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「光る君へ(2)めぐりあい」メモ

「光る君へ」第2回メモ
2024/01/14放送

永観二年(984年)

成人の儀式。裳着(もぎ)

「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」
(訳)子を持つ親の心は闇というわけではないが、子どものことになると道に迷ったようにうろたえるものです。

藤原兼輔(かねすけ)の歌。まひろの曾祖父。
百人一首。27「みかの原わきて流るゝ泉川 いつ見きとてか恋しかるらむ」中納言兼輔


検非違使
別当(べっとう)・・長官

蔵人頭(くろうどのとう)円融天皇の側近の長。秘書。
藤原実資(さねすけ)「小右記」

懐仁(やすひと)親王。後の66代一条天皇。

 

道長:右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)。従五位下(じゅごいのげ)。

詮子:梅壺(うめつぼ)の女御(にょうご)

凝花舎(ぎょうかしゃ/[梅壺]うめつぼ)後宮の殿舎のひとつ。壺(中庭)に紅白の梅を植えたことから「梅壺」ともいう。飛香舎(ひぎょうしゃ)の北に建つ。


斉(せい)の名君。孟嘗君(もうしょうくん)

鶏鳴狗盗(けいめいくとう)

秦の昭王(しょうおう)に捕らわれた


「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔」

(訳)近くによってはっきり御覧になったらどうですか。黄昏時にぼんやり見えた夕顔の花を

 

源氏物語。夕顔。

「あなたはもしや光源氏ではありませんか?」という問いかけに

「心あてに それかとぞ見る 白露の 光添へたる 夕顔の花」(訳)しっかりとみてみれば光源氏かどうかわかりますよ、会ってみませんか。

と返した。


散楽(さんがく)
春の女御(遵子)
秋の女御(詮子)


痴れ者(しれもの)。おろかな者。

道兼:蔵人。
陪膳(ばいぜん/はいぜん)。食事係。


高麗人(こまびと)高麗の国の人


ちょうこう【趙高】  中国、秦の宦官(かんがん)。始皇帝の死後、丞相の李斯(りし)と謀って、始皇帝の長子扶蘇を殺し、次子の胡亥(こがい)を二世皇帝とした。


式部丞(しきぶのじょう)・・式部省の判官(3番目)四人の総称。 大丞は正六位下、少丞は従六位上相当。


<光る君へ紀行>第2回

京都御所。京都市中心部。

鎌倉末期から江戸の終わりまで天皇の住まいだった。

今の建物は1855年に再建。

今も皇室行事や国賓をもてなす場として使われている。

紫宸殿(ししんでん)。内裏の正殿。

 

御所から西に位置する千本丸太町。

大極殿跡。

平安宮があった場所。

弘徽殿(こきでん)跡。

「光る君へ(1)約束の月」メモ

「光る君へ」第1回メモ

貞元(じょうげん)二年(977年)
大内裏(だいだいり)

陰陽寮(おんようりょう)・・天文・時・暦・占い。
中務省(なかつかさしょう)(天皇の命令作りの原案作り)に属する。

安倍晴明(あべのはるあきら/せいめい)天文博士(てんもんはかせ)正七位下


まひろ(紫式部)

父・藤原為家(学者)

蒙求(もうぎゅう)
王戎簡要 (おうじゅうかんよう)

母・北の方様
(まひろの母)
布を食べ物に換える。
琵琶を弾かなくなった。


<藤原道長の家>
父・藤原兼家(かねいえ)(東三条殿・大納言⇒詮子入内で右大臣に)
長男・藤原道隆(みちたか)
次男・藤原道兼(みちかね)
長女・藤原詮子(せんし/あきこ)
三男・藤原道長(みちなが)

道隆の嫡妻(ちゃくさい)(本妻):高階貴子(たかしなのたかこ)


藤原信孝(のぶたか)為家の親戚

・式部省(しきぶしょう)・・教育、役人の人事(今の文部科学省)

・少丞(しょうじょう)・・判官(じょう)(3番目)、従六位上(じゅろくいじょう)

・除目(じもく)・・天皇、大臣、参議以上の公卿による人事の会議。諸官職や国司を任命する朝廷の儀式。

春(正月)=県召の除目(あがためしのじもく)国司の任命
秋(8月)=司召の除目(つかさめしのじもく)内官の任命

 

・清涼殿(せいりょうでん)・・天皇の日常の居所。政治の中心場所。

 


「史記」馬鹿の語源

権力を欲しいままにした趙高(ちょうこう)。

「鹿」を連れてきて、これは「馬」だと言った。正直に「これは鹿です」と言った者は処刑され、「馬です」と言った者は助かった。

 


64代 円融天皇
在位年:969(11才)~984(26才)

父:藤原頼忠(よりただ)関白・太政大臣
娘:藤原遵子(じゅんし/のぶこ)

藤原基経(もとつね)

藤原忠平(ただひら)

藤原実頼(さねより)

藤原頼忠(よりただ)


大仰(おおぎょう)・・大げさ


散楽(さんがく)

コウメイ。源高明。
安和の変(969年)で藤原氏に排斥された。
それを演じている。

午の刻(うまのこく):11時~13時
未の刻(ひつじのこく):14時~16時


東宮・師貞親王(もろさだしんのう)
後の65代・花山(かざん)天皇

春宮坊(とうぐうぼう)


<光る君へ紀行>

平安神宮。

平安遷都1100年を記念して作られた。(1894年)

