【24】フランス革命とナポレオン – 歴史note

【24】フランス革命とナポレオン

【24】フランス革命とナポレオン
(1)革命前夜の状況と革命の勃発
(2)国民議会と立法議会
(3)国民公会と総裁政府
(4)ナポレオン時代のはじまり(1799~1815)
(5)ナポレオン時代の終焉

・国民議会(立憲君主)王様はあり。ルールに基づく。
・立法議会(穏健共和)王様は不要。(緩く)
・国民公会(急進共和)王様は不要。(早く・独裁)
・総裁政府(5人。混乱)
(ナポレオン)
・統領政府(秩序の回復)
・第一帝政(大陸制覇)仏革命の理論を拡大


(1)革命前夜の状況と革命の勃発

ポイント①こんなフランスはおかしい!
アンシャン・レジームの矛盾と財政の危機

アンシャン・レジーム(旧体制)
第一身分:聖職者 (特権身分)免税 ↘
第二身分:貴族  (特権身分)免税 →人口の2%
第三身分:平民 98%
・富裕層(立憲王政)王様はいてもいい。法律に則ってほしい。
・中産階級(穏健共和)王様は要らない
下層階級(急進共和)王様は要らない。早急な改革を望む。
→小作人2000万人・都市労働者400万人。人口の90%

束縛はイヤだ
・啓蒙思想の普及。自由、平等。
・アメリカ独立革命の成功

ヨーロッパ内の戦争、植民地戦争、米独立戦争の支援など
↓↓
財政難

ポイント②革命前夜の財政改革
特権身分への課税を試みるも・・

【財政改革(ルイ16世・マリ=アントワネット)】
2人の改革
テュルゴー
重農主義。穀物取引の自由化、ギルドの廃止→失敗

財務総監ネッケル
特権身分への課税→猛反発

↓↓

三部会の再開(1789)170年ぶり
(1302年フィリップ4世が開く→1614年ルイ13世が停止)
身分別議決法(課税反対2・賛成1にしかならない)をめぐり紛糾。

シェイエス(下級聖職者)
『第三身分とは何か』・・特権身分を批判
(「全てだ」)

・第三身分の代表者が三部会から離脱
↓↓
・「国民議会」の開催(1789年6月)
球戯場(テニスコート)の誓い(1789)
「憲法制定まで解散しない!」

国王軍がヴェルサイユへ集まり始める・・


(2)国民議会と立法議会
ポイント①いよいよ革命のスタート
革命の初期は思いもよらぬ形で波瀾万丈・・

国民議会】(1789~1791)
立憲君主派が中心=王様はいてもいい。

<フランス革命スタート!>
バスティーユ牢獄襲撃(1789.7.4)
政治犯が収容。武器があった。
ネッケルの罷免と国王軍のヴェルサイユ集結に市民が反発。襲撃。
↓↓
しかし農民反乱を誘発してしまった。全国に広がる。
↓↓
国民議会はあわてて農民反乱をおさえようとする。
<2つの策>
[1]封建的特権の廃止
中世から続く諸々の税を廃止(領主裁判権、十分の一税、死亡税など)
※封建地代は有償廃止=「ただし土地代だけは払ってね。」
→このときの国民議会(立憲君主派)は地主が多いため。

[2]「人権宣言」の発表(1789)
革命の方向性を示す
貴族:ラ・ファイエットら起草(米独立戦争の義勇軍)
自由・平等

ポイント②革命の急進化!国王への信頼は下がり続ける↓↓
共和主義者の人気が上昇

ヴェルサイユ行進(1789.10)
パリの穀物価格高騰を受け、婦人らが雨中20kmを行進。
「パンが買えない!」
国王一家がヴェルサイユからパリへ連行される。

ミラボーの死去
国王と国民議会との裏取引役。王は不安に・・
↓↓
ヴァレンヌ逃亡事件(1791.6)
国王一家がオーストリアへ逃亡→失敗。国王の権威失墜・・!
→代わりに共和主義者の台頭。

