【21】東欧絶対王政
(1)オーストリア絶対王政
(2)プロイセン絶対王政
(3)ロシア絶対王政
(4)絶対王政時代の文化(1) 科学・哲学
(5)絶対王政時代の文化(2) 政治・経済
(6)絶対王政時代の文化(3) 芸術・文化
西欧絶対王政(16C~18C)→東欧絶対王政(18C)西の失敗を活かして「啓蒙専制君主」が出てくる。
(1)オーストリア絶対王政
ポイント①三十年戦争でオーストリアは得をした!?
「神聖ローマ帝国の死亡証明書」がオーストリアに与えた影響
・三十年戦争(1618~1648)
ウェストファリア条約(1648)(カルヴァン派公認)
神聖ローマ帝国は300の領邦に解体。
「神聖ローマ帝国の死亡証明書」
オーストリアの指導者は、代々神聖ローマ皇帝を兼任。
(=学級委員長が生徒会長を兼任)
神ロ皇帝の存在が無意味に・・
→神ロの仕事が減ったから、自国のオーストリアの経営に専念できる。
→オーストリアの全盛期がここから始まる。
オスマン帝国との抗争
・第2次ウィーン包囲(1683)
オーストリア〇 VS ✕オスマン帝国
↓↓
・カルロヴィッツ条約(1699)
オーストリアはハンガリーなど東欧諸地域を獲得。
ポイント②偉大なる女帝!マリア=テレジア!
オーストリア発展に尽力した彼女の生涯
・マリア=テレジア(位1740~1780)
父カール6世から継承。即位と同時にいちゃもんを付けられる・・。
・オーストリア継承戦争(1740~1748)
オーストリア(ハプスブルグ家)・英
VS
プロイセン・バイエルン、ザクセン選帝侯・仏・西
仏の思惑「ハプスブルグ家を倒したい・・。」イタリア戦争以来、仏とハプスブルグ家(独)とは犬猿の仲。
↓↓
・アーヘン条約(1748)
マリア・テレジアの継承権を承認。
だが、プロイセンへシュレジエン(石炭と鉄の産地。人口多)を割譲。
何をするにも仏にじゃまをされる。。
オーストリアの国益のため仏と仲直りが必要・・。
「外交革命」
シュレジエン奪回をめざすオーストリアが仏に接近
↓↓
イタリア戦争以来のオーストリアと仏の250年の対立が終わる!
娘マリ=アントワネットを仏に嫁がせた。
プロイセンが危機感を感じ・・しかけた。
↓↓
・七年戦争(1756~1763)7年
✕オーストリア・仏・露(女帝)・スウェーデン(女帝)
VS
〇プロイセン・英
墺優勢でプロイセンの都ベルリンを包囲。追い詰めたが・・ロシア女帝(エリザヴェータ)が亡くなり、ピョートル3世に。。彼はフリードリヒ2世(大王)の大ファンで、ロシアはプロイセンに寝返る。
↓↓
マリア・テレジアは、シュレジエン返還をあきらめ、戦争を終わらせた。。
ポイント③革命を試みた皇帝とその結末
富国強兵のための「上からの近代化」
オーストリア
・ヨーゼフ2世(位1765~1790)マリアテレジアの長男
啓蒙専制君主
啓蒙主義(理性に基づいて合理的か考える)的政策を実施しつつ、専制政治を行う
→上からの近代化をめざした。
・農奴解放令(1781)→✕失敗
・宗教寛容令(1781)→✕失敗
カトリック以外を認める
↓↓
貴族から反発。。
2つとも失敗に終わる
・第1回ポーランド分割
(2)プロイセン絶対王政
ポイント①プロイセンという国家の成立
2つの領土が合体して成立したドイツ最強の国家
【プロイセン(プロシア)】
2つの国が合体してできた
[1]ブランデンブルク選帝侯国
12C前 ブランデンブルク辺境伯領の成立
(七選帝侯の一つ。金印勅書1356)
15C前 ホーエンツォレルン家の支配始まる
+
[2]ドイツ騎士団領
13C前 バルト海沿岸への東方植民(神ロが人口増で東へ移った)
16C前 ルター派を受容。カトリックをやめる→プロイセン公国の成立(改名)
↓↓
【プロイセン王国】
(都:ベルリン)
(同じホーエンツォレルン家の支配なので合体できた。)
スペイン継承戦争で神聖ローマ皇帝側を支援
→王国への昇格(1701)
→ドイツ最強国家へのし上がる
(父)【フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(位1713~1740)】
(兵隊王)
軍備拡張、官僚機構の整備
→絶対王政の確立
ポイント②合理的な絶対王政!?
