会議による政治。(=幕府は残す)
<徳川家茂⑭>
・1862年 文久の(幕政)改革
薩摩藩・島津久光による幕政改革。
薩摩から江戸に行って幕府を立て直す。
(内容)
(1)将軍後見職(将軍のサポート):一橋慶喜
(2)政事総裁職(せいじそうさいしょく)(慶喜のサポート):松平慶永(よしなが)(親藩大名)
(3)京都守護職(京都の治安維持):松平容保(かたもり)(会津藩)
会津(東北)から江戸を通って京都へ。その途中で募集されたのが新撰組。近藤勇。土方歳三。
(※「京都所司代」の上に「京都守護職」を置いた。)
ほかに「参勤交代の数を減らす」など。
↓↓
(薩摩への復路でのできごと)
・1862年8月 生麦(なまむぎ)事件
薩摩藩士が武蔵(神奈川県)・生麦でイギリス人3人を殺傷。
↓↓
・1863年 「薩英戦争」
英〇 VS ✕薩
双方、被害を受け、講和。
→双方接近(お互い認め合う。)
(薩摩は攘夷は無理だと悟る。→外国とは手を組んで幕府を討とう。)
→後に薩長が幕府を倒すとき、英がバックアップする。
・1863年 「長州藩・外国船砲撃事件」(下関事件)
長州藩が、米・仏・蘭の船を下関で攻撃。
(5月10日。幕府の決定した攘夷の決行)
★幕府に対する挙兵
・1863年 ①生野の変(但馬)
・1864年 ②天狗党の乱(常陸)
・1864年 「池田屋事件」
幕府の警備隊「新撰(選)組」(近藤勇ら)が、尊攘派(長州中心)を襲う。
↓↓
・1864年 「禁門の変」(蛤御門(はまぐりごもん)の変)
長州藩が報復に京都(幕府)に攻め込む。
→京都の幕府軍(諸藩(薩摩・桑名・会津))が長州藩を討つ。
↓↓
・1864年 「第一次長州征伐(征討)」
(長州が弱っている今がチャンス)
幕府による長州攻撃→長州降伏
・1864年 「四国艦隊 下関砲撃事件」
「下関事件」(外国船に大砲を撃った)の報復に、英・米・仏・蘭が長州藩を攻撃。→下関を占領
(長州も攘夷は無理だと悟る。→外国とは手を組んで幕府を討とう。)
↓↓
・1866年 「薩長同盟(連合)」
仲が悪かった両藩が連合し、相互援助・武力倒幕を約す。(下級藩士が台頭)
・薩摩:西郷隆盛
・長州:桂小五郎(後の木戸孝允)
・仲介:土佐・坂本龍(竜)馬(商人)(海援隊(会社の始まり))
龍馬→薩摩が長崎でトーマス・グラバー(英)から武器を買う。その仲介、交渉をするなど。
↓↓
・1866年 「第二次長州征討」
→薩摩は参加せず(長州と同盟を組んでるから。)
→幕府が苦戦。
<徳川慶喜⑮>
・1866年 孝明天皇死去
薩長は天皇による「幕府討伐命令」を出してほしい。
(孝明天皇は出さなかった。)→明治天皇へ
・1867年10月14日 ①「討幕の密勅」
公家・岩倉具視の尽力。
「錦の御旗」新政府軍が正義の軍隊を掲げられる。
↓↓(同じ日)
・1867年 ②「大政奉還」(たいせいほうかん)
(江戸時代終わり。1603~1867年)
慶喜が朝廷に提出し、将軍職を返上。
幕府の方から、幕府、将軍をやめる。権力を天皇に返す。
→「討幕の密勅」が意味をなさないものになる。
(幕府を攻めさせないため。薩長との全面戦争を避けるため。)
<江戸幕府の滅亡>
☆1867年12月9日 「王政復古の大号令」
・摂関・幕府の廃止
・「三職」を設置
①総裁(そうさい):有栖川宮 熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王(皇族)
②議定(ぎじょう):公家、藩主
③参与(さんよ):下級武士 下級貴族
※ここに徳川慶喜が入ってない
=江戸幕府は絶対的な権力。対等、平等にはならない。
↓↓
(同じ日)
☆1867年12月9日 「小御所会議(こごしょかいぎ)」
・徳川慶喜の「辞官」(将軍だけでなく内大臣も辞退させる)
・「納地」を決定(領地を返上)
(=薩長は煽っている。そうすれば徳川軍を反乱軍として討てるので。)
↓↓
慶喜は挑発に乗らず、受け入れる。
↓↓
しかし「幕臣」が暴発。「戊辰戦争」へ・・。
(直参たちのプライドが許さない。)
☆世直し一揆・打ちこわしの頻発
「ええじゃないか」の乱舞(1867年)
世の中が退廃的なムードに・・。