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【20】主権国家体制と西欧絶対王政

【20】主権国家体制と西欧絶対王政
(1)絶対王政の特徴
(2)スペイン・オランダ
(3)イギリス・フランス
(4)フランスのルイ14世の時代
(5)第2次英仏百年戦争


(1)絶対王政の特徴
ポイント①一番大事なことは自国の損か得か
主権国家の概念を確認

主権国家体制
明確な領域(国土)を有し、確立した主権が存在する国家。主権は国内では最高権力としての性格を、対外的には独立性を持つ。

(主権国家の争いの初めての例)
→イタリア戦争(1494~1559)
仏と神聖ローマがイタリアをめぐって抗争。
仏と独の仲はとても悪くなる・・。

宗教とは無関係に国際的なつながりが持たれる。
仏(キリスト教)ーオスマン帝国(イスラーム教)
神聖ローマ帝国(カトリック)ーイギリス(プロテスタント)
=宗教・宗派が違っていても、国の損得で結びつく。

カトー=カンブレジ条約(1559)で和議

ポイント②絶対王政の構造を確認しよう
絶対王政を行うために必要なこと

絶対王政の基盤(16~18C)
官僚制・・(封建)貴族。国王の補佐。
→言うことを聞いてもらうために高い給料。→お金がかかる
常備軍・・国王の軍。→お金がかかる
王権神授説・・王の権力は神から授かった。国王権を正当化。

(経済基盤)
重商主義・・国家財政を富ませる政策
・重金主義(16C)・・海外植民地から金・銀を奪う
・貿易差額主義(17C~)・・輸出を増やし、輸入をおさえて儲ける
→工場制手工業(マニュファクチャ)
分業による協業

封建貴族が官僚として国王の政治を補佐。


(2)スペイン・オランダ
ポイント①スペインは「たまたま」絶対王政を完成できた!?
新大陸からの莫大な富だけがスペインを支えた

<スペイン>
カルロス1世(位1516~1556)(西・独)
(=神聖ローマ皇帝 カール5世 位1519~1556)

カルロス1世は父フィリップ(ハプスブルグ家)と、母フアナ(西王家)の子。(フアナはフェルナンドとイサベルとの娘。)

・カルロス1世の時から、スペイン=ハプスブルグ家が成立。

・広大な領土を支配
スペイン、ネーデルラント、オーストリア、シチリア、ナポリ、ミラノ、フィリピン、アメリカ大陸(ポトシ銀山)

スペイン絶対王政の完成

フェリペ2世(位1556~1598)(西・葡)
・ポトシ銀山からの大量の銀→絶対王政の基盤に
(たまたま転がりこんだ富)

カトリック政策を強化
– 英王メアリ1世と結婚。英をカトリックに。
– ネーデルラント植民地に旧教を強制→オランダ独立戦争を招く

レパントの海戦(1571)
〇スペイン・教皇・ヴェネツィア
VS
✕オスマン帝国

1538 ひっこみやプレヴェザ

1571 ひっこまないレパント

マニラの建設(1571)
フィリピン経営の本格化

ポルトガル併合(1580~1640)60年間
母がポルトガル王家出身。王位がとだえ、フェリペ2世がそのまま王位継承。ポルトガルの持つアジア植民地をスペイン領にした。

スペイン・・「太陽の沈まぬ国」

無敵艦隊(アルマダ=スペイン海軍)英に敗北(1588)
アメリカ大陸へ行く道がとだえる。

銀も取り尽くし、スペイン絶対王政は終了・・。
(国内の産業や経済を育てなかった。。)

 

ポイント②17世紀はオランダの世紀!?
海上交易で世界へと進出する「小国」の勇姿

<オランダ>

スペイン(フェリペ2世時)から独立したオランダ
オランダの発展
(首都:アムステルダム

アジア貿易への参入
※アジアはポルトガルが先に開拓していたが、フェリペ2世時にポルトガルはスペインに吸収された。今、船は行っていないからチャンス!

オランダ東インド会社の設立

・ジャワ島にバタヴィア(現ジャカルタ)を建設
総督府の設置。香辛料貿易の独占を狙う。

(ルート)
オランダ→アフリカ南→インド→東南アジア
そのため各地に拠点を作る

台湾を占領
日本、中国との通商の拠点

ケープ植民地建設
アフリカ最南部の植民地

アンボイナ(アンボン)事件(1623)蘭〇 VS ✕英
モルッカ諸島。オランダがイギリス商館員らを虐殺。オランダがこの頃出てきたライバルのイギリスを東南アジアから追い出す。→英はしぶしぶインドに行く。インドに行くきっかけとなった。

北米にも進出
オランダ西インド会社の設立(ヨーロッパから見て米は西)

ニューネーデルラント植民地を作る
中心地:ニューアムステルダム(現ニューヨーク)の町の建設

→交易の拠点に拠点を作りなら、アジア、アメリカへ進出。世界はオランダの船であふれていた。

 


(3)イギリス・フランス
ポイント①イギリスの絶対王政は他の国とは大違い!
伝統的な議会の存在と国王権力とのバランス

<イギリス>
英王(命令)→(中央)議会(模範議会)立法や税徴収など
英王(命令)→(地方)ジェントリ
※英王は議会やジェントリとうまく付き合う必要がある

ジェントリ郷紳・きょうしん)
貴族と平民の中間。地主。
治安判事など地方行政を担う。
ジェントリは無給(ボランティア)なので
工場経営などで生計を立てる。
↓↓
毛織物工業の発達(14C~)生産・輸出
代表的産業に

・官僚制と常備軍は未発達

 

ポイント②テューダー朝の発展
ヘンリ8世からエリザベス1世の時代

<イギリス絶対王政>
ヘンリ8世が始めて、エリザベス1世で完成。

ヘンリ8世(位1509~1547)
民衆から人気。議会も無視できない。。
・首長法(国王至上法)(1534)
星室庁裁判所の設置
身分の高い者を裁く国王直属の裁判所

第1次囲い込みエンクロージャー
牧羊地(モコモコ羊毛がほしい→毛織物→輸出して稼ぐ)
毛織物が代表産業に。ジェントリから支持。
→農民の浮浪化・極貧化

エリザベス1世(位1558~1603)
国民から人気があった。
統一法(1559)
イギリス国教会の確立(カトリック教会とは決別)

積極的な海外進出。重商主義。
ドレーク(1540~1596)
ー 私拿捕船(しだほせん)・私掠船(しりゃくせん)
(=国王公認の海賊船)
スペイン船から金や銀を奪う。

ー ドレークは世界周航を達成。
各地を探検させ新しい土地を探させた

北米ヴァージニア植民地を建設(→失敗に終わる)

・スペインの無敵艦隊(アルマダ)を撃破(1588)
英の経済力、海軍力の強さがヨーロッパに示される

イギリス東インド会社の設立(1600~1858)
専門の貿易会社を作る。

ポイント③フランスは内乱のあとに絶対王政が始まる!
ユグノー戦争の終結と国王権力の拡大

<フランス絶対王政>
内乱ユグノー戦争(1562~1598)で貴族が没落→国王権力が強くなっていく。絶対王政が始まる。

ヴァロワ朝
ブルボン朝(1589~1792)

アンリ4世(位1589~1610)
ユグノー(カルヴァン派)からカトリックへ改宗(1593)
ナントの王令(勅令)(1598)
ユグノー戦争終結

海外進出
・フランス東インド会社→経営不振
ケベックの建設(1608)・・カナダの拠点

ルイ13世(位1610~1643)9才で即位
三部会の招集停止
・名宰相リシュリュー
王権を強化
ドイツ三十年戦争で勝利。


(4)フランスのルイ14世の時代
ポイント①ルイ14世の時代は典型的な絶対王政!
優秀な部下に恵まれた前半の政治と、後半の波乱

<フランス絶対王政>
ルイ14世(位1643~1715)5才で即位。72年間!ギネス
<清の成立1644~康煕帝(位1661~1722)と同じぐらいの時期>

(宰相:マザラン)(注:世界一周はマゼラン)

フロンドの乱(1648~1653)5年
王権の伸長に対する貴族、高等法院(王の命令を審査する貴族)の反乱。←マザランにより鎮圧

1661~マザランが亡くなり、ルイ14世、自ら政治を行う。(23才)
・「朕は国家なり
(私が国だ。私の損得が国の損得だ。)

・神学者ボシュエ
王権神授説を確立。皇太子の教育係。

財務総監コルベール
典型的な重商主義政策(コルベール主義
→国家が直接経済活動に介入し、国を富ませようとした。

フランス東インド会社再建

特権マニュファクチュアの設立
(国内産業の保護。輸入をおさえて質の高い製品を輸出する)

ヴェルサイユ宮殿の完成(1682)
パリ郊外ヴェルサイユに建設。ルイ14世はここで政務を取った。権力の象徴。

ルイジアナの建設(1682)
北米ミシシッピ川流域を領有宣言。フランスの植民地とした。
「ルイ14世」の名前を取ってルイジアナに。(探検家ラ・サール)

ナントの王令(勅令)廃止(1685)
カトリック強制。→ユグノー(カルヴァン派)が国外へ。商工業者が多かったので、フランス産業が衰退。

 

ポイント②ルイ14世の対外戦争!
4回にわたる侵略戦争をみる

ルイ14世の対外侵略戦争

「自然国境説」(国境は川や山などで決めるべき)を唱える。
西のスペインとはピレネー山脈、北の英とはドーバー海峡、南のスイスとはアルプス山脈が国境だ。
→だから東はライン川まで領土を広げよう!

これら↓↓の国はライン川の内側にあるからフランスのものだと主張。(もう、むちゃくちゃ)
[1]・南ネーデルラント継承戦争
[2]・ファルツ戦争

[3]・オランダ(侵略)戦争(南ネーデルラントに味方したから報復)

そしてフランスにとって最も痛い結果に終わったのがこちら
↓↓
[4]・スペイン継承戦争(1701~1713)

スペイン=ハプスブルク家の断絶
→ルイ14世の孫フィリップの王位継承を主張。(ルイ14世の妻がスペイン王家のため)
→フィリップがフェリペ5世として即位(スペイン=ブルボン朝の創始)
↓↓
(ちょっと待ったーー!)
スペイン継承戦争
スペイン・フランス✕ VS 〇英、オランダ、オーストリア
↓↓
ユトレヒト条約(1713)

フェリペ5世の即位は承認されたが・・
「フランス・スペインの合併は永久に禁止」となる。
(同じブルボン朝が合体することができない)
領土拡大は失敗

(cf.ユトレヒト同盟(1579)はオランダ独立戦争で北部7州が結んだ同盟)

↓↓
この4つの戦争で、財政圧迫・・。
このあとは絶対王政が衰退。フランス革命へとつながる。

 


(5)第2次英仏百年戦争
ポイント①イギリスの世界進出!
インド・北米へと進出するイギリスの動き

<イギリス>
〇英のインドへの進出
(中心:東インド会社)
マドラス(インド南東)・ボンベイ(インド西南)の獲得
カルカッタ(インド北東)の獲得(ガンジス川下流)
肥沃なベンガル地方の要地

〇英の北米への進出(13植民地の形成)
アメリカ東海岸
ヴァージニア植民地
最初の北米植民地(エリザベス1世時は失敗。これは再トライでステュアート朝・ジェームズ1世時の話)

ピルグリム=ファーザーズ
清教徒ピューリタン(英のカルヴァン派)中心。
英から米に移る。宗教的自由を求めて。
↓↓
ニューイングランド植民地
米北東部。プリマスなど。

・ニューアムステルダムをオランダから奪って
ニューヨークと改名。

 

ポイント②フランスの世界進出!
インド・北米へと進出するフランスの動き

<フランス>
〇仏のインドへの進出
東インド会社再建(1664)
(↑ルイ14世時の財務総監コルベールにより)

ポンディシェリ(インド東南=マドラス(英)のすぐ南)
シャンデルナゴル(インド北東・ガンジス川流域=カルカッタ(英)のすぐ北)

〇仏の北米への進出
ケベック(カナダ)を建設(1608 アンリ4世)
ルイジアナの建設(1682 ルイ14世)
ミシシッピ川流域(北米大陸の真ん中を北から南まで、斜めに縦断)

 

ポイント③イギリスとフランスの植民地争奪戦!
北米・インドでついに衝突

・第2次英仏百年戦争(1688~1815)
インド・北米の植民地をめぐって英仏が戦う

【北米での英仏戦争】
・アン女王戦争(1702~1713)
北米の植民地争奪戦。英王の名前から。

ヨーロッパで仏ルイ14世がスペイン継承戦争(1701~1713)を起こしたときに、英はあえて仏の敵に回って、英 VS 仏の形を作った。
→結果→英〇 仏✕
↓↓
ユトレヒト条約(1713)
(「スペイン継承戦争」と「アン女王戦争」の条約)

英が領土を多く獲得。
<仏→
→アカディア、ニューファンドランド、ハドソン湾地方(現カナダ)
→英の北米進出の足がかりとなる。

<西→
ジブラルタル(スペイン南)、ミノルカ島(地中海)
→英が地中海の入口を確保

フレンチ・インディアン戦争(1755~1763)(北米)
(ヨーロッパでは七年戦争(1756~1763))
英〇 VS ✕仏
↓↓
パリ条約(1763)
さらに英は領土を広げる。
カナダ・ミシシッピ川以東ルイジアナ、(仏→英)、フロリダ(西→英)(※ミシ以西ルイジアナは仏→西)

(西) (東)
==
=  ==
西==
===
===

これで北米はほぼ英領になった。

【インドでの英仏の戦い】

・カーナティック戦争

プラッシーの戦い(1757)
英の東インド会社の書記長:クライヴの活躍
(カルカッタ(英)とシャンデルナゴル(仏)の近く)

英〇 VS ✕仏・ベンガル太守連合軍

↓↓
結果→第2次英仏百年戦争はイギリスの勝利
英はインド・北米に植民地を増やす!