ピルニッツ宣言(1791.8)
オーストリア皇帝とプロイセンが革命への干渉を諸国へ呼びかけ。
「仏王に手を出すな」と脅迫。
↓↓
国民議会はプロイセンとの関係を考え、憲法制定。

1791年憲法の制定
立憲君主政、財政資格選挙(金持ちのみ選挙)→国民議会の解散

 

ポイント③国王のいないフランスへ
共和制へ向けての移行と訪れた苦難

制限選挙(金持ちのみ投票)が行われる
↓↓
立法議会(1791~1792)】(穏健共和)

・議会内での対立
フイヤン派(立憲王政=国民議会)vs ジロンド派(穏健共和)

ジロンド派内閣の成立
王様には消えてほしいが、ピルニッツ宣言がある・・。それならまずオーストリアを倒す必要がある。

対オーストリア宣戦→フランスは劣勢
各地より義勇軍がパリに集結。

8月10日事件(1792.8)】(=テュイルリー宮殿襲撃)
・サンキュロット(都市労働者)や義勇兵が、仏国王のいるテュイルリー宮殿を襲撃。
・議会は裕福な人たちだから通らない。直接王に直談判。実力行使。
→立法議会は王権の停止を宣言。議会を解散。
普通選挙を約束して混乱を鎮める。

↓↓ 革命軍はやる気が上がって

ヴァルミーの戦い(1792.9.20)
仏革命軍が初めてプロイセン軍に勝利〇

 


(3)国民公会と総裁政府
ポイント①ついに初の男性普通選挙の開催
ジャコバン派政権の恐怖政治

初の男性普通選挙の結果・・
国民公会(1792~1795)】
ジャコバン派(急進共和派)
貧困市民・農民代表

ルイ16世処刑(1793)
第一共和政(仏初の王がいない状態)(1793~1804)

第1回対仏大同盟(1793~1797)
英首相ピットの提案
「他の国に広がらないようにフランス革命をぶっつぶそう・・」

それに対して国民公会は
・徴兵制の実施
→ヴァンデーの農民反乱(徴兵制は失敗)
山岳派(ジャコバン派の過激派)が急速に台頭

恐怖政治(1793~1794)
公安委員会に権力を集中
指導者:ロベスピエール
反対派はギロチンで処刑される。

封建地代の無償廃止
借りていた土地はただで農民のものになった。小作農→自作農に。
これで農民はもう満足してしまった。
<※人口の8割以上が自作農に→仏で産業革命が遅れる原因になる>

・最高価格令、革命暦(共和暦)、メートル法の制定

1793年(ジャコバン)憲法
男性普通選挙制、主権在民、人民の生活権、労働権
→混乱していて実施されず。。

テルミドール(9日)のクーデタ(1794.7)
ロベスピエール派の逮捕・処刑

 

ポイント②もう独裁はこりごり。リーダー5人の政府
右派・左派の攻撃をうけ動揺する政府

総裁政府(1795~1799)】
1795年憲法の制定
財産資格による制限選挙制の復活
5人の総裁による政府
→時間がかかる・・

王党派の反乱(フランス革命を抑えたい)(右派・保守)

バブーフの陰謀(左派)
私有財産の廃止を計画。共産主義のはしり。→処刑される

ナポレオン=ボナパルトの登場】
イタリア遠征
仏〇 VS ✕ オーストリア
→第1回対仏大同盟の崩壊

エジプト遠征
仏✕ VS 〇英
英のインドルートを邪魔しようと思ったが・・
→英提督ネルソンに敗北
第2回対仏大同盟の結成

フランス革命の敵であるオーストリアと英と戦ったので国民に人気が出る。
↓↓
ブリュメール18日のクーデタ(1799.11)
ナポレオン、総裁政府を打倒
→フランス革命の集結

