【19】宗教改革
(1)ドイツ宗教改革の始まり
(2)ドイツ宗教改革の帰結
(3)スイス・イギリス宗教改革
(4)対抗宗教改革と宗教戦争
(5)フランス・ドイツの宗教戦争
独は分権化へ、英は王権強化。スイスは商人に受け入れ進む。
(1)ドイツ宗教改革の始まり
ポイント①ルターの怒り!カトリック教会の腐敗…
教会批判とルターの主張
<ドイツ宗教改革>
ドイツ(神聖ローマ帝国)
・教皇レオ10世(位1513~1521)
サン・ピエトロ大聖堂の改築
→教皇庁の財政ピンチ
→贖宥状(免罪符)の販売を許可。=お金を払えば罪は許される。
当時のドイツは「ローマの牝牛(めうし)」
→(意味)当時神聖ローマ皇帝の力は強くない、管理が行き届かない。だからローマ教皇が好き勝手できた。
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免罪符にNo!
・マルティン=ルター(1483~1546)
ヴィッテンベルク大学の神学部教授。
ローマ教皇、カトリック聖職者の権威を否定。
聖書主義。
「人は信仰によってのみ義とされる」(信仰義認主義)
「九十五カ条の論題」(1517)
ヴィッテンベルク教会に貼り付けた。
教皇や宗教会議の権威を否定したルターは、教皇レオ10世により破門に。
→ルター「望むところだ・・」
ポイント②国内の諸侯を巻き込む一大変革へ
皇帝と諸侯の対立に宗教が利用される
独(神聖ローマ皇帝)カール5世(1519~1556)
(=スペイン・カルロス1世)
「カトリックの教えを否定するやつは許さん!」
=皇帝はカトリックの守り主。カトリックの批判は自分への批判になるため。
・ヴォルムス帝国議会(1521)
撤回を強要。ルターは拒否。→帝国から追放。
(cf.ヴォルムス協約(1122)は叙任権が教皇になった)
・ザクセン選帝侯フリードリヒ(諸侯の一人)がルターを保護
カール5世と対立している。
ルターは『新約聖書』をドイツ語に訳す
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グーテンベルク(独)が発明した活版印刷で広がる
ルター派
反教皇、反皇帝派の諸侯から支持
ドイツ国内の混乱
・ドイツ農民戦争(1524~1525)
農奴制・領主制・十分の一税の廃止を要求
ミュンツァーが農民軍を指導
宗教改革を農奴解放、共有社会の実現へと結びつける
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ルターは最初同情するも・・「私はザクセン選帝侯にお世話になった。だから諸侯側を支持する」
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ルターは農民には受け入れられない。諸侯には人気。
(2)ドイツ宗教改革の帰結
ポイント①ドイツを取り巻く国際情勢の変化!
皇帝はルターよりも厄介な2つの敵に出会う・・
(1つ目の敵)
・イタリア戦争(1494~1559)60年間
独カール5世VS仏フランソワ1世
イタリアの支配をめぐって対立。独がローマに侵入。
→イタリア・ルネサンスは衰退・・
(2つ目の敵)
・オスマン皇帝の圧迫
ハンガリー併合(1526)
スレイマン1世
仏と争っていたら背後からオスマン帝国が来た!
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ルター派を利用。ルター派を容認(1526)
国内の結束と団結。
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第1次ウィーン包囲(1529)
冬が来たのもあり、撃退成功。
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ルター派を再禁止・弾圧(1529)
ルター派は抗議文を提出・・「プロテスタント」教皇権を否定
ポイント②ついに皇帝が妥協した!宗教和議の締結
ドイツに及ぼした影響とは・・
・シュマルカルデン同盟の結成(1530)
ルター派の諸侯・都市がカール5世に対抗するため結成。
・シュマルカルデン戦争(1546)
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皇帝が妥協・・
・アウクスブルクの宗教和議(1555)
ルター派のみ公認。(カルヴァン派は✕。→のちのウェストファリア条約1648で公認される)
・諸侯に対してカトリック派 OR ルター派の選択権を認める。
(個人の信仰は認められない。)
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「領邦教会制」の確立
諸侯は、領邦内の教会への支配権を持つことになった。
皇帝の力は衰え、諸侯が強くなり、ドイツの分裂が続く・・
(3)スイス・イギリス宗教改革
ポイント①いまの世界があるのはカルヴァンのおかげ!?
カルヴァンの思想はヨーロッパを変えた
<スイス宗教改革>
(1)ツヴィングリ
スイス・チューリヒ
エラスムスやルターの影響を受ける。
(2)カルヴァン(1509~1564)スイス・ジュネーブ
「魂の救済は意志や善行とは無関係。すでに神によって決められているんだ。」
・『キリスト教綱要』
・「予定説」・・神の意志の絶対性、人間の行為の無意味さを強調。
天職に励むこと、仕事の成功で救済を確信。→キリスト教で初めて蓄財を承認。(カトリックは儲けることを否定)→商人に受け入れられ広がる。
・長老主義・・教会の運営は牧師と信徒の代表者
・ジュネーブで神権政治(政教一致体制)を実施
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ヨーロッパ各地に広がる
カルヴァン派の呼称
・ピューリタン(イングランド)
・プレスビテリアン(スコットランド)
・ゴイセン(ネーデルラント)
・ユグノー(フランス)
ポイント②イギリスの宗教改革にはウラがある!?