 

 


 

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【19】宗教改革

【19】宗教改革
(1)ドイツ宗教改革の始まり
(2)ドイツ宗教改革の帰結
(3)スイス・イギリス宗教改革
(4)対抗宗教改革と宗教戦争
(5)フランス・ドイツの宗教戦争
独は分権化へ、英は王権強化。スイスは商人に受け入れ進む。


(1)ドイツ宗教改革の始まり
ポイント①ルターの怒り!カトリック教会の腐敗…
教会批判とルターの主張

<ドイツ宗教改革>

ドイツ(神聖ローマ帝国)
・教皇レオ10世(位1513~1521)
サン・ピエトロ大聖堂の改築
→教皇庁の財政ピンチ
贖宥状(免罪符)の販売を許可。=お金を払えば罪は許される。

当時のドイツは「ローマの牝牛(めうし)」
→(意味)当時神聖ローマ皇帝の力は強くない、管理が行き届かない。だからローマ教皇が好き勝手できた。

↓↓
免罪符にNo!

・マルティン=ルター(1483~1546)
ヴィッテンベルク大学の神学部教授。
ローマ教皇、カトリック聖職者の権威を否定。
聖書主義。
「人は信仰によってのみ義とされる」(信仰義認主義)
「九十五カ条の論題」(1517)
ヴィッテンベルク教会に貼り付けた。

教皇や宗教会議の権威を否定したルターは、教皇レオ10世により破門に。
→ルター「望むところだ・・」

ポイント②国内の諸侯を巻き込む一大変革へ
皇帝と諸侯の対立に宗教が利用される

独(神聖ローマ皇帝)カール5世(1519~1556)
(=スペイン・カルロス1世)
「カトリックの教えを否定するやつは許さん!」
=皇帝はカトリックの守り主。カトリックの批判は自分への批判になるため。

ヴォルムス帝国議会(1521)
撤回を強要。ルターは拒否。→帝国から追放

(cf.ヴォルムス協約(1122)は叙任権が教皇になった)

ザクセン選帝侯フリードリヒ(諸侯の一人)がルターを保護
カール5世と対立している。

ルターは『新約聖書』をドイツ語に訳す
↓↓
グーテンベルク(独)が発明した活版印刷で広がる

ルター派
反教皇、反皇帝派の諸侯から支持

ドイツ国内の混乱

ドイツ農民戦争(1524~1525)
農奴制・領主制・十分の一税の廃止を要求

ミュンツァーが農民軍を指導
宗教改革を農奴解放、共有社会の実現へと結びつける
↓↓
ルターは最初同情するも・・「私はザクセン選帝侯にお世話になった。だから諸侯側を支持する」
↓↓
ルターは農民には受け入れられない。諸侯には人気。


(2)ドイツ宗教改革の帰結
ポイント①ドイツを取り巻く国際情勢の変化!
皇帝はルターよりも厄介な2つの敵に出会う・・

(1つ目の敵)
イタリア戦争(1494~1559)60年間
カール5世VS仏フランソワ1世
イタリアの支配をめぐって対立。独がローマに侵入。
→イタリア・ルネサンスは衰退・・

(2つ目の敵)
・オスマン皇帝の圧迫
ハンガリー併合(1526)
スレイマン1世
仏と争っていたら背後からオスマン帝国が来た!
↓↓
ルター派を利用。ルター派を容認(1526)
国内の結束と団結。
↓↓
第1次ウィーン包囲(1529)
冬が来たのもあり、撃退成功。
↓↓
ルター派を再禁止・弾圧(1529)
ルター派は抗議文を提出・・「プロテスタント」教皇権を否定

 

ポイント②ついに皇帝が妥協した!宗教和議の締結
ドイツに及ぼした影響とは・・

シュマルカルデン同盟の結成(1530)
ルター派の諸侯・都市がカール5世に対抗するため結成。

・シュマルカルデン戦争(1546)
↓↓
皇帝が妥協・・

アウクスブルクの宗教和議(1555)
ルター派
のみ公認。(カルヴァン派は✕。→のちのウェストファリア条約1648で公認される)
諸侯に対してカトリック派 OR ルター派の選択権を認める。
(個人の信仰は認められない。)
↓↓
「領邦教会制」の確立
諸侯は、領邦内の教会への支配権を持つことになった。

皇帝の力は衰え、諸侯が強くなり、ドイツの分裂が続く・・

 


(3)スイス・イギリス宗教改革
ポイント①いまの世界があるのはカルヴァンのおかげ!?
カルヴァンの思想はヨーロッパを変えた

<スイス宗教改革>

(1)ツヴィングリ
スイス・チューリヒ
エラスムスやルターの影響を受ける。

(2)カルヴァン(1509~1564)スイス・ジュネーブ
「魂の救済は意志や善行とは無関係。すでに神によって決められているんだ。」
・『キリスト教綱要』
「予定説」・・神の意志の絶対性、人間の行為の無意味さを強調。
天職に励むこと、仕事の成功で救済を確信。→キリスト教で初めて蓄財を承認。(カトリックは儲けることを否定)→商人に受け入れられ広がる。
・長老主義・・教会の運営は牧師と信徒の代表者
・ジュネーブで神権政治(政教一致体制)を実施
↓↓
ヨーロッパ各地に広がる

カルヴァン派の呼称
・ピューリタン(イングランド)
・プレスビテリアン(スコットランド)
・ゴイセン(ネーデルラント)
・ユグノー(フランス)

 

ポイント②イギリスの宗教改革にはウラがある!?
ヘンリ8世の離婚問題は単なる口実・・

<イギリス宗教改革>

〇テューダー朝(1485〜1603)

(初代ヘンリ7世)
4人の英王
(1)ヘンリ8世(位1509~1547)2代
英は王の力を強くするための宗教改革。(ドイツは民が中心→分裂)

・王妃カザリンとの離婚問題。教皇と対立→カトリックを辞める
・国王至上法(首長法)の発布(1534)
イギリス国教会の創設(=新しいキリスト教を作った。)
「英王は国教会の唯一最高の首長」
・修道院を解散し、没収した土地を新興市民に安く売り渡す

ヘンリ8世の子3人
↓↓
(2)エドワード6世(位1547~1553)3代
・一般祈祷書の制定(1549)
国教会の教義を整備

(3)メアリ1世(位1553~1558)ブラッディメアリ・4代
・スペイン皇太子フェリペ2世(カトリック)と結婚
・カトリックの強制→新教徒(イギリス国教会)を弾圧

(4)エリザベス1世(1558~1603)5代
統一法の制定(1559)
イギリス国教会の確立。国王が宗教も統治。

↓↓
スチュアート朝・ジェームズ1世へ・・

 


(4)対抗宗教改革と宗教戦争
ポイント①カトリックは間違っていない!

<カトリックの対抗>

対抗宗教改革(反宗教改革)
(1)イエズス会(ジェズイット教団)(1534)
この2人のスペイン人↓↓が作った
・イグナティウス=ロヨラ
・フランシスコ=ザビエル
カトリックの世界伝導、ヨーロッパの再カトリック化

(2)トリエント公会議(1545~1563)
教皇至上権、カトリック教義の再確認(やっぱりカトリックは間違ってない!)
禁書目録の制定、宗教裁判、魔女狩りの流行

 

ポイント②スペインに果敢に勝負を挑んだオランダ!
宗派の違いから国家の独立戦争を起こす

<オランダ宗教戦争>

オランダ独立戦争(1568~1609)40年
スペイン王フェリペ2世
重税、カトリック信仰を強制
↓↓
ネーデルラントが反乱(1568)
北部7州(オランダ):ゴイセン(カルヴァン派)が多い
南部10州(ベルギー):カトリック教徒が多い
↓↓
・南部10州の降伏(1579)
↓↓
北部7州ユトレヒト同盟結成(1579)
ホラント州中心(オランダの語源)
指導者:オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)
↓↓
・独立宣言(1581)
ネーデルラント連邦共和国(オランダ)

・休戦条約(1609)
スペインがオランダの独立を事実上承認

 


(5)フランス・ドイツの宗教戦争
ポイント①フランスで起きた宗教戦争は根が深い!
ただの宗教的な争いではない・・

<フランス宗教戦争>

ユグノー戦争(1562~1598)30年
カトリック(多数) VS ユグノー(カルヴァン派)

国王シャルル9世、摂政・母后カトリーヌ=ド=メディシス
新旧両派の対立に有力貴族の王権をめぐる政治闘争がからむ

サンバルテミの虐殺(1572)
国王シャルル9世の妹(王妃マルゴ・カトリック)と、アンリ(新教徒ユグノー)の婚儀をパリで開催
→王母カトリーヌはパリに集まったユグノーたちを虐殺
→大内乱に・・!

国王暗殺(ヴァロワ朝アンリ3世)
→ブルボン家アンリ4世が国王に即位
ブルボン朝創始(1589)

ナントの勅令(王令)(1598)
アンリ4世がカトリックに改宗してから、新教徒(ユグノー)へ条件付きの信仰の自由を保障→旧教徒とほぼ同様の権利を付与。カトリックが国教のフランスでは画期的なできごと。
↓↓
ユグノー戦争が終結・・!(1598)

(→ナントの勅令は、後にルイ14世が廃止1685)

 

ポイント②ドイツ三十年戦争はその後のヨーロッパを変えた!
主権国家体制の確立はこの時期

<ドイツ宗教戦争>
宗教戦争から国際戦争へ・・

三十年戦争(1618~1648)
・ベーメン(ボヘミア)反乱(1618)
新教徒の多い地域に対して、神聖ローマ皇帝(ハプスブルグ家)がカトリックを強要したため

・デンマークの参戦(1625)✕(プロテスタント国家)
神聖ローマの傭兵隊隊長のヴァレンシュタインに敗北

・スウェーデンの参戦(1630)✕(プロテスタント国家)
国王グスタフ=アドルフ
ヴァレンシュタインを破るが、途中で戦死

フランスの参戦(1635)〇(カトリック国家だが・・新教支援
宰相リシュリュー「宗教なんてどうでもいいわ。独(神聖)倒す」
仏はカトリック国家だが、ハプスブルグ家打倒のため、新教徒支援で参戦。(イタリア戦争からの宿敵を倒したい。)

↓↓
プロテスタント勝利〇
ウェストファリア条約(1648)

・アウグスブルクの宗教和議の再確認
追加事項:カルヴァン派公認

・スイス・オランダの独立・・国際的に承認
・フランスへアルザスを割譲
・スウェーデンへバルト海南岸を割譲

神聖ローマ帝国の有名無実化が決定(あってないようなもの)
ドイツ国内の領邦(諸侯の領土)に、ほぼ完全な主権を承認
↓↓
これ以降ヨーロッパの国は主権国家体制が確立する。
(=宗教の違いではなく、自分の国にとって損か得かで動くようになる。)

 


 

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【18】ルネサンスと大航海時代

【18】ルネサンスと大航海時代
(1)ルネサンスの始まり(14~16C)
(2)イタリア=ルネサンス
(3)ヨーロッパに拡大するルネサンス
(4)大航海時代の幕開け(15~16C)
(5)ヨーロッパ人の「新発見」
(6)古代アメリカの謎に迫る!


(1)ルネサンスの始まり
ポイント①なぜ大昔の文献を読む必要があるの?
ルネサンスは人間らしさを求めた時代

ルネサンス(文芸復興)とは
14Cにイタリアで始まる。15C~西ヨーロッパへ。
14C(1300年代)は教会の権威がゆらいだ時代。十字軍の失敗など。

教会・神中心の価値観
↓↓
個人・個性を重んじる人間中心の価値観へ

基本精神:ヒューマニズム(人文主義)
人間の理性や尊厳を尊重・・ヒューマニスト

キリスト教世界が浸透して1000年・・人間らしく生きる方法が分からない。。その頃の本を読もう。
↓↓
・ギリシア・ローマの古典を研究
教会の価値観から離れた人間社会の赤裸々な描写

ポイント②なぜルネサンスはイタリアで始まるの?
当時のイタリアにはルネサンスがおこる条件がそろった

・イタリア=ルネサンス(14~16C)
ギリシア知識人の亡命。

オスマン帝国がビザンツ帝国(ギリシア)を圧迫(14C)
↓↓
ビザンツ帝国内のギリシア文化の知識人・学者がイタリアへ亡命

メディチ家
フィレンツェの大富豪
毛織物・金融業・東方貿易で繁栄

教皇レオ10世の保護
(メディチ家出身。ジョヴァンニ。)
↓↓
ローマ教皇に保護されているので、イタリア・ルネサンスは教会批判、金持ち批判はできなかった。限界。(西ヨーロッパでは教会批判できた。)

 


(2)イタリア=ルネサンス
ポイント①人間らしさを赤裸々に表現
イタリア・ルネサンスの文学・美術

(文学)
イタリア・ルネサンスの先駆者
ダンテ『神曲(しんきょく)(1265~1321)
トスカナ語で記述。(キリスト教は普通ラテン語)
「聖職者ローマ教皇のためではなくて、トスカナ地方の地元の人達が読みやすい本を書いたんだ。」

・ペトラルカ『叙事詩集』古代ローマ・古典ブームの火付け役
ボッカチオ『デカメロン』14Cペスト流行のフィレンツェ。喜怒哀楽、色と欲。人間らしさ。

(政治学)
マキァヴェリ『君主論』・・イタリア統一の必要性を説く。
「イタリアを統一するにはライオンの勇猛とキツネの狡知が必要。」
冷酷非道なリーダー論。(優れた君主の例としてチェーザレ・ボルジアを挙げている)

(美術)
・ジョット・・ルネサンス絵画の先駆者
ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』『春』
ミケランジェロ(1475~1564)『最後の審判』『天地創造』(天井画)システィーナ礼拝堂。ローマ教皇を選ぶときに使われる場所。現在も同じ。
『ダヴィデ像』
レオナルド=ダ=ヴィンチ(1452~1519)『最後の晩餐』『モナ=リザ』彫刻・建築も。万能の天才。
ラファエロ(1483~1520)多くの『聖母子像』マリアとイエス、『アテネの学堂』(ヴァチカン宮殿)

