・松平信綱(のぶつな)
1637 島原の乱を鎮圧。川越藩の藩主となった老中。
・松平定信(さだのぶ)
寛政の改革。天明7年(1787)-寛政5年(1793)。吉宗の孫。
・松平慶永(よしなが)/春嶽(しゅんがく)
越前藩主。徳川(一橋)慶喜を推した一橋派の中心人物(1857頃)
1862年、文久の改革で「政事総裁職(せいじそうさいしょく)」になる。
・松平容保(かたもり)
会津藩主。新撰組。
1862年、文久の改革で「京都守護職」になる。
(「燃えよ剣」)
歴史、学びメモ
・松平信綱(のぶつな)
1637 島原の乱を鎮圧。川越藩の藩主となった老中。
・松平定信(さだのぶ)
寛政の改革。天明7年(1787)-寛政5年(1793)。吉宗の孫。
・松平慶永(よしなが)/春嶽(しゅんがく)
越前藩主。徳川(一橋)慶喜を推した一橋派の中心人物(1857頃)
1862年、文久の改革で「政事総裁職(せいじそうさいしょく)」になる。
・松平容保(かたもり)
会津藩主。新撰組。
1862年、文久の改革で「京都守護職」になる。
(「燃えよ剣」)
「平清盛」大河2012/総集編3
平清盛 1118年-1181年(享年64才)(松山ケンイチ)
1160年
武士として初めて政に参加できる公卿になった。
宋との交易を本格化。福原に港を作る。
宋銭。
源頼朝。伊豆・蛭ケ小島(ひるがこじま)八重姫。子ができるが八重姫の父は平家のため始末されてしまう。
清盛は財力を元に出世していく。
嫡男・平重盛も参議に。平一門を次々と公卿に推挙。三男宗盛、義弟時盛。
清盛の妻・時子の妹、滋子が後白河上皇の妃となる。
王家との関係が深まる。⇒子が生まれ、のちの高倉帝となる。
東宮大夫(とうぐうだいぶ)となる。東宮の長官。
内大臣へ昇進。
治天の君(ちてんのきみ)。天皇または上皇。
ついに太政大臣にまでなる。しかし100日で辞職。出家。
福原に移る。
清盛の弟、頼盛らとともに。
大和田泊(おおわだのとまり)。
海外との拠点にする。
大和田を博多のようにして、宋や高麗、天竺と交易し富を得る。その富で国を富ませる。それを朝廷ではなく平家一門でやるつもり。
「武士が頂に立つ姿」
清盛入道(きよもりにゅうどう)
清盛は時忠に命じて、赤い装束を着た「禿(かむろ)」を京にはなつ。
平家にさからったものは罰する。
時忠「平家にあらずんば人にあらず」
福原に朝廷も移す。
福原・大和田泊完成。
遷都。
1171
高倉帝の妃に清盛の娘・得子(とくこ)を入内(じゅだい)させる。
朝廷は皇族に武士の血が入ることを反発。
厳島の社で祈願。
中宮となった得子が武家と王家の結びつきを強める。
滋子が急死。後白河天皇と清盛の蜜月が終わる。。
1177 鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)
「平家を討つ」相談。
藤原成親(なりちか)、僧俊寛を流罪。僧西光は斬首。
言仁(ときひと)(のちの安徳帝)の誕生。
後白河法皇を討つことを重盛が体を張って反対する。
「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」
重盛が病に倒れて亡くなる。⇒後白河が重盛の所領を没収。
⇒「治承三年の政変」怒った清盛は法住寺殿へ兵を差し向ける。後白河を鳥羽の離宮へ移す。。
ついに清盛が国の頂点に立つ。
1180 安徳帝の即位。
都へ福原へ。遷都(せんと)。
公卿の不満がたまる。
「暗闇ばかり。。手に入れても光に届かぬ。。」
源頼朝・挙兵。。!