ヘンリ8世の離婚問題は単なる口実・・
<イギリス宗教改革>
〇テューダー朝(1485〜1603)
(初代ヘンリ7世)
4人の英王
(1)ヘンリ8世(位1509~1547)2代
英は王の力を強くするための宗教改革。(ドイツは民が中心→分裂)
・王妃カザリンとの離婚問題。教皇と対立→カトリックを辞める
・国王至上法(首長法)の発布(1534)
イギリス国教会の創設(=新しいキリスト教を作った。)
「英王は国教会の唯一最高の首長」
・修道院を解散し、没収した土地を新興市民に安く売り渡す
ヘンリ8世の子3人
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(2)エドワード6世(位1547~1553)3代
・一般祈祷書の制定(1549)
国教会の教義を整備
(3)メアリ1世(位1553~1558)ブラッディメアリ・4代
・スペイン皇太子フェリペ2世(カトリック)と結婚
・カトリックの強制→新教徒(イギリス国教会)を弾圧
(4)エリザベス1世(1558~1603)5代
・統一法の制定(1559)
イギリス国教会の確立。国王が宗教も統治。
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スチュアート朝・ジェームズ1世へ・・
(4)対抗宗教改革と宗教戦争
ポイント①カトリックは間違っていない!
<カトリックの対抗>
〇対抗宗教改革(反宗教改革)
(1)イエズス会(ジェズイット教団)(1534)
この2人のスペイン人↓↓が作った
・イグナティウス=ロヨラ
・フランシスコ=ザビエル
カトリックの世界伝導、ヨーロッパの再カトリック化
(2)トリエント公会議(1545~1563)
教皇至上権、カトリック教義の再確認(やっぱりカトリックは間違ってない!)
禁書目録の制定、宗教裁判、魔女狩りの流行
ポイント②スペインに果敢に勝負を挑んだオランダ!
宗派の違いから国家の独立戦争を起こす
<オランダ宗教戦争>
〇オランダ独立戦争(1568~1609)40年
スペイン王フェリペ2世
重税、カトリック信仰を強制
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ネーデルラントが反乱(1568)
・北部7州(オランダ):ゴイセン(カルヴァン派)が多い
・南部10州(ベルギー):カトリック教徒が多い
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・南部10州の降伏(1579)
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・北部7州→ユトレヒト同盟結成(1579)
ホラント州中心(オランダの語源)
指導者:オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)
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・独立宣言(1581)
ネーデルラント連邦共和国(オランダ)
・休戦条約(1609)
スペインがオランダの独立を事実上承認
(5)フランス・ドイツの宗教戦争
ポイント①フランスで起きた宗教戦争は根が深い!
ただの宗教的な争いではない・・
<フランス宗教戦争>
・ユグノー戦争(1562~1598)30年
カトリック(多数) VS ユグノー(カルヴァン派)
国王シャルル9世、摂政・母后カトリーヌ=ド=メディシス
新旧両派の対立に有力貴族の王権をめぐる政治闘争がからむ
・サンバルテミの虐殺(1572)
国王シャルル9世の妹(王妃マルゴ・カトリック)と、アンリ(新教徒ユグノー)の婚儀をパリで開催
→王母カトリーヌはパリに集まったユグノーたちを虐殺
→大内乱に・・!
国王暗殺(ヴァロワ朝アンリ3世)
→ブルボン家アンリ4世が国王に即位
→ブルボン朝創始(1589)
・ナントの勅令(王令)(1598)
アンリ4世がカトリックに改宗してから、新教徒(ユグノー)へ条件付きの信仰の自由を保障→旧教徒とほぼ同様の権利を付与。カトリックが国教のフランスでは画期的なできごと。
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ユグノー戦争が終結・・!(1598)
(→ナントの勅令は、後にルイ14世が廃止1685)
ポイント②ドイツ三十年戦争はその後のヨーロッパを変えた!
主権国家体制の確立はこの時期
<ドイツ宗教戦争>
宗教戦争から国際戦争へ・・
三十年戦争(1618~1648)
・ベーメン(ボヘミア)反乱(1618)
新教徒の多い地域に対して、神聖ローマ皇帝(ハプスブルグ家)がカトリックを強要したため
・デンマークの参戦(1625)✕(プロテスタント国家)
神聖ローマの傭兵隊隊長のヴァレンシュタインに敗北
・スウェーデンの参戦(1630)✕(プロテスタント国家)
国王グスタフ=アドルフ
ヴァレンシュタインを破るが、途中で戦死
・フランスの参戦(1635)〇(カトリック国家だが・・新教支援)
宰相リシュリュー「宗教なんてどうでもいいわ。独(神聖)倒す」
仏はカトリック国家だが、ハプスブルグ家打倒のため、新教徒支援で参戦。(イタリア戦争からの宿敵を倒したい。)
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プロテスタント勝利〇
ウェストファリア条約(1648)
・アウグスブルクの宗教和議の再確認
追加事項:カルヴァン派公認
・スイス・オランダの独立・・国際的に承認
・フランスへアルザスを割譲
・スウェーデンへバルト海南岸を割譲
・神聖ローマ帝国の有名無実化が決定(あってないようなもの)
ドイツ国内の領邦(諸侯の領土)に、ほぼ完全な主権を承認
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これ以降ヨーロッパの国は主権国家体制が確立する。
(=宗教の違いではなく、自分の国にとって損か得かで動くようになる。)