 

ポイント②教皇だってオシャレに暮らしたい?
ローマ教皇がおこなった文化活動の保護

建築(ルネサンス様式
サン=ピエトロ大聖堂(ヴァチカン市国)
カトリックの主聖堂。
教皇レオ10世が資金調達のために贖宥状の販売を許可。
ブラマンテ・・最初の設計者

サンタ・マリア大聖堂(フィレンツェ)
ブルネレスキ・・赤レンガのドームを設計。

 


(3)ヨーロッパに拡大するルネサンス
ポイント①ルネサンスが西ヨーロッパに拡大する
宗教改革につながる重要な思想

北方ルネサンス(ネーデルラント)=現オランダ・ベルギー・ルクセンブルク(ベネルクス3国)
エラスムス愚神礼賛(ぐしんらいさん)』
16C最大の人文主義者。
カトリック教会、聖職者、王の腐敗を批判→宗教改革につながる。ルターも影響を受けた。

・ファン・アイク兄弟:油絵の技法の改良
ブリューゲル『農民の踊り』当時の様子が分かる

北方ルネサンス(ドイツ)神聖ローマ帝国
デューラー宗教画『四人の使徒』
ホルバイン肖像画。『エラスムス像』。個人の絵、一般市民を描くのは珍しかった。『ヘンリ8世像』

北方ルネサンス(フランス)
ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』
巨人の親子を題材におかしく仏社会を風刺。
モンテーニュ『エセー』(『随想録』)

北方ルネサンス(スペイン)
セルバンテス『ドン=キホーテ』・・近代小説。時代錯誤の騎士。

北方ルネサンス(イギリス)
チョーサー『カンタベリ物語』・・社会風刺
トマス=モア『ユートピア』・・架空の理想社会。(エラスムスと友人。ヘンリ8世に処刑される)
シェイクスピア『ハムレット』『リア王』『マクベス』『オセロー』四大悲劇。

 

ポイント②ルネサンスは発明の時代
個人の能力が尊重される時代

ルネサンス三大発明(14C以降)
(ホントは「改良」。もとは中国・宋代に「発明」されている。)
火薬・・鉄砲の発明。騎士の没落。
羅針盤・・方位。コンパス。遠洋航海術を前進。
活版印刷・・活字を組み合わせて原板を作る印刷方法。グーテンベルク(独)

天文学
・天動説・・地球が中心。中世キリスト教世界で支持。(ローマ文化で出てきた。プトレマイオス。)

地動説・・太陽が中心。地球が回る。(ギリシア・ヘレニズム文化ではすでにあった。アリスタルコス)
↓↓
コペルニクス(ポーランド)・・地動説『天球回転論』。天体観測。教会を敵に回すのでずっと黙っていたが、最後に発表した。

ガリレオ・ガリレイ(イタリア)・・自作の望遠鏡で木星の衛星を観測。コペルニクスの地動説を擁護。「近代科学の父」

→宗教裁判で有罪になり撤回させられたが「それでも地球は回っている」(ラテン語で「Eppur si muove」)と言ったという逸話がある。

 


(4)大航海時代の幕開け
ポイント①なぜ海に出る?そしてなぜ海に出られる?
大航海時代の幕開けとなる要因を見る

〇大航海時代の要因

なぜ海に出たいのか
(要因1)
香辛料が欲しい!
胡椒(インド原産)・クローブ・ナツメグ
ヨーロッパでは手に入らないので、東方貿易(北イタリア商人)でヨーロッパに輸入されていた。
→しかし15C、オスマン帝国が地中海を占領し、東方貿易を阻害。香辛料が割高に・・。
→自分たちでインドへ行こう!

(要因2)
マルコ・ポーロ『世界の記述』ジパング伝説

なぜ海に出られたのか
(1)羅針盤、造船技術などの向上。ガレオン船。
(2)王権が強かった→航海にはリスクもあり資金が必要→国が負担。スポンサー。中央集権的な国、王の強い力で支援した。

ポイント②ポルトガルが目指すはインド!
インドへ向かうルートを模索

〇ポルトガルのインド航路開拓(15C)
ポルトガルが一番に乗り出した理由
・レコンキスタによって成立した国なので王権が強い
・さらにスペインより一足早くレコンキスタが終わっている。

ポルトガルの3人の航海士

「航海王子」エンリケ(15C)
船酔いで船に乗れず。支援する。
アフリカ最西端・ヴェルデ岬へ到達(1445)

バルトロメウ=ディアス
「嵐の岬」へ到達(1488)→喜望峰(アフリカ南端)

ヴァスコ=ダ=ガマ
アフリカ東岸のマリンディを経て、インド西南部(カリカット)へ到達(1498)

 

ポイント③インドのその先には何がある?

ポルトガルのアジア進出16C)
ゴアとマカオは20Cまでポルトガル領・・!

インドよりさらに東へ・・日本にまで!
・セイロン島(スリランカ)へ到達
・インド西岸ゴアを占領(1510~1961)(450年間)。「総督府」を建設。アジア貿易の拠点に。
マラッカ占領(マレー半島南部)
モルッカ諸島(マルク諸島・香料諸島)の占領。香辛料が取れる。

・ホルムズ島の制圧(1515)イスラーム商人の貿易ルートを遮断→後にオスマン帝国が奪還。

中国・マカオ中国から「居住権」を獲得。(1557~1999)
日本・種子島(鹿児島)へ来航(1543)・・鉄砲伝来
平戸(1550)(長崎)

 


(5)ヨーロッパ人の「新発見」
ポイント①コロンブスの挑戦!彼がたどり着いたのは・・

スペインはポルトガルとは別航路でアジアへ出発

コロンブス(1451~1506)(ジェノヴァ出身)
「ポルトガルと別のルートでインドを目指したい・・!」
・友人トスカネリの「地球球体説」を信奉
・スペイン女王イサベル(元カスティリャ王国)の支援。レコンキスタが終了(1492)
・サンサルバドル島へ到達(1492)ヨーロッパにとって新大陸。(現バハマ。西インド諸島と呼ばれる)

ポイント②次々と探検する航海士たち
新大陸の探検活動が活発に行われる
・カブラル(ポルトガル)・・ブラジルへ漂着
・アメリゴ・ヴェスプッチ(フィレンツェ)・・着いたのはアジアではなく「新大陸」であることを報告。
・バルボア・・パナマ地峡(中米)を横断。「南の海」(太平洋)へ到達。

世界周航(1519~1522)
マゼラン(マガリャンイス)
スペイン王カルロス1世(カール5世)の支援
↓↓
スペイン(セビリャ)→アメリカ大陸を南下。→マゼラン海峡を廻航。→太平洋を横断。
→フィリピンへ到達(1521)(マゼランはフィリピンで戦死)
→部下がインド・アフリカをまわってスペインに帰ってきた。→世界一周!

トルデシリャス条約(1494)
スペインとポルトガルの境界線を画定。ブラジルがポルトガル領となる。それ以外はスペイン領に。

ポイント③大航海時代は世界を変えた?
ヨーロッパ、アジア、アメリカの社会に大きな影響を与える

世界の一体化
商業革命
商品の産地・種類・量が地球規模に拡大。
商業中心は大西洋岸都市へと移動。(前は地中海・バルト海)
リスボン、アントウェルペンなど。

価格革命
アメリカ大陸からの大量のが流入。
ヨーロッパの銀価が下落→物価が急激に上昇。
↓↓
西ヨーロッパで商工業が発展。
固定地代としていた領主層の没落。

 


(6)古代アメリカの謎に迫る!
ポイント①古代アメリカには高度な文明が存在した?
ヨーロッパ人が訪れる前のアメリカ

先住民の暮らし
・インディオ(中南米)・インディアン(北米)
先住民
(コロンブスがインドとまちがえたから。)
現在では「ネイティブアメリカン」という

・農耕生活
トウモロコシ、ジャガイモ、トマト

・鉄がない
・牛・馬もいない
・車輪がない
重い荷物の運搬はどうやって?不明・・

メソアメリカ(中米)、アンデスアメリカ(南米)

〇メソアメリカ文明(中米文明)

オルメカ文明(B1200頃まで)
独特な巨石人頭像、神殿ピラミッド

マヤ文明(B1000~16C)
ユカタン半島
高度な文明。ピラミッド状神殿、マヤ文字、二十進法、暦の発達。

・テオティワカン文明(B1~6C)
「太陽のピラミッド」巨大な神殿。

アステカ王国(14~16C)メキシコ
(都:テノチティトラン(現メキシコシティ))
ピラミッド状神殿、象形文字の使用、太陽暦
↓↓
スペインのコルテスが滅ぼす

 

〇アンデス文明(南アメリカ文明)
インカ帝国(15~16C)ペルー
(都:クスコ。標高3400メートル。富士山級)
都市遺跡:マチュ=ピチュ
高度な石造建築、キープ(結縄・けつじょう)数字を表す
↓↓
スペインのピサロにより滅亡

 

ポイント②破壊・略奪!スペイン人の過酷な支配
アメリカ大陸の社会が大きく変わる・・

「征服者」コンキスタドール(コンキスタドレス)
スペインから来た中南米の国々(アステカ王国・インカ帝国)の征服者。

ポトシ銀山の発見(1545)→価格革命の原因
・現在のボリビア
・先住民を酷使して銀を採掘
→ヨーロッパに大量に輸出

エンコミエンダ制(16C)・・先住民をキリスト教化させることを条件に労働力として使役することを許可。→強制労働で酷使。

ラス=カサス『インディオの破壊についての簡潔な報告』
告発した(ドミニコ派修道士)

先住民の代わりに・・
↓↓
・黒人奴隷(アフリカ)の使用。労働力。

アシエンダ制(17~18C)
広大な土地で先住民や黒人奴隷を労働力に商品作物を栽培。

=プランテーション(大農園・大農場制度)
コーヒー、砂糖など

その後スペインは中南米からアジアへアクセス。。

アカプルコ貿易(ガレオン貿易)
・ガレオン船を使用。
・フィリピン・マニラの建設(1571)
中南米を経由してマニラに行き中国商人と取引をする。
(アフリカ南周りはポルトガルに抑えられてるので、スペインはそのルートしかない。)
スペイン~アカプルコ(メキシコ)~マニラ(フィリピン)

 


 

世界史タイトル一覧

トライ世界史【18】ルネサンスと大航海時代□⇒

 

 

 

【17】イスラーム世界の繁栄

イスラム前回【10】イスラーム世界


【17】イスラーム世界の繁栄
(1)イラン世界の動き
(2)オスマン帝国の領土拡大
(3)インドのムガル帝国


モンゴル帝国が崩壊した後(14C~)のイスラーム世界


(1)イラン世界の動き
ポイント①ティムールの野望!
中央アジアから台頭したティムールの遠征

ティムール朝(1370~1507)約140年
(都:サマルカンド

■ ティムール(鬼武者)(位1370~1405)
モンゴル人国家で生まれる。トルコ系。
西チャガタイ・ハン国から自立。

野望「モンゴル帝国を復活させたい!」
チャガタイ・ハン国の分裂をなげく。。

・イル・ハン国を征服
イラン・イラクを支配

・キプチャク・ハン国
領土を一部奪う

・トゥグルク朝を征服
西北インド

アンカラの戦い(1402)
オスマン皇帝・バヤジット1世を捕縛

これで「草原の道」と「シルクロード」を押さえた。
次は中国・・と遠征に向かっているところで病死。
ティムールの野望はここで終わる。

 

ポイント②ティムール死後の世界
文化の発展と遊牧民族の侵入

ティムールの死後、強大な国が出て倒すことは難しくなった。さらに遠征より文化活動が盛んに。

・ウルグ=ベク(位1447~1449)
(ティムールの孫・学者)
文学・天文・暦法・建築を保護。
細密画(ミニアチュール)・・書物の挿絵

・遊牧ウズベク(ウズベク人)の侵入
中央アジアから南下→ティムール朝滅亡(1507)

遊牧ウズベクは自分たちの国を作る。
ブハラ・ハン国
ヒヴァ・ハン国
コーカンド・ハン国
→現在のウズベキスタン(都:サマルカンド)の母体。

 

ポイント③イラン世界の繁栄
イラン世界に現在でも影響を及ぼす王朝

ティムール朝が崩れたあとのイラン世界・・

サファヴィー朝(1501~1736)
(都:タブリーズ→イスファハーン)

イラン・イラクがメイン(中央アジアはウズベク人が入ってきたので支配してない)

■ イスマーイール
(建国者)
神秘主義教団の指導者。神との一体化をめざし、分かりやすく民衆に布教。

外の領土の広がりより、国内の守り、まとまりを重視。
↓↓
シーア派の国教化(十二イマーム派(穏健派))
・王号シャーを採用(イランの伝統的王号)
↓↓
今でもイラン・イラクにはシーア派が多い。WWⅡ後、シーア派とスンナ派の対立など。

アッバース1世(全盛期)
イスファハーンへ遷都(1597)
東西交易の中継地点として繁栄。
「イスファハーンは世界の半分」
人口が増えた。

・イマームのモスク建立

ホルムズ島の奪回(1622)
ペルシャ湾の出入口をポルトガルから奪い返す。(大航海時代に奪われていたがイラン・サファヴィー朝が奪還。)

 


(2)オスマン帝国の領土拡大
ポイント①オスマン帝国の支配!
領土拡大が必然的である制度の採用

オスマン帝国(1299~1922)
・ティマール制(軍事封土制)
シパーヒー(騎士)に給料は現金ではなく土地と徴税金を与える。
→領土拡大が必要
イェニチェリ(奴隷身分兵士)・・皇帝直属の常備歩兵軍団。キリスト教徒の男子を改宗させて、高級官僚や軍人に育成。

ポイント②なぜバルカン半島に進出する?
あえて異教徒の多い地域に進出する理由は

<オスマン帝国の領土拡大>

■ オスマン1世(建国)
・アナトリア西部で自立(1299)

