歴史note – ページ 12 – 歴史の学びメモ

日本史【17】建武の新政と南北朝動乱(中世ー6)

260623
日本史【17】建武の新政(中世ー6)

<建武の新政>
1333年 建武の新政
後醍醐天皇(大覚寺統)による、「延喜・天暦の治」(醍醐帝・村上帝)を理想とする親政。(後醍醐の次は後村上天皇)

・「綸旨」(りんじ)(天皇の命令・簡易的)が絶対的効力を持つ
・3年足らずで崩壊。
(理由)
①貴族に厚く、武士に薄い恩賞(武士の不満)
②社会の混乱。「二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)」

<建武の新政の政治機構>
(中央)京都
・「記録所(きろくじょ)」・・政務全般
(後三条帝の「記録荘園券契所」をなぞらえて復活させた。)
・「雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)」・・訴訟・裁判
・恩賞方(おんしょうがた)・・恩賞
・武者所(むしゃどころ)・・武士の統率。頭人:新田義貞

(地方)
・鎌倉将軍府
・陸奥将軍府
・国司(貴族)
・守護(武士)
1つの国に「国司」と「守護」を併置するのは、トラブルの元に・・。→うまくいかない。

<南北朝の動乱>・・1336年~1392年まで(56年間)

1335年 中先代の乱
北条時行(執権14代・北条高時の子)が信濃で挙兵、鎌倉を奪回する。
→足利尊氏が京都から鎌倉へ向かい、鎮圧。
→乱後、尊氏は天皇に反旗を翻し、京都に攻め入る。

1336年 湊川の戦い
足利尊氏〇 VS ✕楠木正成
入京。

1336年 足利尊氏が、光明天皇(北2)(持明院統)を擁立。(北朝)

1336年 「建武式目」を制定(基本政策。17条)not 法律

1336年 後醍醐天皇が皇居を吉野(大和・奈良)に移す。
三種の神器を持っていく。(南朝)
→南北朝が並立。(天皇が2人)

 

<室町将軍・初代・足利尊氏>
(南北朝の動乱)
1338年 足利尊氏 征夷大将軍となる。室町幕府の初代将軍。
1339年 南朝・後醍醐天皇が病死→後村上天皇が即位。

1350年 観応の擾乱:北朝内部の争い
軍事権 足利尊氏(兄)・高師直
VS
政治 足利直義(ただよし)(弟)

1352年 尊氏が直義を毒殺→観応の擾乱終了

1352年 「半済令(はんぜいれい)」
「守護」に「荘園領主」の年貢の半分を与える。
(尊氏の求心力が下がっていたので、守護に権利を与えた。)
→守護が収入を手にする。
ーーーーーーーーーーー
荘園領主 200
守護 0
↑
地頭 200
↑
荘園 400
ーーーーーーーーーーー
⇩⇩
(半済令)
荘園領主 100
守護 100(パワーアップ)
↑
地頭 200
↑
荘園 400
ーーーーーーーーーーー

1354年 北畠親房(きたばたけちかふさ)、没。
『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』
南朝の正当性を主張。

1358年 足利尊氏亡くなる。
→将軍は2代足利義詮(よしあきら)へ。

 

2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』(24)「軍師官兵衛!」(2026/6/21放送)

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『豊臣兄弟!』(24)「軍師官兵衛!」(2026/6/21放送)メモ

【あらすじ】村重(トータス松本)に幽閉されて1年、官兵衛(倉 悠貴)は心身共に限界を迎えていた。籠城を続ける村重と織田軍の戦は膠着(こうちゃく)状態にあったが、小一郎(仲野太賀)が兵糧の補給路を断つことに成功。妻・だし(山谷花純)の説得で、村重はついに投降を決意する。信長(小栗 旬)への取り次ぎを任された小一郎は、だしに官兵衛への伝言を託す。無駄な血を流さず戦が終わると思われたやさき、驚きの事態が! 状況は一変し――。(ーNHK公式サイトより)