啓蒙思想の影響を受けた国王の登場
(子)【フリードリヒ2世(大王)(位1740~1786)】
啓蒙専制君主
「君主は国家第一の僕(しもべ)」
(=国のために尽くす一番の部下が自分)
どうすればプロイセンが強くなるか・・を考え続けた。
・啓蒙思想家ヴォルテールと親交
・農場領主制(グーツヘルシャフト)
西欧への輸出用穀物の生産。(西欧は大航海時代で商工業にシフトして農業人口が減っていたため)大農場経営に。
↑↑
・ユンカー
エルベ川以東の領主貴族。グーツヘルシャフトを行う貴族。大王が支援。
・サンスーシ宮殿(ポツダム)
(※ドイツ連邦共和国・ベルリン郊外・ポツダム宣言の場所でもある)
・オーストリア継承戦争(1740~)&七年戦争(1756~)
→オーストリアからシュレジエンの獲得
→プロイセンの産業を支える
・第1回ポーランド分割(1772)
<by 3人の啓蒙専制君主>
・ヨーゼフ2世(オーストリア)
・フリードリヒ2世(プロイセン)
・エカチェリーナ2世(ロシア)
(3)ロシア絶対王政
ポイント①ビザンツ帝国の継承者!
ロシアはビザンツ帝国の地位をすべて継承する
【モスクワ大公国(だいこうこく)】(13~17C)
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅びたときに制度を引き継いだ。
・イヴァン4世(雷帝・位1533~1584)
ー「ツァーリ」の称号を正式に採用
ー コサック(ロシア南の騎馬民族)の首領イェルマークにシベリア探検を行なわせて、シベリアへ進出
【ロマノフ朝(1613~1917)】
・ミハイル=ロマノフ
ロマノフ朝の創始→農奴制の強化
・ステンカ=ラージンの反乱(農民反乱)
ポイント②ピョートル1世はロシア発展の基礎を築く
四方八方に領土を拡大するワケとは?
【ロシア帝国】
・ピョートル1世(大帝)(位1682~1725)
・西欧使節団の派遣
皇帝自ら西欧諸国を見聞
”貿易ルート”が欲しい・・!
↓↓
・北方戦争(1700~1721)ロシアの西
ロシア〇 VS ✕スウェーデンカール12世
↓↓
・ペテルブルクへ遷都(西洋への窓)戦の途中に
↓↓
・バルト海の覇権獲得
・アゾフ海(黒海)へ進出(17C末)ロシアの南
オスマン帝国より奪取
・ネルチンスク条約(1689)ロシアの東
清の康煕帝。中国が初めて外国と対等に結んだ条約。
ポイント③エカチェリーナ2世のちょっと変わった政治
啓蒙専制君主とされる皇帝の統治をみる
【エカチェリーナ2世(位1762~1796)】
・啓蒙専制君主(ヴォルテールと文通)
・学芸の保護、教育改革、法治主義
・農奴制の強化
農民には農業はさせておく方がロシアにはプラスと判断
(ヨーゼフ2世は解放しようとして失敗)
↓↓
・プガチョフの農民反乱(1773~1775)←鎮圧
<積極的な対外政策>
・クリミア半島を領有(黒海進出)
・ラスクマンを日本・根室へ派遣(1792)通称要求→失敗
・ポーランド分割(1772・1793・1795)
コシューシコの抵抗運動(米独立戦争に義勇兵として参加)
(4)絶対王政時代の文化(1)科学・哲学
ポイント①科学の大いなる発展!
絶対王政の時代にさまざまな科学的進歩がある。
<科学革命>
(物理学)
・ニュートン(1642~1727)英
万有引力の法則を発見『プリンキピア』
「リンゴが落ちた・・」
(化学)
・ラヴォワジェ 仏
質量保存の法則
「庶民から集めた税金を研究費にあてていたんだ・・(横領していた)」
・ボイル 英
「近代科学の父」気体の圧力と体積
(生物・医学)
・ジェンナー(1749~1823)英
種痘法(=天然痘の予防接種)を開発
「天然痘を抑える薬を見つけたかも・・よし誰かに試してみよう。」
最初は悪い評価→あとから評価が上がる
・リンネ スウェーデン
植物分類法
・ハーヴェー 英
血液循環説。心臓がポンプとなっていることを発見。
ポイント②近代的な世界観が構築される時代
哲学では合理主義的な思考が芽生える
(哲学)
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★【3つの哲学】
1.経験論(帰納法)フランシス=ベーコン
2.合理論(演繹法)デカルト・パスカル
3.ドイツ観念論 カント
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1【経験論】17~18C 英
・フランシス=ベーコン
「認識や知識は経験から得られるのだ。先天的に備わる先入観念は要らない」
『新オルガヌム』4種類の偏見を紹介
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「帰納法」
観察や実験で得られた個々の事例を集め、そこから一般的理論を導き出す。経験で結論を出す。
2【合理論】17C 仏
仮定を立てて頭で組み立てる。机上でできる。
・デカルト
「近代哲学の父」
『方法序説』「われ思う、ゆえにわれあり」(=すべての存在を疑う自分の中の自分。理性を持つ自分というのは最終的に疑うことはできない)
「人間の理性を認識の基礎とすべきだ。世界は論理的に把握できるのだ」
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「演繹法」(えんえきほう)
前提を立て、そこから論理的に結論を導き出す
「合理論」はデカルトの他にも・・
・スピノザ ユダヤ系オランダ
・ライプニッツ 独
・パスカル 仏『パンセ』『随想録』(1670)など
この2つを批判し、かつ統合
↓↓
3【ドイツ観念論】18C後~19C初
・カント
「認識とは理性が与えた形式で経験を理解すること。その理性には限界があるはずなんだ・・」
→「経験論」も「合理論」も頭が判断。人間は完全ではない・・。抜けがある。その抜けを見つける(つっこむ)ことによってよりレベルの高い意見が生まれる、とした。
『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』
” 批判する哲学 ”
(5)絶対王政時代の文化(2)政治・経済
ポイント①絶対王政を批判する思想の登場!