なぜバルカン半島へ?
→異教徒の土地の方が攻めやすい。領土拡大。
→あと、もしイスラーム教に改宗しなければ、人頭税(ジズヤ)を払ってもらえばいい。

■ ムラト1世
(都:アドリアノープル→エディルネに改名)
・コソヴォの戦い(1389)でスラブ勢力を撃破

4代・バヤジット1世(稲妻・雷帝)
・ハンガリー王を破り、ドナウ川下流域を支配
↓↓
・アンカラの戦い(1402)
バヤジット1世✕ VS 〇ティムールに敗北。没。
(西のバルカン半島を攻めていたら、後ろ(東の方)からティムールに不意打ちで攻められた。)

その後、10年は皇帝不在のピンチ。。

ポイント③もう領土を広げなくてもいい!
オスマン帝国の転換期

<商業国家への転換>

■ 7代・メフメト2世(位1444~1446、1451~1481)
ビザンツ帝国を征服(1453)
コンスタンティノープルへ遷都(→20Cにイスタンブルと改名)
東西交易の要所。→これを機に、領土拡大から商業国家へと変わる。

・クリミア半島を支配

■ セリム1世(位1512~1520)
・サファヴィー朝と抗争
マムルーク朝を征服(1517)・・メッカ・メディナを支配。スンナ派盟主の地位を確立。=南の商業ルートの獲得。


■ スレイマン1世
(位1520~1566)(全盛期)
・ハンガリー征服

第1次ウィーン包囲(1529)✕
神聖ローマ皇帝・カール5世と衝突。寒冷化で撤退。

プレヴェザ海戦(1538)◯
スペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊に勝利
地中海域での制海権を掌握。
→完全に商業国家になる。交易でお金が集まる。

・スレイマン=モスクの完成(1557)
イスタンブル

 


(3)インドのムガル帝国
ポイント①インドのイスラーム国家の繁栄
ヒンドゥー教徒の多いインドをどう統治したのか

ムガル帝国(1526~1858)
少数のイスラーム教徒が多数のヒンドゥー教徒を支配。

■ 初代・バーブル(建国者)
(父方はティムールの子孫。母方はチンギス・ハンの子孫とも)

パーニーパットの戦い(1526)
↓↓
ロディー朝を破り、デリーを占領・建国
インドの北側に建国。
「北から入ってくる人」を「モンゴル」と呼んだ。(→ムガルの由来)

■ 3代・アクバル
・マンサブダール制度(官僚制度)

人頭税(ジズヤ)の廃止
多数派のヒンドゥー教徒に配慮。
現代でもいい皇帝だと人気。

・アグラへ遷都

ポイント②ムガル帝国の混乱の時代へ
多数派のヒンドゥー教徒に対してとった失政

■ 5代 ・シャー=ジャハーン
・タージ=マハルの造営(1648)
シンメトリー。白大理石。アグラに建設。
↓↓
財政難に・・

■ 6代 ・アウラングゼーブ
人頭税(ジズヤ)の復活(1679)
・デカン高原を征服、最大領土に(17C後半)
ジズヤの適用範囲を広げるため
↓↓
ヒンドゥー教徒からの反乱へ・・

ポイント③インド=イスラーム文化の発展
インドに生まれた独特のイスラーム文化

(芸術)
細密画(ミニアチュール)(中国絵画→イラン世界)の影響
↓↓
・ムガル絵画・・宮廷芸術、肖像画や動物画
・ラージプート絵画・・ヒンドゥー教の神々

(言語)
・公用語・・ペルシア語、ヒンディー語
隣のサファヴィー朝の言葉、ペルシア語を使ってもよかった。

・ウルドゥー語・・ペルシア語やアラビア語の影響。現在のパキスタンの公用語。

(宗教)
ナーナクが創始
イスラーム神秘主義をヒンドゥー教の改革運動に導入した。
シク教の成立(16C初)

(インダス川流域・パンジャーブ地方にシク王国建国。→英・東インド会社に征服される。)

 


 

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【16】中国周辺地域史

【16】中国周辺地域史
(1)モンゴル高原・内陸アジア
(2)チベット・雲南地方
(3)朝鮮半島の分裂の時代
(4)朝鮮半島の統一の時代
※中国が文化の発信地。中国の王朝をセットで覚える。


(1)モンゴル高原・内陸アジア
ポイント①中国を苦しめた最恐の民族!
匈奴の中国侵入

【中国:秦・漢】
匈奴(B3~1C)
騎馬遊牧民。機動性に富んだ高い軍事力。

スキタイ(B6~B3C)(イラン系)
南ロシアの草原地帯。後世の騎馬遊牧民に影響。

冒頓単于
匈奴の全盛期。前漢の高祖を破る(B200)。
↓↓
・前漢の武帝に敗れて衰退(B129)
・匈奴の東西分裂(B1C)
東匈奴(内モンゴル)→漢に服属
西匈奴(天山山脈)→漢に敗れて滅亡
↓↓
・東匈奴の南北分裂(1C)
南匈奴→後漢に服属
北匈奴→後漢の攻撃を受ける(モンゴル高原)
→ヨーロッパ方面へ西走?(末裔がフン族に?)

ポイント②後漢から唐にかけて中国に侵入した民族
鮮卑・柔然・突厥・ウィグル

【中国:後漢~魏晋南北朝】
鮮卑(2~5C)
五胡の一つ。拓跋氏が北魏を建国。
「カガン(可汗)」の称号(君主)を使用→「ハン」につながる

柔然(5~6C)
北魏・太武帝と対抗

【中国:隋・唐】
トルコ人は中央アジア、西アジアへ移っていった。

突厥(6~8C)トルコ系
・柔然を破る
・ササン朝のホスロー1世とともに、エフタル(イラン系・トルコ系)を滅ぼす→西へ進み、中央アジアまで進出。
突厥文字・・北方遊牧民最古
・隋の時代に東西に分裂

ウィグル(8~9C)トルコ系
・安史の乱では唐を助けた
・中央アジアあたりまで西進
ウィグル文字
マニ教を国教化(後にイスラーム教
・軍事に長けていた←イスラーム王朝が軍人奴隷(マムルーク)として採用。西アジア各地に輸出。

 


(2)チベット・雲南地方
中国の西や南

ポイント①中国?インド?どっちの影響が強い?
チベットの歴史

<チベット>
中国とインドの間。インドの影響が強い。

吐蕃(とばん)(7~9C)
(都:ラサ)
ソンツェン=ガンポ(建国)
チベット文字
インドの文字を元に制作

<中国は【唐】>
・インド・中国の仏教文化を導入
チベット仏教
インドの大乗仏教にチベットの民間宗教が融合。(7C)

ーーーーーーー
・パスパ(高僧)(13C)
フビライに従事。チベット仏教が中国に伝わるきっかけとなる。
↓↓
ツォンカパの改革(14C)
腐敗したチベット仏教を立て直す。
ツォンカパの改革以降、チベット仏教を「黄帽派(こうぼうは)」と呼ぶようになる。

・ダライ=ラマ
チベット仏教のリーダー。政教一致の最高権力者
ポタラ宮殿(ラサ北西)に住む。

ポイント②雲南地方ってどんな地域?
モンゴル時代に中国領土になったわけ

<雲南地方>
中国から東南アジアへの出入口

2つの国
1.南詔(なんしょう)(?~902)
<中国は【唐】>
・中国・チベット・インド文化が融合

2.大理(だいり)(937~1254)
<中国は【宋】>
・フビライ・ハンにより滅亡(1254)
理由:東南アジアへの出入口を抑えたかったため。
・雲南はここで初めて中国領土に組み込まれた


(3)朝鮮半島の分裂の時代

ポイント①古代の朝鮮は「中国」?
古代朝鮮と中国の関係

古代朝鮮は中国の一部だった。

衛氏朝鮮(B190~B108)
・衛満(えいまん)(建国)
中国の戦国時代に中国から渡ってきた。
・前漢・武帝により滅亡(B108)

〇中国・前漢の支配下
朝鮮4郡(拠点)
楽浪郡を置く(B108~313)
(現在の北朝鮮・平壌・ピョンヤン
漢の政治・文化を伝導。
漢王朝が滅亡して目が行き届かなくなる。
高句麗により滅亡(313)

↓↓
馬韓→百済(ひゃくさい/くだら)
辰韓→新羅(しんら/しらぎ)
弁韓→任那(みまな)(加羅/から・加耶/かや)→新羅に征服される

ポイント②朝鮮にも三国時代があった!?
高句麗・新羅・百済の対立

朝鮮の三国時代(4C半~7C)

高句麗(B1C~668)
朝鮮半島北から中国東北部。
・漢の拠点、楽浪郡を征服(313)
・広開土王(位391~412)全盛期
広開土王碑(好太王碑)の建立(414)
朝鮮や日本との戦いが記録されている
・新羅・唐に滅ぼされる(668)

百済(4C半~660)
馬韓(左側)
高句麗、新羅に対抗するために日本と結ぶ。
唐・新羅により滅亡(660)
白村江の戦い(663)
復活しようと試みるが✕
日本・百済復興勢力✕ VS 〇新羅・唐

新羅(4C半~935)
・辰韓(右側)
・加羅を征服(4C)
・唐(3代・高宗)(当時アジア最強)と連合。
百済(660)、高句麗(668)を滅ぼす。

↓↓
※三国時代の勝者は「新羅」!

ーーーーーーーーーーーーーーーー
渤海(698~926)
(都:上京竜泉府)長安をモデル
高句麗の末裔や、靺鞨人(まっかつじん・ツングース系)が中国の東へ移動して建国
・大祚栄(だいそえい)(建国者)
・唐や日本とも交流


(4)朝鮮半島の統一の時代
ポイント①仏教文化がさかん!新羅の時代
朝鮮半島初の統一。新羅。

朝鮮半島を統一した3つの国

新羅(4C半~935)
(都:慶州(昔:金城))
高句麗と百済を倒して、朝鮮半島統一。

・唐は朝鮮半島の北西部に都護府を設置。→新羅にとっては屈辱・・!都護府は異民族を監視する機関。国として認められていない。。
↓↓
新羅は唐を排除。都護府を落とした。
↓↓
朝鮮半島統一(676)
唐に朝貢、冊封下へ入る。

唐の影響を受ける。

骨品制(こっぴんせい)(特権的な身分制度=貴族制度)
唐がモデル

仏国寺(ぶっこくじ)
慶州郊外にある仏教寺院。石の多宝塔。高度な技術。

ポイント②すごく似ている2つの王朝!
高麗と朝鮮の歴史。

高麗(935~1392)
(都:開城
王建(建国)

この頃、中国は【宋】
↓↓
・両班(ヤンバン)
骨品制貴族はいなくなり、特権官僚が登場。中国・宋と同じ。(両班が確立されるのは次の李氏朝鮮時代。)

高麗版大蔵経・・仏教文化がさかん。木版印刷
・金属活字・・世界最古。出版技術が早くから発達していた。
高麗青磁・・宋代の陶磁器(宋磁)の影響を受け、宋より高技術とも。

 

朝鮮李氏朝鮮・李朝(1392~1910)
(都:漢城(漢陽)現ソウル。元・帯方郡)

李成桂(建国)。李さんが作ったので李氏朝鮮。

この頃中国は【明・清】
↓↓
朱子学の官学化(上下関係を重んじる)
科挙の実施
両班(ヤンバン)特権身分階級
高級官職独占が登場。中国と同じ。

世宗(せいそう)(現在の1万ウォン札に描かれている)
訓民正音(くんみんせいおん)(1446)(表音文字)
漢字は庶民は読めない→ハングル文字

・豊臣秀吉の朝鮮侵攻
壬辰・丁酉(じんしん・ていゆう)の倭乱
(文禄1592・慶長1597の役)

李舜臣・・亀船(亀甲船)の使用で、日本の侵略を食い止めた。

「小中華」の芽生え
明滅亡後の、清(満州人国家)を正統な中国と認めない。
正統な中華を守っている継承者は朝鮮だ!という意識。
清に対して敵対心があった。


 

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【15】明・清の時代

【15】明・清の時代
(1)明の成立と中央集権化
(2)永楽帝の時代と明への外圧
(3)晩年の明と清の中国侵入
(4)清の全盛期をみる
(5)清の中国統治と社会経済
(6)明・清の文化(1)
(7)明・清の文化(2)


(1)明の成立と中央集権化
ポイント①久しぶりに漢民族の国家が復活!
紅巾の乱で元が滅亡。
→明の建国
洪武帝(朱元璋)太祖(位1368~1398)
(都:南京)

「自分に力を集める」皇帝独裁政治
↓↓
中書省(皇帝の命令を作る機関)の廃止、丞相(サポート)の廃止
六部(行政)を皇帝直属
朱子学の官学化(官僚必須の学問)
・一世一元(いっせいちげん)の制(天皇一人につき一つの元号。洪武帝の世はずっと「洪武」という年号。)
・明律・明令
海禁・倭寇への対策
→民間の対外交易・海外渡航を禁止
朝貢貿易を促進(周りが頭を下げに来る。)

ポイント②民衆を徹底して管理するシステム
地方行政と民への教育
魚鱗図冊・・土地台帳
賦役黄冊・・戸籍・租税台帳
里甲制・・村落。農家110戸で1里。正確な人口を把握。租税・治安維持。
衛所制・・軍戸と指定された家が軍事訓練を受ける。免税。
六諭(りくゆ)の発布(1397)・・朱子学の考えを広める。里老人=先生。「父母を大切に」など。

ポイント③皇帝がクーデタで即位!?
2代目・建文帝(洪武帝の長男の子)
側近の進言により、一族の勢力削減を試みる。
→燕王(洪武帝の子)の挙兵
靖難の役(1399~1402)


(2)永楽帝の時代と明への外圧
ポイント①明の全盛期!
3代目・永楽帝(位1402~1424)約20年
「外へ拡大」
北京へ遷都(元々の自身の防衛地・燕)。紫禁城(現・故宮博物院)
内閣大学士(政務補佐)の設置
宦官の重用(クーデターの後ろめたさからか官僚よりは宦官・側近を使っていた)