源平合戦の始まり。。
駿河・富士川の戦い。
清盛の孫:平維盛(これもり)
平氏は鳥の音を敵襲と間違い逃げ出す。
諸国の寺社も謀反。
還都(かんと)。
清盛は10年あまり過ごした福原の都を後にした。。
最後に後白河法皇と清盛が双六をする。。
平安の世はおわります。武士同志が戦わされてきた。今後は武士同志が派を争う世となります。。
後白河法皇「もうさようなところまでたどりついておったのか・・」
病床に倒れる清盛。頼朝の前に現れる清盛。。
「まことの武士とはいかなるものか見せてみよ・・」
1185 3/24 壇ノ浦の戦い
二位尼(にいのあま)(清盛妻・時子)
「海の底にも都はござりましょう・・」
平家滅亡。
源頼朝「平清盛なくして武士の世はなかった。。」
「平清盛」大河2012/総集編2保元・平治の乱
平清盛 1118年-1181年(享年64才)(松山ケンイチ)
1153
近衛帝は病に。
次の帝は崇徳上皇の皇子か。
鳥羽法皇は謝ろうとしたが、信西が阻止。
後白河天皇が美濃にいる。
1155
後白河帝の誕生。信西がコントロールするため。
1156 保元の乱
鳥羽法皇崩御。
崇徳院は政から遠ざけられた。鳥羽法皇、後白河天皇側を恨む。
崇徳院と左大臣・藤原頼長が手を組む。
〇 ×
(鳥羽法皇)
後白河帝 崇徳上皇
信西
藤原 藤原頼長
平清盛(おい) 平忠正(おじ)
源義朝(息子) 源為義(父)
清盛の弟:平頼盛
清盛の母(忠盛の妻):池禅尼。(忠正から見ると姉)
平氏を絶やさないため、忠正(叔父)は崇徳側についた。
清盛は、忠盛がなれなかった公卿(くぎょう)になり、政に関わり世を変えるのが目標。
白河の北殿(崇徳)を倒すため、後白河側は夜討ちをかける。
後白河側の勝利。
だが・・信西が申し付ける。
平清盛(おい)が平忠正(おじ)と、その子ら4人を斬首。
源義朝(息子)が源為義(父)を斬首。
息子・義朝が殿上人になったことを喜ぶ父・為義。。
為義「殿上人になったそうじゃな。」
義朝「はい。」
為義「もう20数年も前か。平氏の棟梁、忠盛が殿上人となったとき、わしは悔しくてならなんだ。だが今お前がこうしてわしの望みを叶えてくれた。まこと孝行なせがれじゃ。」
義朝「・・・」
為義「義朝、我が首をはねよ。源氏の棟梁の証のその太刀で。」
清盛は播磨守(はりまのかみ)に昇進。
義朝は左馬権頭(さまのかみ)止まり。
院の近臣
藤原信頼(のぶより)(つかっちゃん)
藤原成親(なりちか)
後白河天皇の遊び。今様(いまよう)の宴。
遊びをせんとや生まれけん・・
時子の妹、滋子。
保元の乱ののち、信西入道が朝廷の実権を握る。清盛と手を組む。
源義朝(よしとも)は低い官位のまま出世せず。妻・由良が亡くなる。
信西への反発
藤原惟方(これかた)
藤原経宗(つねむね)
諸国よりうすく広く税を集める。民の暮らしは上向きに。
信西の国造りに清盛はかけた。
清盛は自分が先に高みに登って、義朝を待つつもりだった。
だが不満を持った義朝と貴族が反乱。
信西を討てば、官位、領地も思いのままとそそのかされる。
1159 平治の乱
源義朝、謀反。
信西の館を襲撃。
藤原信頼(のぶより)(塚地)
藤原成親(なりちか)
藤原惟方(これかた)
藤原経宗(つねむね)
藤原信頼(のぶより)(塚地)が、三条殿(さんじょうでん)にいた後白河上皇、二条帝を幽閉。
義朝・謀反に驚く清盛(京から離れていた)。
嫡男平重盛(しげもり)は賢明であり、信西の源氏にへの冷遇を考えれば分かる話だと冷静に分析。
源氏の家臣。源頼政(よりまさ)
信西は自害。。
清盛は後白河上皇と二条帝の奪還に成功。
源氏と平氏の棟梁同志、源義朝と平清盛が戦うことになる。
賀茂川で一騎打ち。
「わが身は滅びても源氏の魂は断じて滅びぬ」
清盛は謀反に関わった貴族を処罰する。
貴族が武士に処断されるのは前代未聞。
義朝は落ち延びる途中、身内の裏切りにあい果てる。
頼朝を助けるように母・池善尼(いけのぜんに)から願われる。
友である義朝の刀、髭切(ひげきり)を頼朝に渡す。自分は下りないと宣言。
伊豆に流罪。
友・義朝の妻、常盤御前は清盛のもとへ。
清盛はついに武士で初めて公卿になった。
(朝廷に仕える三位(さんみ)以上の人。)
「平清盛」大河2012/総集編1
平清盛 1118年-1181年(享年64才)(松山ケンイチ)
父・平忠盛(ただもり)(中井貴一)
(白河上皇が本当の父親?の設定。)
幼名:平太(へいた)
平忠盛の弟:平忠正
武士は王家(朝廷)に仕えていた。盗賊の追討など。
「王家の犬」と呼ばれ、さげすまれている時代。
石清水八幡宮での舞い
父:源為義(ためよし)(小日向文世)⇒源氏の棟梁
嫡男:源義朝(よしとも)(玉木宏)
(八幡太郎 源義家の曽孫)
源氏は平氏に後れをとっていた。