天正6年(1578年)10月
・秀吉が三木城攻め(別所長治の居城)
兵糧攻め。
福島正則ら、初陣。

・有岡城攻め(荒木村重の居城)
織田信忠(信長の長男)
池田恒興
滝川一益
織田信澄

村重逃亡。家臣、一族は始末される。

・三木城軍略。
力攻めしろという信忠に対して、官兵衛は「別所は播磨で慕われている。力攻めで落としてもそのあと国衆が付いてこない。」と説得。

天正8年1月
三木城城主・別所長治が切腹。家臣は助かる。

ーーーーーーーーーーーーー

「豊臣兄弟!紀行」(24)

・姫路城(兵庫県姫路市)
黒田官兵衛尉義孝(くろだかんべえのじょう よしたか)。西播磨を治めていた小寺の重臣として仕えていた。(御着城)。

官兵衛は姫路城を秀吉に献上する。秀吉は三重天守の巨大な城に作り変えた。

・福岡城跡(福岡県福岡市)
官兵衛は息子の黒田長政と共に、福岡の町の礎を築いていく。

 

日本史【16】鎌倉時代の社会経済(中世ー5)

260622
日本史【16】鎌倉時代の社会経済(中世5)

鎌倉時代の人々の生活
<惣領制>
惣領:一族の長
庶子:それ以外の人
一門:一族全体

武家の中心
惣領
|  |
庶子 庶子

「惣領」が幕府と主従関係を結び、地頭に任命され「御家人」となる。

・相続の方法
分割相続(鎌倉時代)→単独相続(鎌倉末期)になった。
跡継ぎにだけ。所領の細分化になってしまうため。

<武士(御家人・地元のリーダー)の生活>
・館(やかた):武士の居館。所領の中心地。武家造。
武士の館『一遍上人絵伝』に残る。

・武芸
☆騎射三物(きしゃみつもの)(馬と弓)
・流鏑馬(やぶさめ)(連射)
・笠懸(かさがけ)
・犬追物(いぬおうもの)先は丸いかぶら矢

☆兵の道(つわもののみち):武士の守るべき道徳

<地頭の荘園侵略>
・地頭(元・荘官)の仕事・・荘民(農民)から税金を取り、荘園領主に渡す

荘園領主
↑↑(渡す)
地頭(集める)
↑↑(税金納める)
荘民

①「荘民」への侵略・・税金の取り過ぎ
紀伊国 阿氐河荘(きいのくに あてがわのしょう)

②「荘園領主」への侵略・・税金を渡さない
「承久の乱」以降、武士が貴族の言うことを聞かなくなってきた。
↓↓
(解決法・妥協案)
・「地頭請」(じとううけ)
荘園領主が地頭に、荘園の支配権(税金何%など)を譲る代わりに、年貢を納めることを約束させる。

・「下地中分」(したじちゅうぶん)
「荘園領主」と「地頭」で土地を半分ずつ支配する。
「伯耆国東郷荘(ほうきのくに・とうごうのしょう)」(鳥取)

・「悪党」(あくとう)
「鎌倉幕府」や「荘園領主」に抵抗した地頭や、非御家人などの「新興武士層」のこと。
例・楠木正成など

<鎌倉時代の農業>
・二毛作(1年の間に別のモノを作る。米と麦など。)
(cf.二期作→1年の間に同じ物を2度作る)
裏作:麦。畿内・西日本で広がる。

・鉄製農具、牛馬耕の普及。

・副業の発達
荏胡麻(えごま)(灯油の原料)などを栽培。→家の中に灯がともるようになった。

・肥料の発達
刈敷(かりしき)・・草を刈って敷く→肥料に。
草木灰(そうもくかい)・・草木を燃やして灰にする→肥料に。

<鎌倉時代の経済>
・宋銭の流通→経済が発達

・三斎市(さんさいいち)・・定期市
備前国 福岡市 定期市(岡山県)『一遍上人絵伝』

・見世棚(みせだな)・・常設店舗
(「店」の語源。)

・借上(かしあげ)・・高利貸し
・問丸(といまる)・・運送業者
・為替(かわせ/かわし)・・遠隔地間の手形決済制度。お金の代わりの紙。

日本史【15】鎌倉時代(中世ー4)

260620
日本史【15】鎌倉幕府(中世4)