・ベトナム出兵
一時ベトナムを支配(1400~1428)
・モンゴル遠征
皇帝自ら5回の遠征

鄭和(イスラーム教徒の宦官)
南海諸国遠征
(1405~1433)7回の遠征
東南アジア・インド・西アジア・東アフリカ
朝貢貿易を促した。

ポイント②北から、南から…明を襲う外部勢力!
モンゴル系民族の侵入と倭寇の侵入

永楽帝の死後・・
北虜南倭(ほくりょなんわ)=外部からのプレッシャー

<北から>
オイラト・・西北モンゴリア
・土木の変(1449)
オイラトのエセン=ハンモンゴル勢力を統合)が明の正統帝を捕縛

タタール・・東モンゴリア
アルタン=ハン 北京を包囲
↓↓
・万里の長城を修築。侵入に備える

<南から>
倭寇・・海賊集団

前期倭寇(14C)
日本人。朝鮮半島から遼東半島にかけて略奪。

後期倭寇(16C)
中国人。海禁に反発し武装した民間商人の略奪行為。

↓↓
これらの対応により明は財政難に・・


(3)晩年の明と清の中国侵入
ポイント①皇帝の力は弱くなるのに明は長生き!→貿易で繁栄していたから。
明末の財政改革と混乱の時代

明の財政改革
貿易活動の活発化
日本銀メキシコ銀(スペイン)の流入。ヨーロッパは大航海時代。中国で買い物をするので明は儲かる。西アジア、インド、日本からも。

一条鞭法(いちじょうべんぽう)の普及(16C後半)
土地税と丁税・ていぜい(人頭税)を銀で納める

14代・万暦帝(神宗)(位1572~1620)
宰相・張居正の改革

明末の政治争い
東林派・・東林書院(顧憲成が再建した学校)出身の官僚
VS
非東林派・・宦官と結託
→政治が乱れる

明の滅亡
豊臣秀吉の朝鮮侵略
(1592文禄・1597慶長)
朝鮮は中国の弟分なので、明は助け(援軍)を出した。財政難に。

李自成の乱
農民反乱の指導者。
北京の攻略。
明の滅亡(1644)

ポイント②中国の北側に新しい国家が誕生!
満州人の国家建設

後金(こうきん)(1616~1636)
初代・ヌルハチ(ツングース系)
女真(金を作った民族)を率いて建国→後金は後に満州と改称
八旗の編成(軍隊)
満州文字の制作

2代・ホンタイジ
中国へ侵入開始
チャハル(内モンゴル)を征服(1635)
・国号を後金→と改称(1636)
=「今から中国を支配するぞ」のアピール
・朝鮮を属国化(1637)

ポイント③中国人ではない民族が中国を支配!
清の北京入城と反抗勢力

清(1616~1912)
3代・順治帝(1643~1661)
1644 明が滅亡。

(清に賛成)
・呉三桂(元・明の武将)が清に協力。
関所を開けた→北京へ誘導。
→清は李自成を倒し、北京を新しい都とする。

(清に反対)
・鄭成功
(1624~1662)
清には反対。明を復興させたい。
「反清復明」はんしんふくみん

オランダ人を追い出して台湾を占拠。
鄭氏台湾(1661~1683)を建国。
清に抵抗する拠点となる。

国姓爺(こくせんや)・・鄭成功の異名。明の一族から国王の名字をもらった英雄の意味。
『国姓爺合戦(こくせんやかっせん)』近松門左衛門の人形浄瑠璃。


(4)清の全盛期をみる
ポイント①中国史の皇帝の中でもNo.1!
平和で安定した時代。

4代・康煕帝(位1661~1722)61年間
「満州人が中国全土を支配する。漢人をつぶす」
藩王(清に協力した漢人武将・呉三桂など)の勢力削減
三藩の乱を鎮圧(1673~1681)

・鄭氏台湾を征服(1683)

地丁銀制(18C前)
地銀(土地税)の中に丁税(人頭税)を繰り込み一括して銀納。
人が増えても税金が変わらない→人口増加。

ネルチンスク条約(1689)
ロシア皇帝・ピョートル1世と清・康煕帝
ロシアと清の国境を取り決めた:アルグン川~スタノヴォイ山脈(中国では外興安嶺・がいこうあんれい)

・外モンゴルを併合(1696)

典礼問題
中国古来の先祖崇拝にキリスト宗派が反発。
イエズス会は承認。
イエズス会以外の布教を禁止(1711)

ポイント②目立たないけど実はすごい!?

5代・雍正帝(位1722~1735)13年
キリスト教布教の禁止(1724)
中国文化を守る

・チベット併合(1724)

キャフタ条約(1727)
ロシアと外モンゴルとの国境を決める

軍機処の設置(1729)
異民族統治の軍事機関→政務も兼ねる。

ポイント③いまの中国と同じ!? 清の最大領土!

6代・乾隆帝(位1735~1795)60年
(康煕帝を超えないように自分で降りた。)

制限貿易の開始(1757)
貿易港を広州1港に限定。
銀が外に出て行かないように。国内で回すようにした。

公行の設置
貿易を独占できる特権商人

ジュンガルの併合(1758)(康煕・雍正の頃からの宿敵)
→現・新疆の設置
(東トルキスタン一帯の地域。中央アジア。)


(5)清の中国統治と社会経済
ポイント①清の支配領域と軍事制度
広大な領土。統治の工夫。

清の領土
・直轄地:満州(中国東北)・台湾・中国本土(旧明)
藩部・・非漢人が優勢な地域
理藩院・・藩部に大幅な自治を与えて監督する
(唐の羈縻政策・都護府と同じ)

清の軍事制度
八旗(軍事・行政)・・ヌルハチが編成。満州、モンゴル、漢の三軍
緑営・・漢人のみの正規軍。治安維持など警察業務を担当。

ポイント②清のとった「アメ」と「ムチ」
少数の満州人が大多数の漢民族を統治するための工夫。

清の「アメ」
六部:皇帝直属の行政最高機関。(明から受け継ぐ)
科挙(明から)
満漢併用制
重要な官職を満州人、漢人を同数任命。

清の「ムチ」
辮髪の強制
文字の獄(もんじのごく):反清・反満的な書物の弾圧。言論・思想弾圧
禁書:思想統制のため特定の書籍を禁ずる。

ポイント③明と清は世界で一番お金持ち!?
明・清時代の経済活動をみる。農業・商業・貿易の3つ。

明・清時代の社会

〇農業の発達
米(中流)と商品作物(下流)がバランスよく作られる。
「湖広(ここう)熟すれば天下足る」(明代中頃)
長江中流域の米の生産が下流域の生産をしのぐ。

cf:宋「蘇湖(そこ)(江浙(こうせつ)熟すれば天下足る」=長江下流。下流は商品作物になる。

・商品作物の栽培。茶・綿・桑

〇商業の活性化
徽州(きしゅう)(新安)商人・・専売塩で大きな利益。
山西商人・・北辺の軍糧補給、専売塩、金融
国はこれらの商人から税金を取る。保護する。お互いうまい関係。
会館、公所・・同業、同郷の商人や職人が建設。親睦・互助。

〇貿易
輸出品(よく売れる)
生糸・・絹織物の重要材料
陶磁器・・染付(元後期)、赤絵(明)
・貿易港・・蘇州(江蘇省)、杭州(浙江省)、広州(広東省)→乾隆帝時代は広州1港に限定。


(6)明・清の文化(1)
ポイント①国が思想を統一するための手段
明・清の国家編纂事業。国家の目線から見た文化。

【明代】4つ
『四書大全』
永楽帝時。四書の注釈書。儒教解釈を固定化。科挙はこの解釈以外認めない。

『五経大全』
五経の注釈書。

・『性理大全』
宋学(朱子学)の全集。

『永楽大典』
類書(百科事典)。中国最大の編修事業。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

【清代】3つ
『康熙字典』
漢字の字書。4万2000をこえる漢字を部首・画数で配列。

『古今図書集成』
康煕帝~雍正帝の時代に編纂。
1万巻にわたる中国最大の類書(百科事典)

『四庫全書』
乾隆帝の時代に編纂。
中国最大の叢書(そうしょ)。今までの中国の書物の分類分け。
禁書の捜索という側面も

ポイント②儒学の発達
朱子学に対抗する新たな思想が登場

明・清では朱子学(知性重視)が官学化されていたが、対抗する学問が2つ出てきた。

陽明学(行動重視)明
・王守仁(王陽明)(15~16C)

・心即理・・本来持っている心そのものが人間の本質。感じたことが正しい。行動する。=「理」に合致するとした。

・知行合一
(ちこうごういつ)・・良知と行動との自然な一体化を説く


考証学
・朱子学、陽明学などの主観を批判。客観性を重視。
・儒教の古典を実証的にきわめていく
・広く確実な文献の収集。厳密な考証の実施。
「自分の行動は儒学のこれに当てはまるからいいんだ」など、儒学の本を使って考えていく。

明末:黄宗羲(こうそうぎ)、顧炎武(こえんぶ)
清半ば:銭大昕(せんたいきん)。考証学的な史学を確立

 


(7)明・清の文化(2)
市民の目線から見た文化。小説・実学・宣教師。

ポイント①時代を風刺したおもしろい作品!
庶民ウケする作品。

<小説>
【明代の小説】「四大奇書」
『三国志演義』・・三国時代の英雄
『水滸伝』・・北宋の豪傑の武勇
『西遊記』・・妖怪説話を混入
(↑↑これらは元で作られ、明で完成した。かっこいい中国人が描かれている。明は久々の漢民族の国家だから。)
『金瓶梅』・・明末の新興商人階層の色と欲

【清代の小説】
『紅楼夢』・・長編。上流社会の栄華没落。
『儒林外史』・・長編。官僚の腐敗・堕落。
・『聊斎志異(りょうさいしい)』・・短編。怪異妖変と人間の交錯。

ポイント②実際に役立つ学問を研究しよう!
ヨーロッパ科学の影響。実学が発達。

<実学>
李時珍『本草綱目』・・薬物。医学
徐光啓『農政全書・・農業技術・農業政策
宋応星『天工開物』・・イラスト付き、産業技術書。
(工・・工業。産業)

 

ポイント③たくさんやってきたイエズス会宣教師たち!
彼らが中国に持ち込んだ「お土産」とは・・。

【明代】
イエズス会の宣教師
カトリックの復活をめざして布教したい。。

・フランシスコ=ザビエル(1506~1552)(西)(中国にたどり着く一歩手前で没)

マテオ・リッチ(1552~1610)(伊)
坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』世界地図
幾何原本』徐光啓と共訳。エウクレイデスの幾何学。

アダム・シャール (独)
『崇禎暦書(すうていれきしょ)(暦法)徐光啓と共同作業

ーーーーーーーーーーーーーーーー
【清代】
フェルビースト(ベルギー)
大砲

ブーヴェ(仏)
皇輿全覧図(こうよぜんらんず)』中国の国内地図

カスティリオーネ(伊)
円明園(北京の北西郊外)清の離宮・庭園

 


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【14】東アジア世界の展開(宋・元)

【14】東アジア世界の展開
(1)五代十国と北宋
(2)征服王朝と北宋の衰退
(3)宋の時代の社会経済と文化
(4)モンゴルの時代
(5)モンゴル人の支配
(6)元の文化
五代十国(軍人中心)→北宋(官僚中心)


(1)五代十国と北宋
ポイント①五代十国の時代(軍人中心)
有力節度使が建てた五つの王朝

唐王朝が滅亡後(朱全忠が倒す)・・

・五代十国(907~979)約70年
後梁・後唐・後晋・後漢・後周(五代)
(+小さな国、十国)

・後梁(都:開封・かいほう→黃河と大運河の合流地点)
朱全忠(建国)

・後唐(都:洛陽)

後晋(こうしん)(都:開封)936~946
契丹の支援で建国。
お礼に、燕雲十六州を契丹にプレゼントしてしまった。。
(万里の長城の内側。燕は北京、雲は大同を指す。)

・後漢(こうかん)(都:開封)

・後周(都:開封)

ポイント②中国の混乱の時期
節度使による武断政治

唐末から五代十国の混乱で、旧貴族は没落。
→荘園の崩壊
→新興地主層の登場

・藩鎮(節度使(=軍事のみ)を主とする軍閥)
軍事・民政・財政の三権を掌握。独立の地方勢力化。

・佃戸(でんこ)(小作人)

ポイント③これまでの中国が大きく変わる
五代十国の混乱と北宋の成立

・北宋(960~1127)(都:開封)
趙匡胤(建国)(太祖)

混乱から安定へ。

節度使による武断政治から
文治主義への移行。

経済中心地に都を置き、交易で繁栄。
節度使(軍人)の削減。

役人を増やす。
科挙に殿試。(皇帝の直接面談)


(2)征服王朝と北宋の衰退
ポイント①北宋を圧迫した周辺民族たち
遼、西夏、金について

北宋を苦しめた三つの異民族
1.  遼(契丹)キタイ(916~1125)モンゴル系初の国家
耶律阿保機(建国)

澶淵の盟(せんえんのめい)(1004)
梁と北宋の和平条約。宋は梁に銀や絹を献上。

・二重統治体制
遊牧民(自分たち)と農耕民(中国人)を分けて統治

・金の攻撃により滅亡
西へ逃げる→西遼(1132~)(カラキタイ)となる。イスラム中央アジア。
耶律大石(やりつたいせき)(建国)

2.  西夏(1038~1227)
李元昊(りげんこう)(建国)
タングート族の国家

3.  金(1115~1234)
・完顔阿骨打(わんやんあぐだ)(建国)
・女真族→元々遼(契丹)の支配下にあったが自立した。
遼を滅ぼして北宋と接する。
・全真教(道教をモデル)

猛安・謀克(もうあん・ぼうこく)
女真族や契丹人を統治するための軍事、行政組織。
300戸を1つの謀克、10の謀克を1つの猛安とする。

ポイント②北宋はどんどんお金がなくなる?