1132年
平忠盛 殿上人(内裏への昇殿を許される)となる。
上流貴族の仲間入り。
鳥羽上皇から信頼を得たため。
摂関家の長:藤原忠実(ただざね)(國村隼)は反対。
源為義(小日向)が平忠盛(中井)を討とうとする。
源為義の父、源義親(よしちか)は、平忠盛の父、平正盛に討たれたから。
そこから源氏が落ちていった。
その敵討ちをしようとするが失敗。
清盛は義朝や佐藤義清(のりきよ)(のちの西行)らと切磋琢磨。
佐藤義清「いかなる世でも美しく生きるのが志」
清盛は「おもしろく生きたい」という。
1135年
西海を荒らす海賊追討令。清盛の初陣。追討使(ついとうし)
唐船(からふね)。宋。
高階通憲(みちのり)。のちの信西(しんぜい)。
海賊を仲間にする。海外(宋)に目が向いている。
最初の妻:明子(→疫病で亡くなる。)
嫡男(長男):平重盛(しげもり)
清盛の弟:平家盛、平頼盛。
まだ武士に参議(さんぎ)が許されない。
平時忠(ときただ)(森田剛)の、姉・時子が清盛の後添え(後妻)になる。
(平時忠。公家出身。桓武平氏・高棟流(堂上平氏)、平時信の子。
「平家にあらずんば人にあらず」を言った人。)
源氏。
源義朝と由良姫との子が源頼朝。
鳥羽上皇(三上博史)
正妻・璋子(たまこ)は白河院(祖父)と通じていた。
その間にできた子供が崇徳帝。鳥羽上皇の第1皇子。
側室・得子(なりこ)は鳥羽上皇との子を産む。国母(こくぼ)の座を狙うか。
鳥羽上皇の第4皇子。
雅仁・まさひと(のちの後白河天皇)(松田翔太)
清盛とすごろくをして子供をかけろという。
延暦寺の僧侶、山法師による「強訴(ごうそ)」
武士は追討を命じられていた。
清盛は神輿(しんよ)(みこし)を討つ。
藤原頼長(よりなが)(山本耕史)が追放しようとする。信西はかばう。
清盛は父になぜ自分を拾ったのか、平氏に災いをもたらすと思わなかったのかと問う。
清盛の母は陰陽師の世迷言などものともせず守り抜いた。たった一人で巨大な白河院に立ち向かった。
だから清盛が迷信に立ち向かう日を待っていた。これからに必要な人物だと父忠盛はかばった。
しかし弟・家盛が急死。
忠盛の正妻・宗子らが清盛のせいだと責める。。
曼荼羅の製作。一門を背負って立つ覚悟。
「武士の世」を作るため。武士が頂きに立つ。
上杉家
・上杉重房(しげふさ)
明月院・上杉重房像。(資P109)
上杉(藤原)重房は、鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王について京都から来た。丹後国の上杉荘(うえすぎのしょう)を賜ることで上杉姓に。
孫の清子が足利尊氏、直義を生む。以降、上杉家は関東管領を担うことになる。
・上杉氏憲(うじのり)・・1416「上杉禅秀の乱」で、鎌倉公方4代足利持氏と対立。
・上杉憲忠(のりただ)・・1454「享徳の乱」で5代鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)に誅殺される。
上杉憲実(のりざね)・・足利学校を再建。1438「永享の乱」で6代室町将軍・足利義教側につき、4代鎌倉公方、足利持氏を倒す。
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〇
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上杉顕貞(あきさだ)・・下剋上で虎パパにやられる
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〇
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上杉憲政(のりまさ)・・関東管領と家督を上杉謙信(長尾景虎)に譲る。
(「雪花の虎」で雪の中、虎ちゃんのとこに来た人)
・上杉治憲(はるのり)鷹山(ようざん)
名君の代表。
1776。出羽・米沢藩主。興譲館(こうじょうかん)を再興。
養蚕(ようさん)で織物を専売化。
後北条(ごほうじょう)、小田原北条
北条早雲(伊勢宗瑞・いせそうずい)
北条氏綱
北条氏康
北条氏政
北条氏直
つなやす まさなお
・細川頼之(よりゆき)・・14C。3代足利義満を補佐。四国を領有。管領。
・細川勝元(かつもと)・・15C。応仁の乱、東軍の大将。足利義視(よしみ)側。
・細川幽玄
仏像
・如来(にょらい)
・菩薩(ぼさつ)
・明王(みょうおう)
・天部(てんぶ)
・羅漢・高僧(らかん・こうそう)
■ 如来(にょらい)
・釈迦如来(しゃかにょらい)
・阿弥陀如来(あみだにょらい)
・薬師如来(やくしにょらい)
・毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)