大極殿(だいごくでん)。政治の場。

時代祭。平安遷都の10月22日。

京都市北西部。紫野(むらさきの)。

紫式部が生まれたとも、晩年を過ごしたとも言い伝えられている。

三筆(さんぴつ)/三蹟(さんせき)平安時代

【三筆】さんぴつ(平安初期)

・嵯峨天皇(さがてんのう)

・橘逸勢(たちばなのはやなり)

・空海(くうかい)


【三蹟】さんせき(平安中期)

・小野道風(おののみちかぜ/とうふう)
参議・小野篁(さんぎ・おののたかむら)の孫

・藤原佐理(ふじわらのすけまさ/さり)
藤原実頼(さねより)の孫

・藤原行成(ふじわらのゆきなり)

 

雄藩(ゆうはん)。江戸後期

雄藩(ゆうはん)。江戸後期。

・薩摩藩 調所広郷(ずしょひろさと)。家老。借財を解消。琉球との貿易。黒砂糖の専売。

・薩摩藩主 島津斉彬(しまづなりあきら)。鹿児島に反射炉やガラス製造工場を設けた。

洋式工場群→集成館

・長州藩 毛利敬親(もうりたかちか)が登用。村田清風(むらたせいふう)。灯明(とうみょう)に使う蝋(ろう)を専売。

・肥前藩(佐賀藩)主 鍋島直正(なべしまなおまさ)本百姓体制の再建(均田製)など農村復興。磁器の専売。

大砲、反射炉。

・土佐藩(高知藩)おこぜ組

・水戸藩主 徳川斉昭(なりあき)

 

 

藩政改革。藩校(はんこう)

藩政改革。藩校。

・熊沢蕃山(くまざわばんざん)花畠教場

・秋田藩主 佐竹義和(さたけよしまさ)明徳館(めいとくかん)。天明の飢饉の後、農鉱林業を奨励。織物、製紙、醸造など。

・米沢藩主 上杉治憲(はるのり)鷹山(ようざん)興譲館(こうじょうかん)を再興。学問を奨励。

・水戸藩 徳川斉昭(なりあき) 弘道館

・長州(萩)藩 明倫館

・会津藩 日新館

・熊本藩 肥後藩主 細川重賢(しげかた) 時習館(じしゅうかん)。治水、税の軽減。文武を奨励。

・薩摩藩 造士館(ぞうしかん)

儒学者

儒学者


by「歴史下巻 改訂版 (中学入試まんが攻略BON!) 」

【朱子学】

藤原惺窩(ふじわらせいか)
初代家康に仕える。

林羅山(はやしらざん)
「本朝通鑑(ほんちょうつがん)」。初代家康に仕える。

木下順庵(きのしたじゅんあん)
朱子学者。加賀藩主・前田綱紀に仕える。5代綱吉の侍講(儒学の師)。新井白石が仕える。

室鳩巣(むろきゅうそう)
8代吉宗の侍講。

南村梅軒(みなみむらばいけん)
土佐、南学派(海南学派)の祖。

桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)
朱子学、薩南派の祖。薩摩藩に招かれた。

山崎闇斎(やまざきあんさい)
南学派。垂加神道(すいかしんとう)。

 


【陽明学】

中江藤樹(なかえとうじゅ)
日本初の陽明学者。「近江聖人(おうみせいじん)」。

熊沢蕃山(くまざわばんざん)
中江藤樹の弟子。岡山藩主・池田光政に招かれる。私塾は花畠教場(はなばたけきょうじょう)。

「大学惑問(だいがくわくもん)」が幕府を批判していると禁錮にされる。


【古学派】

山鹿素行(やまがそこう)
「聖教要録」で朱子学を批判し赤穂に配流。


【古義学(こぎがく)派】

伊藤仁斎(いとうじんさい)
古義堂。堀川学派(古義学派)。


【古文辞学(こぶんじがく)派】

荻生徂徠(おぎゅうそらい)
蘐園塾(けんえんじゅく)。蘐園学派(古文辞学派)。「政談(せいだん)」で吉宗に参勤交代の弊害を説いた。

太宰春台(だざいしゅんだい)
「経済録」経世済民(けいせいさいみん)。

 

池田家

・池田恒興(つねおき)

・池田光政(みつまさ)
岡山藩主。陽明学者の熊沢蕃山(くまざわばんざん)を登用し、儒学で藩政改革を行う。

熊沢蕃山の私塾は花畠教場(はなばたけきょうじょう)。

島津家

薩摩・島津家

島津義久(よしひさ)
1586 秀吉の九州平定で降伏した。

 

島津家久(いえひさ)
1609 琉球王国を武力で征服。

 

島津斉彬(なりあきら)
幕末。名君中の名君といわれる。篤姫を徳川に送る。

(「大奥」「だんドーン」に登場。)

 

島津久光(ひさみつ)国父
1862 文久の改革

※斉彬とは異母兄弟。斉彬が兄、久光が弟。

松平家

松平信綱(のぶつな)
1637 島原の乱を鎮圧。川越藩の藩主となった老中。

 

松平定信(さだのぶ)
寛政の改革。天明7年(1787)-寛政5年(1793)。吉宗の孫。

 

・松平慶永(よしなが)/春嶽(しゅんがく)
越前藩主。徳川(一橋)慶喜を推した一橋派の中心人物(1857頃)

1862年、文久の改革で「政事総裁職(せいじそうさいしょく)」になる。

 

松平容保(かたもり)
会津藩主。新撰組。

1862年、文久の改革で「京都守護職」になる。
(「燃えよ剣」)