異民族への毎年の貢ぎ物や、増えた官僚の給料で、北宋は段々と財政難に。。

財政改革
王安石(宰相)(任1070~)
新法(しんぽう)
※金持ちから取って貧しい農民へ
いかに富ませるか(富国)
・青苗法(貧農救済)
・均輸法(物価の安定)
・市易法(中小商人へ低利融資)
・募役法(公共事業)
いかに国を強くするか(強兵)
・保甲法(兵農一致)
・保馬法(軍馬の確保)

✕新法党(王安石) VS 〇旧法党(司馬光)王安石をしばこう

北宋は衰退へ・・

ポイント③北宋の滅亡と南宋の成立
中国の二分化

北宋の滅亡(1127)

靖康の変(1126~1127)
金が開封を占領。徽宗・欽宗親子を連行。

一族は南へ逃げる。
↓↓
・南宋
(1127~1276)
(都:臨安(杭州)大運河の南端)
高宗(建国)

岳飛(主戦派)✕ VS 〇秦檜(しんかい)(和平派)
金と和議。国境は淮河(わいが)←黃河と長江の間
南宋は金より下の立場になる。


(3)宋の時代の社会経済と文化
ポイント①宋代に登場した新しい支配階層!
大土地所有者と官僚

形勢戸(けいせいこ)(新興地主)
佃戸(小作人)を使用。収穫の半分を地代として納入させる。

士大夫(したいふ)(知識人・官僚)
儒学教養を身に付けた官僚

官戸(かんこ)
科挙に合格した家

 

ポイント②宋はお金持ち!? 宋代の繁栄!
農業、商業、貿易

■ 農業の発達
・占城稲(せんじょうとう)・・日照りに強く早く育つ稲。ベトナム・チャンパ王国より。(チャンパのことを占城と呼ぶ)

「蘇湖(江浙)熟すれば天下たる」
=「長江下流域が稲作地帯になる。そこで米が取れれば中国全土の食料をまかなえる」

■ 商業
・草子(市。唐末期)→鎮(ちん)(地方の小都市)へと発展。

(こう)・・商人の同行組合
(さく)・・手工業者の組合

・景徳鎮(江西省)・・宋磁(青磁・白磁)の生産地
海外にも輸出される人気商品。

・銅銭・・東アジア全域に輸出。
交子・会子・・紙幣
→遠隔地との交易が活発ということが分かる。

■ 貿易の発達
市舶司の増設(貿易の役所)
・広州(広東省)・・北宋最大の貿易港
・泉州(福建省)・・南宋時代には貿易額が広州を超える
・明州(浙江省)(寧波・ニンポー)・・日本の遣唐船、勘合貿易。

ポイント③宋の文化はこれまでの文化と変わっている?
儒学思想、絵画、雑劇など。一般市民の台頭。

■ 儒学(宋学・朱子学)
宋の時代から新しい儒学が生まれる。

・周敦頤(しゅうとんい)(北宋)
宋学の創始

朱熹(朱子)(南宋)
宋学の完成(朱子学
「知識を得ることが何よりも重要なんじゃ!知識ある者に敬意をはらうのじゃ。」
・性即理(知性を重視)
大義名分論・・上下関係を重視(皇帝の権威拡大)
四書を重視(今までは五経)
『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』

■ 歴史学
司馬光『資治通鑑』編年体(年表形式)
・欧陽脩(おうようしゅう)

■ 唐宋八大家
唐:韓愈、柳宗元
宋:欧陽脩、蘇軾(そしょく)(=蘇東坡・そとうば)

■ 芸術
院体画・・宮廷様式の絵画
徽宗『桃鳩図』

■ 仏教
禅宗・・士大夫層(知識人)
浄土宗・・阿弥陀仏信仰。(一般)

 


(4)モンゴルの時代
ポイント①チンギス=ハンの野望
闇雲に戦争していたわけではない。

初代・チンギス=ハン(位1206~1227)約20年
幼名:テムジン
クリルタイ(会議)の開催
・金の都(燕京)を攻略(1214)
征服
・ナイマン(1218)
ホラズム・シャー朝(1220)
・西夏(1227)
狙いがあった。中国とヨーロッパを結ぶ地域を抑えた。

ポイント②モンゴル帝国(大モンゴル国)の形成
オゴタイ・モンケの時代の広大な領域

2代・オゴタイ=ハン
(1229~1241)12年
・金の征服(1234)
・都カラコルムを建設(1235)

バトゥの西征
南ロシアのキエフ公国の征服(黒海の北)

→ワールシュタットの戦い(リーグニッツ)(1241)
ドイツ・ポーランド連合軍
オゴタイの死で引き返す

3代・グユク

4代・モンケ=ハン(1251~1259)
フラグ(モンケの弟1)の西アジア遠征
・アッバース朝(バグダード)の征服(シルクロードを抑えた)
・マムルーク朝へ侵攻

フビライ(モンケの弟2)の遠征
・大理(雲南)・チベットの征服
・高麗を服属させる

東西交易ネットワークを抑えたい

ポイント③元の一大遠征!
フビライの夢とは。海のルートも接続したい。

5代・フビライ=ハン(世祖)(1260~1294)34年
・クリルタイで即位
大都(北京)へ遷都(1264)
・国号をと改称(漢字に当て直す)

・ハイドゥの乱(1260〜1301)
フビライへの反乱
モンゴル人国家の分裂。

海上ルートをを抑えたい
南宋の征服(1276)
・〇パガン朝(ミャンマー)の征服(1299)
・✕日本遠征(1274文永・1281弘安) 鎌倉幕府
・✕ベトナム遠征・陳朝に敗北(13C後)
・✕ジャワ遠征・マジャパヒト王国に敗北(13C)


(5)モンゴル人の支配
ポイント①寛大な統治の仕組み
各地に成立したモンゴル人国家。

現地にいる勢力をうまく使っていく。

モンゴルの諸ハン国(ウルス
チャガタイ=ハン国(1227~14C)(中央アジア)
イスラーム商人が多かった。イスラーム化(14C)
東西分裂(14C半ば)

キプチャク=ハン国(南ロシア)
草原の道の出口に当たる。
バトゥ(建国)
イスラーム商人に合わせてイスラーム教の採用
モスクワ大公国の自立→分裂・解体

イル=ハン国(西アジア)
フラグ(建国)
ガザン=ハンの時
イスラーム教に改宗
宰相ラシード・アッディーン『集史』
モンゴルの歴史が文字に起こされた。

ポイント②元は中国人に媚びない!
元の中国統治のシステムは。

元の中国支配
・基本的には宋代の制度を継承。
科挙の一時停止。儒学を軽視。

モンゴル人第一主義
1・モンゴル人がトップ
2・色目人・・イラン人、中央アジア系(商業)財務官僚
3・漢人・・旧・金(女真族)
4・南人・・旧・南宋(中国人)

駅伝制(ジャムチ)

大運河の補修

海運の振興。貿易港。
杭州 大運河の南端
泉州 世界第一の貿易港に
広州 古くから南海貿易の拠点

商業
交鈔(こうしょう)(紙幣)を発行。
金代から使用された紙幣。

ウィグル文字(表音文字)
ウィグル人が使っていた。商業活動の記録など。一般的に使われた。

パスパ文字
(一般には広がらず)

チベット仏教(ラマ教)
パスパを国師として厚遇
寺院建立などで莫大な費用を負担。
→交鈔を乱発してしまう。元の国力低下。

紅巾の乱(1351~1366)紅の頭巾
白蓮教徒が中心
朱元璋

元が滅亡・・!

 


(6)元の文化
ポイント①庶民が元気!明るい文化

元曲(古典演劇)ミュージカル
・『漢宮秋(かんきゅうしゅう)』・・匈奴に降嫁した王昭君(前漢)の物語
・『琵琶記』・・出世して都で栄華な生活を送る男の話
・『西廂記(せいそうき)』・・宰相の娘と書生との恋愛

ポイント②東西交流の活発化!多くの外国人が訪れる

東西世界の交流
<3人の修道士>
プラノ・カルピニ
ローマ教皇の命。布教と情勢偵察。カラコルム。

ルブルック(13C)
仏王ルイ9世の命で十字軍の協力を要請。カラコルム。
モンケ=ハンがフラグを派遣。

モンテ・コルヴィノ
中国で最初のカトリック布教者。

<2人の旅行家>
マルコ・ポーロ
フビライ・ハンに仕えた
『世界の記述(東方見聞録)』
「黄金の国ジパング」

イブン・バットゥータ
『三大陸周遊記(旅行記)』
フビライの死後、元に来た。モロッコ出身(ベルベル人) 。メッカ巡礼のついでに24年間の大旅行。インドはトゥグルク朝、中国は泉州に訪れた。

ポイント③イスラーム世界から科学が伝わる
中国で作成された高度な暦

郭守敬
フビライに従事
授時暦の作成。イスラーム暦法の影響を受ける。
→日本の貞享暦(1684)(じょうきょうれき)に影響。渋川春海。

 


 

世界史タイトル一覧

トライ世界史【14】東アジア世界の展開 □⇒

 

 

 

【13】中世ヨーロッパ世界の各国史

【13】中世ヨーロッパ世界の各国史
(1)イギリス・フランス史
(2)ドイツ史
(3)イタリア・イベリア半島・北欧
(4)ビザンツ帝国の歴史
(5)中世東ヨーロッパ諸国
(6)中世ヨーロッパ文化


(1)イギリス・フランス史
■ 中世イギリスの王様は最初から権力が強い!
⇒その後、王の権力を抑え、徐々に議会の力が強くなる。

・ノルマン朝(1066~1154)
ウィリアム1世(征服王)(1066~1087)
=ノルマンディー公ウィリアム
北仏のノルマンディー公国(ロロが建国)から来て、英を征服した。だから最初から王の力が強い。

・プランタジネット朝(1154~1399)
ヘンリ2世(位1154~1189)
=元々、仏の貴族、アンジュー伯爵だった。妻はアキテーヌ侯爵の一人娘。結婚によりアキテーヌ候領を継承。仏西部大半を領有。
↓↓
英王が仏の領土をたくさん持っているので、仏王との仲が悪くなる。対立が始まる・・。

ジョン王(位1199~1216)
・インノケンティウス3世に破門される。(1209)

・仏王フィリップ2世に敗北。(1214)
大陸英領土の大部分を喪失。

・マグナ・カルタ(大憲章)の承認(1215)
課税する時貴族の同意を必要とする。=王の力を制限する。

ヘンリ3世
貴族シモン・ド・モンフォールの反乱(1258)
シモン・ド・モンフォールの議会
諮問議会の開催(1265)・・イギリス議会の起源

エドワード1世
「模範議会」の招集(1295)・・身分制議会

エドワード3世(1327~1377)
・「二院制議会」・・上院(貴族院)と下院(庶民院)
・仏王位継承権に口出し→百年戦争

ーーーーーーーーーーーーーーーー

■ フランスの王様は権力が弱い
⇒少しずつ領土を広げ力が強くなる↑↑

・カペー朝(987~1328)
フィリップ2世(位1180~1223)
英王ジョンを破り、大陸の英領を没収。

ルイ9世(位1226~1270)
・アルビジョワ十字軍(第6回・7回)(1229)
→異端アルビジョワ派を討伐。南仏を征服。

・ルブルックをモンゴル帝国・カラコルムへ派遣。援軍を要請。

フィリップ4世(位1285~1314)
・三部会の開催(1302)
・アナーニ事件(1303)
・教皇のバビロン捕囚(1309~1377)

 

■ 100年にわたる対立。英仏百年戦争

・ヴァロワ朝(1328~1589)
王位継承権問題
フィリップ6世が仏王に即位してヴァロワ朝を開いたが・・英王エドワード3世がいちゃもんを付ける。「俺が仏王になる権利あるんじゃね?俺はカペー朝の仏王フィリップ4世の孫だぞ。」と王位継承権を主張。

フランドル地方(毛織物)の領有問題
↓↓
百年戦争(1339~1453)
初めは英優勢。→後に仏が巻き返す。

・英エドワード黒太子(エドワード3世の子)の活躍
クレシーの戦い(1346)
長弓兵の使用

ポワティエの戦い(1356)
仏王を捕虜とする
↓↓
仏王シャルル7世の反撃(位1422~1461)
聖女ジャンヌ・ダルクがオルレアンを解放。
仏の逆転勝利。
↓↓
英軍、カレーのみを残して撤退(1453)

その後・・
【英】
・バラ戦争(1455~1485)
ランカスター家🔴(ヘンリー7世)勝ち〇
VS
ヨーク家〇(リチャード3世)負け✕

王位継承権をめぐり争う。
ヘンリー7世が勝ち、テューダー朝(1485)を開く。

【仏】
・イタリア戦争(1494~1498)
仏が独(神聖ローマ皇帝)と対立。伊は戦地になった。

 


(2)ドイツ史(神聖ローマ帝国)
■ ローマ皇帝であるがゆえの苦悩
皇帝の力を強くする工夫は。

オットー1世(位962~973)(東フランク)
初代神聖ローマ皇帝

ローマ皇帝とは地上における神の代理。キリスト教世界を守る。
国内の諸侯が言うことを聞いてくれない(仏と同じ悩み)
↓↓
・帝国教会政策・・教会を味方に付けて諸侯に対抗しようとした。聖職者の任命権を皇帝が持つ。聖職者を仲間にしようとした。

・イタリア政策(10~12C)
カトリックの中心地であるイタリアを支配下におさめたい。
が、ドイツ国内が皇帝不在のため、諸侯が力を付ける。
↓↓
「領邦」の形成(13~14C)
諸侯の領土が独立国のようになる。外交もできる。通貨の発行。
300以上。
↓↓
叙任権闘争
ハインリヒ4世 VS グレゴリウス7世
カノッサの屈辱(1077)
これで聖職者を味方にする手段も失う。