・大日如来(だいにちにょらい)
■ 菩薩(ぼさつ)
・弥勒菩薩(みろくぼさつ)
・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
・観音菩薩(かんのんぼさつ)
・文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
・普賢菩薩(ふげんぼさつ)
・日光・月光菩薩(にっこう・がっこうぼさつ)
■ 明王(みょうおう)
・不動明王(ふどうみょうおう)
・愛染明王(あいぜんみょうおう)
・孔雀明王(くじゃくみょうおう)
■ 天部(てんぶ)
・梵天(ぼんてん)
・帝釈天(たいしゃくてん)
・四天王(してんのう)
・金剛力士(こんごうりきし)
・十二神将(じゅうにし(じ)んしょう)
・八部衆(はちぶしゅう)
・吉祥天(きちじょうてん)
・弁財天(べんざいてん)
■ 羅漢・高僧(らかん・こうそう)
・鑑真像(がんじんぞう)
・重源像(ちょうげんぞう)
・無著(むじゃくぞう)
マンガ『雪花の虎』 6巻 メモ
関東管領 上杉憲政(のりまさ)が新年雪の中、長尾景虎(上杉謙信)を訪ねてくる。
長尾家は元々関東で山内(やまのうち)上杉家の家臣として支えてきた。
しかし景虎の父・為景(ためかげ)の代で、長尾と上杉は対立。
為景が下剋上で上杉顕貞(あきさだ)を討った。
訪ねてきた上杉憲政は、その上杉顕貞(あきさだ)の孫。
山内上杉家は、代々「関東管領職」を引き継いできた名家(めいか)だったが、最近では弱体化し、北条氏康(うじやす)に攻められていた。
そこで上杉憲政は景虎に「関東管領職を譲るので、北条氏康を討ってほしい」と願い入れる。
上杉憲実(のりざね)・・足利学校を再建。
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上杉顕貞(あきさだ)・・下剋上で虎パパにやられる
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上杉憲政(のりまさ)・・雪の中、虎ちゃんのとこに来た人
「青天を衝け」2021年(令和3年)大河ドラマ
総集編 DISC2 第四部 メモ
渋沢栄一
1840(天保11)~ 1931(昭和6)享年89才
慶喜は駿府(静岡)で暮らしていた。
お目通り:目上の人に会う。
右大臣 岩倉具視 暗殺未遂事件。
喰違の変(くいちがいのへん)明治7年(1874年)
不平士族
江藤新平 佐賀の乱
大隈重信
大久保利通。不平士族の不満をそらすために台湾出兵を主張。
(ドラマにはないが木戸孝允(きど・たかよし)は反対して政府をやめた)
台湾への船を三菱に頼む。
三菱商会(創業者)
岩崎弥太郎。(土佐)
栄一は大蔵省(官)をやめて国立銀行の頭取(民)になる。
三井銀行開業。
金中心の世に憂う。金は卑しの武士の世が終わり、誰もが金を崇拝し始めた。開けてはならぬ扉を開けたのではないか・・。
栄一は「東京商法会議所」を作る。他業種のつながり。
栄一は合本でみんなで大きくなるべしと主張。国利民福(こくりみんぷく)(国の利益と人民の幸福)。
これに対して岩崎は儲けたい強い一人が全力を尽くすから前進する。欲は悪くないと主張。
「東京養育院」
生活に困る人を守る。
米 グラント将軍(前大統領)来日。
岩倉使節団のときの大統領。
栄一の妻たちは、大隈邸で井上馨、大倉喜八郎、益田孝の夫人に教えをこう。
1881年(明治14年)
開拓使官有物払下げ事件。
黒田清隆が北海道の官営事業を、同郷の薩摩の五代友厚に不当に安く払下げたと新聞に報じられた。
五代「名誉や金より大切なのは目的だ。豊かな日本を作ることが正義だと信じている。」
【偕老同穴】かいろうどうけつ
夫婦なかよく、生きてはともに年をとり、死んではいっしょに葬られること。
栄一の長女・歌子と穂積 陳重(ほづみ のぶしげ)(法学者)が結婚。
五代。電話、馬車鉄道の事業。
【青天白日】せいてんはくじつ
心にやましい所が全くないこと。
銀行、製紙、紡績、鉄鋼、建築、食品、鉄道、鉱山、電力、造船、など多くの産業に関わった。
女性が国際化に対応できる学校、病院、養育院、教育、福祉など。
1904年(明治37年)
日露戦争
慶喜の告白。
家臣を止めることはできない状況だった。
「人は誰が何を言おうと戦争をしたくなれば必ずするのだ。欲望は道徳や倫理よりずっと強い。」
1909年(明治42年)
渡米。平和外交。移民のために。
徳川慶喜公 稿本
1921年(大正10年)
ワシントン会議
1923年(大正12年)
関東大震災
「政治経済を道徳と一致せしめて真正なる世界の平和を招来せんことを諸君と共に努めたいのであります。」渋沢栄一