近代市民革命への思想的な基盤が完成
<政治・経済>
(市民階級の急成長・新思想の普及)
知識人が政治議論を交わす場所
・コーヒーハウス(英)
新聞・雑誌が閲覧可能
・サロン(社交場)
貴族・上流階級の女性が主催
・カフェ(仏)
文化人など市民が政治・文化を議論
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★【3つの政治的の考え方】
(1)自然法
(2)社会契約説
(3)啓蒙思想
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(1)自然法
・グロティウス 「国際法の祖」「近代自然法の父」
「私は三十年戦争の惨禍を目の当たりにし、国際法の必要性を痛感したんだ・・」
→「国に関係なく、人が守るべきルールがあるはずだ。」
『海洋自由論』『戦争と平和の法』
(2)社会契約説
国家のあり方について
・ホッブス
『リヴァイアサン』万人の万人に対する闘い
無秩序だと争いが絶えない。ある程度規制すべきだ・・絶対王政の擁護。
・ジョン=ロック
「政府とは我々の財産や幸福を守るために存在するものだ。もしおびやかすなら、政府をつぶしていいんだ」
『統治二論』(『市民政府二論』)
・ルソー
「人民に主権のある国家が理想的だ。今のフランスはおかしい」=絶対王政を批判
『社会契約論』『人間不平等起源論』
(3)啓蒙思想
・ヴォルテール
『哲学書簡』(イギリスだより)
「王権神授説」を批判。
「王の力は神から授かった?そんなのはくだらない!
私たちはもっと合理的に考えるべきだ・・!」
・モンテスキュー
『法の精神』三権分立 司法・行政・立法
・ディドロ、ダランベールら『百科全書』
ポイント②経済学の発展
国家を支えるための経済思想が発展
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★【3つの経済的な考え方】
(1)重商主義 コルベール
(2)重農主義 ケネー
(3)古典派経済学 アダム・スミス
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(1)重商主義 16~18C
コルベール
ルイ14世の財務総監「輸出産業を育てるには国家が積極的にお金を投資しなければ!」
国家が積極的に経済に介入する。
(2)重農主義 18C後仏
重商主義を批判。政府は経済に関与するな。=「自由放任主義」
ケネー『経済表』
(3)古典派経済学 18C後英
重農主義を受け継いだ
・アダム=スミス(1723~1790)「経済学の父」
自由放任を主張
「経済活動に国家はかかわるな。景気はすべて「見えざる手」によって調整されるのだ」
『諸国民の富』(『国富論』)
・マルサス『人口論』
・リカード
古典派経済学を確立
(6)絶対王政時代の文化(3) 芸術・文学
ポイント①宮廷を中心とした華やかな文化活動
王の権威を象徴する芸術
(美術)
【バロック美術】 16C後~18C初
派手で宮廷ごのみ
・エル=グレコ(「私はギリシアの人」という意味のPN)
「近代スペイン画の祖」
出身地クレタ島
・ベラスケス
光線の表現に工夫
・ルーベンス
「十字架立て」『キリストの十字架降下』
・レンブラント(1606~1669)
光と影の描写。『夜警』後に評価
派手なバロック美術よりもっと繊細に・・
↓↓
【ロココ美術】仏
・ワトー
田園・宮廷画
(音楽)
【バロック音楽】 16C後~18C初
派手で豪華
・バッハ「近代音楽の父」
プロイセン・フリードリヒ2世の宮廷で演奏
・ヘンデル 英
英・宮廷音楽家
【ドイツ古典派音楽】
・ハイドン「交響曲の父」
・モーツァルト 交響曲など多くの傑作
・ヴェートーベン
古典派音楽を集大成し、ロマン派音楽への道を拓く
ポイント②文学作品にも時代の特色が現れる!
絶対王政の時代らしい作品の登場
(文学)
【フランス古典主義文学】17C
ルイ14世の頃。王様好み。ギリシア、ローマ時代の調和の取れた形式的な美しさを持つ作品がモデル。
・コルネイユ 古典主義の悲劇を創始
・ラシーヌ 古典主義の悲劇を大成
・モリエール 古典主義の喜劇を大成
【イギリス市民文学】
英は市民革命を早く迎えたため(世界初)自由な作風が多い。
・ミルトン『失楽園』・・『旧約聖書』の楽園喪失を題材
・デフォー『ロビンソン=クルーソー』冒険小説
・スウィフト『ガリヴァー旅行記』英の社会風刺。小人の国や巨人の国。天空島ラプータ。