<承久の乱の結果>
1221年 承久の乱
後鳥羽上皇✕ VS 〇鎌倉幕府(2代執権・北条義時)
(朝廷・貴族✕ VS 〇武士)

☆3上皇の配流
・後鳥羽上皇→隠岐(島根)
・土御門上皇→土佐(高知)
・順徳上皇 →佐渡(新潟)

・譲位 仲恭天皇→後堀河天皇へ譲位させられる 。

・京都守護→「六波羅探題」設置。(六波羅は平清盛が政治していた所。ここで北条氏が政治をする。)
初代・北条泰時・時房→西国支配権も確立。(政治・裁判)

・「新補地頭(しんぽじとう」)・・乱後、新たに任命した地頭(幕府の御家人)のこと。
(補任(ぶにん)=任命すること)
→得分は「新補率法(しんぽりっぽう)」による。(反別五升の加徴米・特別権利)。(そうすると集まりやすいから。)
_

<3代執権・北条泰時>
2代執権・義時が亡くなり、子の義時が、京都・六波羅探題から鎌倉幕府に戻ってきて、3代執権になる。

1225年 「連署(れんしょ)」(=執権補佐・署名を連ねる)を設置→初代・北条時房(泰時の叔父)

1225年 「評定衆(ひょうじょうしゅう)」設置
合議制機関(政務・裁判)
13人(執権1人+連署1人+評定衆11人)

1226年 摂家将軍(藤原将軍)擁立
→初代・九条頼経(くじょうよりつね)(=関白・藤原道家の子・藤原頼経・幼名「三寅(みとら)」北条政子が後見人に。)

☆藤原氏の分裂→五摂家
近衛(筆頭格)、一条、二条、九条、鷹司

<貞永式目(じょうえいしきもく)>
1232年(貞永元年) 「貞永式目(御成敗式目・ごせいばいしきもく)」制定。
(式目・・法律の条文。「法式条目(ほうしきじょうもく)」の略。)
・最初の武家法。
・平易で文字の読めない武士も理解した。対象は武士のみ。(幕府と御家人のルール)
朝廷→公家法(=律令)。荘園→本所法。(本所は荘園領主のこと)

※鎌倉時代は武士と農民がきちんと分かれていない。普段農民をしていて戦になると戦う。こういう人は貞永式目の対象に含まれていない。あくまで「御家人」のためのルール。

・51ヶ条。「守護・地頭の職務」、「所領問題」が中心。
(法律・条文は17条がいいと言われた。十七条憲法などから。その3倍)

・「道理」・・武家社会の慣習。
(現代の「道理」とは意味が違うので注意。)
・「先例」・・頼朝以来の政治・裁判。
(土地を20年支配したらその御家人のもの。→今の民法にもつながる。)

・追加法は「式目追加」という。

<5代執権・北条時頼>(3代泰時の孫)
1247年 宝治合戦(ほうじかっせん):三浦泰村滅亡(他氏排斥⑤最後)

1249年 「引付衆(ひきつけしゅう)」を設置。
「裁判事務」を行ない、「評定衆」を補佐。

1252年 「皇族将軍」(親王将軍)を擁立。
(摂家(藤原)将軍よりレベルアップ。)
宗尊(むねたか)親王・後嵯峨天皇の子。

(出家後→最明寺入道時頼)
(徒然草184段。時頼の母・松下禅尼。母の兄・安達義景。)

 

<鎌倉幕府将軍 9人>
・源氏将軍(3人)・・①源頼朝②源頼家③源実朝
・摂家(藤原)将軍(2人)・・④九条頼経⑤九条頼嗣
・皇族(親王)将軍(4人)・・⑥宗尊親王⑦惟康親王⑧久明親王⑨守邦親王

1253年 建長寺(けんちょうじ)創建。(鎌倉五山第一位)
(開山・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう))

 

<執権8代・北条時宗>

★元寇(蒙古襲来)
・チンギス=ハン(カーン)がモンゴル統一。
・孫のフビライ(クビライ)=ハンが元を建国。日本へ服属要求→時宗は何度も拒否。

・1274年 文永の役
元軍は暴風雨で撤退。

・異国警固番役(いこくけいごばんやく)を強化(1275年)。
沿岸に石塁(せきるい)(石築地(いしついじ))を設置。

・1281年 弘安の役
元軍は暴風雨で撤退。(もしくは統制が取れていなかった。南宋は服属したばかり(→1276年)で、元にやらされているので。)