■ 皇帝の努力が裏目に出た?
皇帝の言うことなんてもうきかない。

・大空位時代(1256~1273)約20年間
皇帝不在の時代

■ 皇帝はみんなで選ぼう
皇帝の選挙制度が確立。

・金印勅書の発布(1356)
皇帝カール4世
皇帝選出権。7人の選帝侯が皇帝を選ぶ。

1438年以降、皇帝位はハプスブルグ家が世襲

 


(3)イタリア・イベリア半島・北欧
■ まとまらないイタリア
北部・中部・南部でまったく違う社会。

北部は都市国家が乱立。(独立)
・ヴェネツィア共和国(アドリア海の女王)
・ジェノヴァ共和国
・ミラノ公国
・フィレンツェ共和国

____ミラノ
ジェノ____ヴェネ
____フィレ

・中部は教皇領(ローマ教皇の領土)

・南部はアラブ人(イスラーム教徒)→ノルマン人が奪う
ナポリ王国とシチリア王国→二つを合わせて「両シチリア王国」と呼ぶ。

■ イベリア半島。(現スペイン・ポルトガル)
キリスト教徒の土地を奪い返せ

※ずっと戦っているので王の力が強い。

・レコンキスタの進展。
国土回復運動(8C初~1492)
再び征服をしよう。

(キリスト教国家)
右から
・アラゴン王国(1035~1479)
・カスティリャ王国(1035~1479)
・ポルトガル王国(1143~1910)カスティリャ王国から独立。

ポル・カス・アラ
イ ス ラ ム

イサベル王女(カスティリャ王国)とフェルナンド王子(アラゴン王国)の結婚。
→スペイン王国(イスパニア王国)の成立(1479)
(ポルトガルが一足早くレコンキスタを完成させたので、焦っていた。)

ナスル朝の滅亡(1492)
グラナダ陥落

■ 北欧。北ヨーロッパの国々は合体
生き残りをかけて工夫。

・カルマル同盟(1397)
デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの同君連合(マルグレーテ女王)
デンマーク連合王国(デンマークがリーダー格)

カルマル同盟を組んだ理由→北海・バルト海商業圏(北欧商業圏)でドイツの都市国家に交易で負けそうになっていたから。以降、ハンザ同盟とバチバチ対立していくようになる。

 


(4)ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の歴史

ポイント①ローマ帝国の復活か

● ユスティニアヌス大帝(位527~565)(ユスティニアヌス1世)
ローマ帝国を復活させようとした。
(領土)
・ヴァンダル王国の征服
・東ゴート王国の征服
・西ゴート王国からイベリア半島南部を奪取
・ササン朝ペルシア(ホスロー1世)との抗争

・皇帝が政教一致の最高権力者として君臨。
(=政治も宗教のトップもやる。ローマ帝国のコンスタンティヌス帝と同じ考え方)

(法)
・『ローマ法大全』(534)の編纂
法学者トリボニアヌス

・ハギア=ソフィア聖堂(コンスタンティノープル)

(産業)
・絹織物業の育成。高級品を輸出。

ポイント②どんどん領土が小さくなる

ユスティニアヌス大帝の死後、異民族の侵入が増える。
→領土縮小(ギリシアとトルコの辺りのみ残る)
・ランゴバルド族の侵入
・ササン朝の攻撃
・アジア系民族(アヴァール人、ブルガール人)の圧迫
・イスラーム勢力の侵入

<ビザンツの工夫>
・軍管区制(テマ制)・・司令官に軍事・行政権を与え統括する。(秦の始皇帝の郡県制と同じ。)

・屯田兵制(兵農一致)・・兵士に土地を与えて防衛力を高める

・公用語:ラテン語→ギリシア語に。(ギリシア人が多いため。)
・宗教:ギリシア正教会

●ビザンツ皇帝・レオン3世(位717~741)
聖像禁止令(726)
聖画像(イコン)の崇拝を禁止
↓↓
聖像崇拝論争
ローマ教会と対立

ポイント③ビザンツを苦しめたある勢力とは?

セルジューク朝の圧迫(11C後半)
・小アジアを奪われる→十字軍

・プロノイア制(11C~)
統治を諦める。有力貴族に領土分割。

・第4回十字軍(1204)
ヴェネツィア商人主導。ラテン帝国建国→ビザンツ帝国は一時滅亡→立て直そうとしたが・・
↓↓
オスマン帝国の圧迫(13C末~)
メフメト2世によりコンスタンティノープル陥落(1453)
千年帝国の幕を下ろす・・。
↓↓
その後、ビザンツの役割(ローマ皇帝の地位とギリシア正教会の指導権)をロシアが引き継ぐ。

 


(5)中世東ヨーロッパ諸国

■ ポイント①スラブ人は住む場所によって宗教が違う
西スラヴ・南スラヴ・東スラヴの特色

・西スラヴ(神聖ローマ帝国・カトリック)
・南スラヴ(宗教が混在)
・東スラヴ(ビザンツ帝国・ギリシア正教)

___________東スラヴ(ギ)
神聖ローマ(カ)・西スラヴ(カ)
________南スラヴ(カ・ギ)
___________ビザンツ(ギ)

■ ポイント②西スラヴ・南スラヴの歴史

西スラヴ人(カトリック)
・ポーランド人(カトリック)
リトアニア大公国と合体
=ヤゲウォ朝(1386~1572)

・チェック人(カトリック)→チェコ
ベーメン(ボヘミア)王国

・スロヴァキア人(カトリック)

南スラヴ人(混在)
・セルビア人(ギリシア正教)
バルカン半島北部を統合→オスマン帝国により敗北

・クロアティア人、スロヴェニア人(カトリック)

1990ユーゴスラビア内戦につながる→セルビア VS クロアティア

ポイント③東スラブの歴史

東スラヴ人(ロシア人・ギリシア正教)
ビザンツ帝国の後継者

・ノブゴロド国(ノルマン人)(862)
リューリクがルースを率いて建国
→次第にスラヴ化

・キエフ公国(9~13C)
ウラディミル1世
ギリシア正教を国教化

・「タタールのくびき」
中国方面からモンゴル人が来て、支配される。

・モスクワ大公国(だいこうこく)(14~16C)
ビザンツ帝国の黒海挟んだ北側。ビザンツ帝国を継承。

・イヴァン3世(位1462~1505)
妻がビザンツ帝国の皇女。
ビザンツ帝国が滅亡(1453)→イヴァン3世が引き継ぐ。
「ツァーリ(皇帝)」を自称。

・イヴァン4世(1533~1584)(雷帝)
「ツァーリ」を正式に採用
皇帝の称号や、ギリシア正教会。
ロシアがビザンツ帝国を引き継ぐ。


(6)中世ヨーロッパ文化
■ ポイント①中世を象徴する学問の発達
神学研究と文学活動

スコラ学(キリスト教研究)
「哲学は神学の婢(はしため)」
(=「人間の考えよりキリスト教研究が上」の意)

・実在論 アンセルムス
「神って何だろうなんて考えるなんて恐れ多い。神は実在する」
VS
・唯名(ゆいめい)論 アベラール
「神とは何だと考えて何が悪い。キリスト教を信仰している証だ」
↓↓
この2人を取り持ったのが・・
・トマス・アクィナス(13C)
『神学大全』(カトリック神学の集大成)
「神を定義するのは難しいだろう。神は我々を作ったのだから・・」

↓↓しかしだんだん分離していく・・

・ウィリアム・オブ・オッカム(オッカム村のウィリアム)・・理性(考察)と信仰を分離
・ロジャー・ベーコン・・イスラーム科学の影響。実験と観察を重視。

文学(騎士道物語)
・『ローランの歌』・・カール大帝の対イスラーム戦
・『アーサー王物語』・・ケルト人の伝説的英雄
・『ニーベルンゲンの歌』・・ゲルマン神話。フン族の王アッティラも出てくる。

■ ポイント②大学の登場
イスラームの高度な科学が中世の大学に刺激を与える。

● 大学(universitasウニベルシタス)ラテン語
・ボローニャ大学(法学)現存するヨーロッパ最古の大学。北伊。
・サレルノ大学(医学)アラビア医学の影響。南伊。
・パリ大学(神学)中世神学の最高権威。仏。
・オクスフォード大学(神学)パリ大学をモデルに設立。英。

■ ポイント③教会建設は時代と地域によって個性あり

・ビザンツ様式(ビザンツ帝国で発達)(東欧)
ドーム(丸い屋根)とモザイク壁画(小さな石を組み合わせる)
(例)ハギア=ソフィア聖堂

・ロマネスク様式(11~12C)(西欧)
石造の天井を支える重厚な石壁。小さな窓。荘重感。
柱が分厚い石でできている。穴が開けられない。
(例)ピサ大聖堂

↓↓レベルアップする。木を重ねて高くする。

・ゴシック様式(12C末)(西欧)
尖頭アーチ(とがっている)とステンドグラス
(例)ノートルダム大聖堂(仏)(コンセントのような形)、ケルン大聖堂(独)

 


 

世界史タイトル一覧

トライ世界史【13】中世ヨーロッパ世界の各国史 □⇒

 

 

 

 

【12】中世ヨーロッパ世界の展開

【12】中世ヨーロッパ世界の展開
(1)ローマ=カトリック教会の発展
(2)ローマ=カトリック教会の全盛期
(3)中世西ヨーロッパ世界の膨張
(4)中世都市の発展
(5)封建社会の崩壊と教皇権の衰退


(1)ローマ=カトリック教会の発展
■ 西ローマ帝国滅亡後のローマ教会の苦悩

〇ローマ=カトリック教会
教会と国の関係。
民衆に教えを広めるのは教会。
緊急事態(敵襲)などは皇帝が教会を守る。

・西ローマ帝国(395~476)
ローマ教会
→西ローマ帝国が滅亡したとき、守ってくれる後ろ盾を探した。

・東ローマ帝国(395~1453)
コンスタンティノープル教会

・ローマ教会は「首位権」を主張。(イエスの一番弟子ペトロが亡くなったから)→自分をブランド化。ビザンツ帝国に守ってもらおうとした。

・教皇グレゴリウス1世がゲルマン人(主にブリタニア)への布教。
東ローマ皇帝が、ローマ教会もコンスタンティノープル教会も守る。

・ベネディクトゥス(480~547)
モンテ=カシノ(伊・中部)に修道院を建設。
「清貧・純潔・服従」→「祈り、働け」
→ローマ教会の力が強くなる。

・階層制組織
教皇(法王)ー大司教ー司教ー司祭
農村部では村落ごとに教会が設備

■ ローマ教会とビザンツ帝国が大ゲンカ

東西教会の対立。
ローマ教会 VS コンスタンティノープル教会
ローマ教会はゲルマン人への布教に絵、聖像を用いていた。

・聖像禁止令(726)
ビザンツ皇帝・レオン3世
イスラム教徒に攻められる原因を減らそうとした。

→ローマ教会は反発。ビザンツ皇帝と絶縁。
ローマ教会 VS ビザンツ皇帝
↓↓
ローマ教会はフランク王国をボディガードにした。
ローマ教会の支店でゲルマン国家などに干渉した。

これが中世西ヨーロッパの特徴。

 


(2)ローマ=カトリック教会の全盛期

■ 腐敗を許すわけにはいかない
ローマカトリック教会の内部改革。

・教会刷新運動(修道院運動)
神聖ローマ帝国がローマ教会の支店を利用し始めた。買収など。ローマ教会が焦る。

教会の腐敗
・聖職売買・聖職者の結婚
地位を売ったり、買ったり。教会の世俗化が進む。
↓↓
・クリュニー修道院(910)
教会刷新運動の中心。教会の改革は修道院を中心に行われた。

・シトー修道会(11C末)
仏中部の荒野に新しく村を作っていく。純粋なキリスト教を広める。

・托鉢修道会(13C)
フランチェスコ修道会(1209)アッシジ
ドミニコ修道会(1215)南仏
都心部を中心に正しいキリスト教を広めていく。

ローマ教会が神聖ローマ帝国に警告。
↓↓
・聖職叙任権闘争
教皇グレゴリウス7世 VS 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世
(↑クリュニー修道院の教会改革の精神を受け継いだ)
自分の命令が届かないので腐敗を正す。
聖職叙任権(聖職者を任命する権利)をめぐって対立。
教皇は皇帝を破門。
↓↓
カノッサの屈辱(1077)
皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に謝罪。破門は解かれた。
教皇〇 VS ✕皇帝
↓↓
ヴォルムス協約(1122)
叙任権は教皇が保持することが決定。

■ 教皇権の絶頂
世俗権力を押さえ込み西欧No1の力に。

〇インノケンティウス3世(位1198~1216)
「教皇(権)は太陽、皇帝(権)は月である」
(=メインは教皇だ。皇帝は飾りだ。)

・英ジョン王を破門。仏王、神聖ローマ皇帝も屈服させる。
・第4回十字軍を提唱(1204)

 


(3)中世西ヨーロッパ世界の膨張

■ 政治的な安定と気候の温暖化
穀物が今まで以上に収穫できる

10C頃から気候が暖かくなってくる。
・中世農業革命(10~12C)

・三圃制(さんぽせい)の普及
春耕地、休耕地に分け、3年周期で輪作。

・重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき)
牛に犂を引かせる鉄製重量農具。広範囲に深耕が可能。

穀物がたくさん取れる。
→人口が増える
→土地が足りないので広げていく

・大開墾時代(12~14C)
修道院を中心に開墾。

・東方植民(12~14C)
エルベ川以東への進出。
ドイツ騎士団(キリスト教会が作った軍)が中心。

・国土回復運動(レコンキスタ)
イベリア半島。イスラーム教徒を追い出して、土地を奪い返そうという動き。

■ 教会の洗脳が行き届いた結果
荘園では教会が絶対。

巡礼の流行(11~12C)
・ローマ・・カトリック教会の総本山
・イェルサレム・・パレスチナ
・サンチャゴ・デ・コンポステラ・・イベリア半島のキリスト教の遺跡
いつかは聖地巡礼したい・・という気持ちが膨らむ。。