<フランス革命はバスティーユで始まりブリュメール18日で終わる>

 


(4)ナポレオン時代のはじまり
ポイント①統領政府時代のナポレオン
国民からの人気を集めるための方法

統領政府(1799~1804)】
・リーダー3人の統領。ナポレオンは第一統領。事実上の独裁官。

ローマ教皇と和解
カトリック信仰を正式に復活。
(対立していた理由。フランス革命はキリスト教に敵対する革命でもあったから。第一身分が聖職者なので)

アミアンの和約
英との休戦条約
第2回対仏大同盟が崩壊
→フランスに平和が戻る
終身統領に。。

ナポレオン法典(1804)
私有財産の不可侵
、契約の自由などを規定
=フランス革命の成果を法的に保障した。
(ナポレオンの人気が一気に上昇!)

ポイント②皇帝に即位した英雄ナポレオンの動向
大陸制覇にむけての遠征をスタート

国民投票でナポレオンが皇帝に即位
第一帝政(1804~1815)
ナポレオン1世(位1804~1815)

周りの諸国が警戒
↓↓
第3回対仏大同盟(1804~1815)(英・墺・露)

トラファルガーの海戦 ✕
英提督ネルソンに敗北

アウステルリッツの三帝会戦
ロシア皇帝、オーストリア皇帝、仏ナポレオン皇帝が三つ巴。
仏勝利〇、ロシアオーストリアを撃破
第3回対仏大同盟が消滅

ライン同盟の結成(1806)
西南ドイツ諸侯とナポレオンの同盟
→神聖ローマ帝国消滅(1806)

大陸封鎖令(ベルリン勅令)(1806)
(プロイセンをぶっとばして、プロイセンの首都ベルリンで発布したので「ベルリン勅令」ともいう。)
→大陸諸国とイギリスの通商や交通を全面的に禁止。
「今まで英から買っていたものは仏から買いなさい」→他国を仏の市場にする

ティルジット条約
プロイセンは莫大な賠償金と領土の大半の割譲

 


(5)ナポレオン時代の終焉
ポイント①ナポレオンを追い出せ!
プロイセンの近代化改革とスペイン反乱

プロイセンはティルジット条約が許せない・・
↓↓
プロイセン改革】強い国にする!
首相シュタインハルデンベルク
農民解放
・行政機構の改革、営業の自由化など

「ドイツ国民に告ぐ」フィヒテ
「私たちはドイツ人なんだ。仏の支配はおかしい」
国民意識を人々に植え付けた。

スペイン反乱】(1808~1814)
ナポレオン兄が国王に即位
↓↓
農民が主体となってゲリラ戦で抵抗
(→絵画『1808年5月3日』ゴヤ)

 

ポイント②ナポレオンの没落までの道
各地で発生したナショナリズム運動

“ナポレオンの牙が折れる瞬間・・!”

ロシア(モスクワ)遠征(1812)
ロシアは大陸封鎖令を無視。英と貿易再開。
ナポレオン軍モスクワへ・・
→ロシアの焦土戦術により失敗
60万の軍が壊滅・・
↓↓
【ナポレオンの失脚】
ライプツィヒの戦い(1813)=諸国民戦争
ヨーロッパ連合〇 VS ✕ナポレオン
ナポレオン皇帝退位
エルバ島へ流刑。(実家コルシカ島のすぐ北)
↓↓
ブルボン朝の復活(1814)
絶対王政に戻りそうになる・・
→ナポレオン、エルバ島を脱出
パリに帰国、皇帝に復位
↓↓
ワーテルローの戦い(1815)
ヨーロッパ諸国が攻める。
ナポレオン再退位
セントヘレナ島へ流刑(アフリカの西)

※ナポレオンの侵攻により国民意識(ナショナリズム)が芽生えた。「自分たちはドイツ人、スペイン人。フランス人は嫌だ」

 


 

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