・元軍のてつはう(火薬)攻撃と集団戦法に苦戦。
・恩賞不十分→御家人困窮・・。

・『蒙古襲来絵巻(もうこしゅうらいえまき)』御家人・竹崎季長(たけさきすえなが)
(絵を描かせた。自分が描かれている。)

 

<執権9代・北条貞時>
鎌倉時代後期
1293年 「鎮西探題」を設置。
九州の支配権を強化。

1285年 霜月騒動(しもつきそうどう)
→「得宗専制体制」が確立。合議ではなく得宗の独裁になっていく・・。

〇平頼綱(内管領・うちかんれい)
VS
✕安達泰盛(有力御家人)

・得宗・・北条氏の嫡流
・御内人(みうちびと)・・得宗の家臣
・内管領・・御内人の最有力者

・将軍=御家人・・力弱まる
・得宗=御内人(トップは内管領)・・力強まる

1293年 平禅門(ぜんもん)(頼綱)の乱
平頼綱が北条貞時に滅ぼされる。

<永仁の徳政令>
1297年 永仁の徳政令
目的:元寇で窮乏した御家人の救済

・売却や質入れされた「土地を御家人に返還」する。
(御家人が借金のかたに取られた土地を無償で返還してもらえる。借金の帳消しのようなもの)

・金貸しは土地を取られて困るが、幕府にとって御家人の方が重要だから(戦ってくれるから)この法令が出された。

(例外)(金貸しにではなく)御家人に売却した土地で、しかも売却後20年以上経った場合は返還不要。

 

<執権14代・北条高時>
(朝廷)
皇統の分裂
後嵯峨法王の死後、皇位をめぐり対立。

兄・後深草天皇 VS 弟・亀山天皇
持明院統       大覚寺統
(長講堂領)     (八条女院領)
↓
この争いに鎌倉幕府が仲介に入る。
1317年 文保の和談(ぶんぽうのわだん)(幕府の仲介)
①両統迭立(りょうとう てつりつ)
交互に皇位に就く
②後醍醐天皇(大覚寺統)皇位就任

執権14代・北条高時は、政治に興味なし。闘犬・田楽など。
→内管領・長崎高資(たかすけ)が実権。
鎌倉幕府はうまく機能せず、人々は不満が高まる。

・倒幕計画(by 後醍醐天皇)
1331年 元弘(げんこう)の変
(※1331年(元弘元年)『徒然草』が書かれた。)

幕府は後醍醐天皇を捕らえて、隠岐に配流。

倒幕に向けて、各地で武士が立ち上がる。

①楠木正成(くすのきまさしげ)、河内(山中の砦)で挙兵。
②後醍醐天皇、隠岐を脱出。
③足利高氏(尊氏)、六波羅探題を攻め落とす。(下野国(栃木)・足利の出身・源氏)
④新田義貞(にったよしさだ)、(上野国(群馬)出身・源氏)鎌倉を攻め落とす。
→北条高時自刃。鎌倉幕府滅亡(1333年)

 

 

日本史【14】鎌倉時代(中世ー3)

260618
日本史【14】鎌倉幕府(中世2)

<鎌倉幕府の統治機構>
鎌倉幕府・相模国(神奈川県・鎌倉市)

_将軍
(後に執権、連署(れんじょ)、評定衆、引付衆など)
__|
ーーーーー
|   |
地方 中央
_
(中央)鎌倉
・侍所(さむらいどころ)・・武士の統率、リーダー。
初代別当(長官)→和田義盛(武士)(1180)

・公文所(くもんじょ)→政所(まんどころ)・・政務一般。
初代別当(長官)→大江広元(貴族)(1184)
(※後三条天皇時・大江匡房の子孫)

・問注所(もんちゅうしょ)・・訴訟・裁判所
初代執事(長官)→三善康信(貴族)(1184)
(※醍醐天皇時・三善清行の子孫)