・ビザンツ帝国の危機
セルジューク朝がシリア、アナトリアに進出。ビザンツ帝国を圧迫。
ローマ教皇に救援を要請。
↓↓
ローマ教皇・ウルバヌス2世
クレルモン宗教会議(1095)
十字軍の派遣を提唱。

・聖地巡礼できる
・土地が手に入れられるかも
この2点で盛り上がる。

■ まさに中世を象徴するできごと
⇒なぜなら教皇がその権力で軍を動かしたから。武器は自費調達。

200年に及ぶ十字軍運動の開始
十字軍の歴史

・第1回十字軍(1096~1099)
聖地イェルサレムの奪還、回復。
イェルサレム王国の建国。

・第3回十字軍(1189~1192)
アイユーブ朝のサラディンがイェルサレムを占領。
英王リチャード1世、仏王、神聖ローマ皇帝が参加。

・第4回十字軍(1202~1204)
教皇インノケンティウス3世の提唱。
ヴェネチア商人の策略でコンスタンティノープルを占領。(ビザンツ帝国の都)
ラテン帝国(1204~1261)を建国。
本来の目的、聖地回復からズレていく。

・第6回、第7回十字軍(1248~1254、1270)
仏王ルイ9世の遠征
エジプト、チュニジアを攻撃するも失敗。

<十字軍の失敗の影響>
・教皇権への信頼、力が落ちていく。
・諸侯(軍の主力)も落ちる。
・国王の力が強まる。


(4)中世都市の発展
■ 商業ルネサンス
閉ざされていた西欧世界で商業が復活。
十字軍がきっかけで交易ルートが活発に。

①地中海商業圏

・東方貿易(レヴァント貿易)
アジアから香辛料、宝石、絹織物、(高級品・奢侈品(しゃしひん)、贅沢品)を輸入。
北イタリア・・ヴェネチア、ジェノヴァ、ピサ、ミラノ、フィレンツェ

②北ヨーロッパ商業圏
北海・バルト海交易
海産物、穀物、木材、毛皮、毛織物(生活必需品)を取引。
・北ドイツ・・リューベック、ハンブルク、ブレーメン

・フランドル地方(毛織物)
ガン(ヘント)、ブリュージュ、アントウェルペン

③内陸商業圏
地中海商業圏・バルト海商業圏を接続する、中継(なかつぎ)貿易で繁栄。
キエフ、ケルン、マインツ、アウクスブルク

・シャンパーニュ地方(仏東北部)
1年に5、6回の大規模な定期市。最大の商品集積地。

■ 中世の都市の特徴は
現代との違いは。

・中世都市
封建領主から特許状を取得(買収or闘争)
「自治権(=独立)」の獲得
中世の自治権とは独立した都市のこと

・コムーネ(自治都市)
北部・中部イタリア

・帝国都市(自由都市)
ドイツの皇帝直属の自治都市

・都市同盟
自治や商業を守るため都市同志が結束する。軍事同盟も。諸侯や王に対抗。
ロンバルディア同盟(12~13C)ミラノ中心、北イタリア
ハンザ同盟(盟主リューベック)北ドイツ

■ 都市は自由、人は不自由?
都市で生活する人々の暮らし。
領主からは自由になれたが、身分制度には縛られていた。

「都市の空気は(人を)自由にする」
(ドイツのことわざ)
都市自体が領主の支配からは独立しているという意味。人が平等というわけではない。

荘園の農奴が都市に逃げ込む。1年と1日住めば都市の市民になれる。
都市の独立性。諸侯や領主も手を出せない。

・商人ギルド(組合)
商業利益、相互扶助。
市政を掌握。

・同職ギルド(手工業者の組合)(ツンフト)
親方、職人、徒弟、と、厳格な身分制度があった。
親方だけが同職ギルドの構成員になれた。

・ツンフト闘争
市政を独占していた大商人・商人ギルドに対して同職ギルドが結束して戦う。


(5)封建社会の崩壊と教皇権の衰退
■ ついに崩れた!中世の象徴

※14世紀は、中世ヨーロッパの封建社会が崩壊し、諸侯・騎士・教皇が没落していくターニングポイント。

荘園制の崩壊
貨幣経済の普及(14C)

諸侯が十字軍の借金などで没落。

・貨幣地代への移行。
農民は農作物を市場などで販売。
領主への隷属制を弱める。

・農奴解放(13C)
死亡税や相続税などの撤廃や緩和が進展。
権利を貨幣で買い取る⇒自営農民となる。
領主は次第に地主化。

・黒死病(ペスト)の流行(14C)
農業人口の激減(人口の1/3を喪失)。
農民への待遇改善。農民の解放が進展。
↓↓
領主の収入も減る。
困窮化した領主が封建的な諸権利を再強化。(昔に戻そうとした)
↓↓
農民反乱が起こる
・ジャックリーの乱(1358)仏
(「農民ども」の意味)
↓↓
・ワット・タイラーの乱(1381)英
ジョン・ボール(思想的な指導者)
「アダムが耕しイヴが紡いだとき、誰が貴族であったか」

■ 教皇なんてもう怖くない
教皇の権威は衰退。キリスト教を見直す動きに。。
王の力が強くなる。
諸侯、騎士は延臣(ていしん)となる。
延臣(ていしん)・・国王に仕える家臣。

荘園制の解体と戦術の変化(鉄砲の登場。剣のプロ・騎士が没落)。

教皇権の衰退
〇仏王・フィリップ4世(位1285~1314)
聖職者への課税を提案。
教皇ボニファティウス8世と対立。
↓↓
三部会の開催(1302)
聖職者・貴族・平民からなる身分制議会。
国内の支持を得る。

・アナーニ事件(1303)
仏王フィリップ4世は教皇ボニファティウス8世をアナーニ(伊ローマ郊外)に幽閉。教皇は後に解放されるが憤死。

・教皇のバビロン捕囚(1309~1377)約70年
教皇庁(教皇の仕事場)をローマからアヴィニョン(南仏)に強制移転。管理下に置いた。
↓↓
・教会大分裂(大シスマ、1378~1417)約40年
混乱。自称教皇がローマ、アヴィニョン、ピサに登場。
↓↓
・宗教改革の先駆的な動き
「教会や教皇は要らない。聖書を読めばいい。」
教会批判
ウィクリフ(聖書の英訳)1320~1384
フス(聖書のチェコ語訳)1370~1415
↓↓
・コンスタンツ公会議(1414~1418)
教皇庁をローマに置き、教会大分裂は収束。(1417)

さらに教会が困っているときに教会の文句を言ったということで
ウィクリフ・フスは異端として、フスは焚刑される。(1415)

 


 

世界史タイトル一覧

トライ世界史【12】中世ヨーロッパ世界の展開 □⇒

 

 

 

 

【11】中世ヨーロッパ世界の成立

【11】中世ヨーロッパ世界の成立
成立期の中世ヨーロッパ世界をみる視点
(1)ゲルマン人の大移動
(2)フランク王国の発展
(3)第2次民族移動の時代
(4)封建社会の成立


(1)ゲルマン人の大移動
■  ゲルマン人の生活
古ゲルマン社会
ライン川、ドナウ川の北
先住のケルト人を圧迫しながら居住地域を拡大。
・民会(最高議決機関)
・従士制(有力者に忠誠を誓う)
・キリスト教が広まる(異端:アリウス派)

■  西ローマ帝国の命運
ゲルマン人の大移動(4~6C)
フン人の侵入。(匈奴の一派?)
ゲルマン人を圧迫。

・西ゴート人が南下開始(375)
ゲルマン人の大移動スタート。
西ローマ帝国に保護を求めて入ってくる。

・カタラウヌムの戦い(451)
西ローマ・ゲルマン〇 VS ✕フン人(アッティラ大王)
フン人の侵入を止めた。

・西ローマ帝国滅亡(476)
✕←ゲルマン人傭兵隊長オドアケル

■  ゲルマン人国家の乱立
なぜ短命なのか。
・西ゴート王国
イベリア半島
→ウマイヤ朝が滅ぼす(711)

・東ゴート王国
イタリア半島。テオドリック大王。
→ビザンツ帝国・ユスティニアヌス大帝が滅ぼす

・ヴァンダル王国
北アフリカ
→ビザンツ帝国・ユスティニアヌス大帝が滅ぼす

・ブルグンド王国
ガリア(仏)東南

・フランク王国
ガリア(仏)北

・ランゴバルド王国(ロンバルディア王国)
北イタリア

・アングロ=サクソン七王国(ヘプターキー)
大ブリテン島に建国
七つの国
エグバートの統一(829)
=イングランド

 


(2)フランク王国の発展
■ なぜフランク王国は長生きしたのか?
⇒改宗、防衛、ローマ教皇へ接近の3つ。
ローマ系住民や教会との関係。

〇フランク王国(481~843)約360年
(前半)
メロヴィング朝(481~751)
・クローヴィス(481~511)(建国)
異端アリウス派から、正統アタナシウス派に改宗

・トゥール・ポワティエ間の戦い(732)
ウマイヤ朝(イスラーム)✕ VS 〇フランク王国
宮宰(王のサポート)カール・マルテル

(後半)
カロリング朝(751~843~987)
・ピピン
ピピンの寄進(756)
ランゴバルド王国を攻撃し、ラヴェンナ地方を教皇へ献上
⇒ローマ教皇領の起源

■ 西ローマ帝国の復活?
・カール1世(カール大帝)シャルルマーニュ(位768~814)
(アッバース朝・ハールーン・アッラシードと使節を交換)

領土的にも文化的にもローマを復活させようとした

旧西ローマ帝国領土の回復
・ランゴバルド王国征服(北イタリア)
・ザクセン人(北ドイツのゲルマン人)の平定
・アヴァール人(アジア系遊牧民)を撃退

・カロリング=ルネサンス
古典文化(ローマ)の復興にも力を尽くした。アルクイン(英・神学者)を招く。キリスト教の発展、ローマ文化。
(都:アーヘン)

・伯(地方行政を担当)
巡察使を派遣して監察。
「伯爵」の語源。

・カールの戴冠(800.12.25)
ローマ教皇レオ3世がカール大帝に「ローマ皇帝」の帝冠を授ける。
⇒名目上「西ローマ帝国」の復活。

「ゲルマン」・「ローマ」・「キリスト教」の3要素の結合した世界を
「中世・西ヨーロッパ世界」と言う。

 


(3)第2次民族移動の時代
■ フランク王国の分裂

・ヴェルダン条約(843)
東フランク・西フランク・中部フランク

・メルセン条約(870)
東フランク・西フランク・中部フランク
ドイツ・フランス・イタリアの原型に

・東フランク(843~911)
カロリング朝の断絶→ザクセン家から王を選出。ザクセン朝。
↓↓
・神聖ローマ帝国(962)
オットー1世
マジャール人(アジア系遊牧民)を撃退。
ローマ教皇からローマ皇帝位を授与。(カール大帝がもらった冠と同じ状況)

・西フランク(843~987)
カロリング朝の断絶→パリ伯ユーグ=カペーが国王に。カペー朝。

・中部フランク
早くにカロリング朝の断絶→近代まで分裂状態

ほぼ同じ頃に・・↓↓

■ また民族の侵入?
第2次民族移動の時代。

・ノルマン人(北のゲルマン人)(ヴァイキング:入り江の民)
8Cから気温が下がってノルマン人が南下。

現住地:スカンディナヴィア半島、ユトランド半島。
デンマーク王国、ノルウェー王国、スウェーデン王国を建国。
海上ルートで移動。

〇ロシア
・ノブゴロド国(862)
リューリク(建国)。
ルーシ族(ノルマン人の一派・ロシアの語源に)を率いて建国。
↓↓
ノブゴロド国の将軍が南下。
・キエフ公国(862)
ドニエプル川流域。

〇北フランス
・ノルマンディー公国(911~1066)(現在・仏ノルマンディー地方)
ロロ(建国)

〇イギリス
アングロ・サクソン七王国が統一(イングランド王国)
アルフレッド大王がデーン人を撃退。
↓↓
・クヌート(1016~1035)(デーン人王子)再度、英を攻める。
(『ヴィンランド・サガ』)
イングランドを征服。イギリス、デンマーク、ノルウェーを支配。北海帝国。
↓↓
クヌートの死後、再びアングロ・サクソン系が支配

〇南イタリア
両シチリア王国(1130~1860)

古代ローマ以来の商業ルートが復活していく。


(4)封建社会の成立
■ 自らを守るための工夫
国王・諸侯・騎士の契約関係。

フランク王国の分裂、ノルマン人の侵入など、不安定な時代。

・封建制度
恩貸地制度(ローマ末期)+従士制(古ゲルマン)
(自分の土地を寄進して、そこから借りる。)

主君は家臣に封土(領地)を与える
↓↑ 双務的契約
家臣は主君に軍役の義務を負う

階層制(ヒエラルヒー)
・国王・・形式上のリーダー
・諸侯・・広大な支配領域と家臣を持つ有力者
(諸侯から選ばれた代表者が国王。学級委員長みたいな。国王の力はそんなに強くはない。)
・騎士・・騎乗して戦

※「封建時代」は自分の土地、財産を守るための工夫。みんなで守っていこうという制度。その守りたい「土地の話」がこちら↓↓

 

■ 西ヨーロッパは閉ざされた世界
荘園における農民の生活とは

・荘園(領主の所有地)

一つの村のようなもの。

〇2種類の土地
・領主直営地・・領主が直接経営した土地。
・農民保有地・・領主が農民に保有させた(=貸す)土地。

・不輸不入権(インムニテート)
国王の課税権や裁判権などの行使を、領主が拒否する権利。荘園内は閉ざされている。

・領主裁判権
領主が農民に対して行使した裁判権。理不尽でも絶対的。

・農奴(領主に隷属する農民・小作人)
賦役・・領主の土地を無償で耕作
貢納・・収穫物の一部を領主に収める(家賃)
十分の一税・・教会への税
結婚税・・結婚で領外に出る場合納入
死亡税・・相続税

閉鎖的な村で唯一の情報発信者が教会。
ローマ教会の発言を妄信的に信じていく。

 


 

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