(地方)
・京都守護(京都)(1185)→後の六波羅探題(1221)
・鎮西奉行(九州)(1185)→後の鎮西探題(1293)
・奥州総奉行(陸奥)

☆守護(1185年)
・国ごとに設置。
・職務は最初「大犯三カ条(たいぼんさんかじょう)」のみ。(大番(おおばん)催促、謀反人逮捕、殺害人逮捕)

☆地頭(1185年)=御家人
・公領(郡・郷・保)や、荘園ごとに設置。(国にたくさんいる。)
・職務は税徴収、土地管理、治安維持。
(荘園の荘官、公領の郡司だった人が地頭に任命される。)
・地頭たちの中から守護(リーダー)が一人選ばれる。

<封建制度>
主人と従者が土地を通じて「御恩」と「奉公」の関係で結ばれている制度。

_[将軍]
↓御恩↓ ↑奉公↑
_[御家人]

鎌倉幕府は全国の御家人(将軍の家来・武士)を束ねる政府。
(「御家人」とは家人(けにん・家来)を丁寧に言っている)

<御恩と奉公>
☆「御恩」・・御家人を地頭に任命すること(税収を認める。領有権を保障する。)
・本領安堵(ほんりょうあんど)領有権を承認。
・新恩給与(しんおんきゅうよ)新たに与える。

※平安時代までは朝廷貴族が政治をしていたが、鎌倉幕府(武家政権)に変わってどうなるか不安。支配者が変わっても土地を承認してほしい。この「承認」のことを「御恩」という。

☆「奉公」・・軍役や警備
戦時:軍役「いざ鎌倉」
平時:御家人役(ごけにんやく)
①京都大番役(朝廷警護)
②鎌倉番役(幕府警護)

最初は非御家人も多くいたが、御家人(鎌倉幕府の家来)が増えていく。

<鎌倉時代の政治>
初期:「将軍」独裁(初代・源頼朝のみ)
中期:「執権」政治(北条氏)
後期:「得宗」専制(北条氏の嫡流・本家)

<源頼朝>
・1192年 源頼朝・征夷大将軍に就任
・1199年 頼朝・没

<初代執権・北条時政>
北条時政(頼朝を監視していた)
|
北条政子=源頼朝

☆北条時政が他氏排斥(ライバル潰し)を行なう。
・1200年 梶原景時の乱【他氏排斥①】
・1203年 比企能員の乱(頼家の義父)【他氏排斥②】
・1205年 畠山重忠の乱【他氏排斥③】

☆時政は将軍までも排斥
・1203年 3代将軍・源実朝が就任。
→2代頼家を伊豆・修善寺(しゅぜんじ)に幽閉。
・1204年 源頼家を討つ。@修善寺

☆北条時政、政所(元・公文所)別当に就任。
別当が二人体制に。
・貴族出身 大江広元
・武士出身 北条時政

<2代執権・北条義時>
・北条義時も他氏排斥をする。
1213年 和田合戦:和田義盛(侍所の初代別当)を破る。【他氏排斥④】
→北条義時が「侍所」と「政所」の別当を兼務。
→この兼務する人を「執権」と呼ぶようになる。
→「執権」の地位を確立。

1219年 3代将軍・源実朝が甥の公曉(くぎょう)に暗殺される。鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)@鎌倉(義時の陰謀?)

この時点では、鎌倉幕府は東国支配のみ。

<承久の乱>
(乱の前)
「公武二元支配」
後鳥羽上皇(西国支配)ー北条義時(東国支配)
貴族・朝廷 VS 武士

1221年 承久の乱
後鳥羽上皇✕ VS 〇北条義時
・朝廷・後鳥羽上皇が義時追討の院宣を出す。
・朝廷を攻めるのは御家人の士気が低い→北条政子(尼将軍)が檄を飛ばす「今こそ将軍・幕府に恩を返すとき」→御家人奮起

・北条泰時(義時の子)と北条時房(義時の弟)が京都を攻め、幕府軍の圧勝。
↓↓
以降、幕府の支配地域が西日本にまで広がる(九州は別)。

武士の時代へ・・!となるターニングポイント。