『軍師官兵衛』2014 – ページ 3 – 楽しく歴史

「軍師官兵衛」Disc1-第4回「新しき門出」メモ

第4回「新しき門出」

堤を築く。

 

永禄10年(1567年)

室町幕府は衰亡の一途をたどっていた

越前 一乗谷
足利義昭(よしあき)(のちの15代将軍)
13代将軍 義輝(よしてる)の弟

朝倉家に身を寄せている。
細川藤孝。
明智光秀。

小寺家にも黒田家にも義昭から書状が届く。


官兵衛と光(てる)との出会い

山桃を渡し「これで仲直りです。」


雉狩り

 

櫛橋家との縁談。

父・元職は、官兵衛に家督を譲る。

黒田家の生き残る道。


美濃 墨俣城(すのまたじょう)

木下藤吉郎は西美濃(にしみの)三人衆を寝返らせた。

藤吉郎の弟 小一郎(秀長)

 

永禄10年8月 信長は美濃を攻略
稲葉山城を落とした。

「岐阜」と名付ける。

「天下布武」

新しき秩序、新しき世、乱世は終わりだ!

滝川一益(たきがわ かずます)
丹羽長秀(にわながひで)
佐久間信盛(さくまのぶもり)

柴田勝家
明智光秀


信長は岐阜で楽市を始める。

岐阜城下では税をかけない。

商人が集い活気に満ち溢れている。

豊かになり、国が大きくなる。


家督を譲る件

官兵衛「私にはまだ早いかと・・。」

父「皆が口をそろえて言うのじゃ。黒田は立派な跡継ぎを持っているとな。。わしもそう思う。。」

父「頼んだぞ」

官兵衛「はい。。」

父「うん。。うん。。」


永禄11年(1568年)7月

足利義昭は信長の招きを受け、越前から岐阜に移った。

信長は義昭に上洛する(京都をめざす)ことを宣言。

 

永禄11年(1568年)9月
信長は上洛の兵をあげた。


<官兵衛紀行>

兵庫県加古川市

志方町

官兵衛の妻、光(てる)の出身。

志方城主・串橋左京之介の娘。

観音寺(志方城跡)

才知と人徳を兼ね備えて信仰心の厚い人物だと伝わる。

十一面観世音菩薩像

櫛橋家の念持仏

志方八幡宮

義父の櫛橋伊定(くしはしこれさだ)は櫛橋家に代々伝わる兜と具足を官兵衛に送った。

「合子形兜(ごうすなりかぶと)」

後に「如水(じょすい)の赤合子(あかごうす)」(如水は官兵衛の号)として畏れられた。

 

「軍師官兵衛」Disc1-第3回「命の使い道」メモ

第3回「命の使い道」

おたつは浦上氏・室津城に嫁いだが、婚礼の日、赤松が攻めた。

御着城主 小寺政職(まさもと)


信長 美濃攻略に苦戦

竹中半兵衛16名で稲葉山城を落とす。

斎藤龍興(さいとうたつおき)を追い出す。

そのあと城を返した。


「怒りはまた喜ぶべく
憤りは悦ぶべきも
亡国はまた存すべからず
死者はまた生くべからず」
ー孫子

一時の怒りや憤りで戦を起こしてはならない。
死んだ者が再び生き返ることもない。


黒田重隆(しげたか)官兵衛の祖父
「黒田家の礎を築き、官兵衛を見守り続けた生涯であった。」


官兵衛は堺へ

浪人 荒木村重(あらきむらしげ)

1565年 永禄の変(えいろくのへん)
第十三代将軍 足利義輝暗殺(公方様)

松永久秀、三好三人衆が謀反。二条御所を襲撃。
その後仲間割れ。京、畿内が戦に。。

南蛮人 ルイスフロイス(ポルトガル)

堺は栄えている。将軍でも大名でもなく、「会合衆(えごうしゅう)」と呼ばれる豪商が力を持つ。

荒木は摂津へ。。

 

会合衆の一人、今井 宗久(いまいそうきゅう)

鉄砲を買い付ける。

織田信長の使いで木下藤吉郎が鉄砲を買いに来た。

藤吉郎「今のこの堺の栄華が戦の道具を売ることによって成り立っているのは何とも因果なものですな・・」

宗久「お武家様にはお分かりいただけないでしょうが、これが堺のあきんどの戦なのです。」

 

官兵衛キリシタンに出会う。

 


 

<官兵衛紀行>

堺 堀をめぐらせた。環濠跡。
会合衆(豪商)が街を治めていた。

戎(えびす)公園 (ザビエル公園)
フランシスコザビエルは布教の許可を得るため堺を拠点にした。

千利休屋敷跡
茶の湯。

級鉄砲鍛冶屋敷。
鉄砲の生産。

妙國寺(みょうこくじ)
信長が堺に来た時の宿。

堺は文化、技術の発信地として栄えた。
戦国の人々の憧れの町だった。

 

 

 

「軍師官兵衛」Disc1-第2回メモ

第2回「忘れえぬ初恋」

永禄4年 1561年
播磨・御着城

父 串橋左京亮(くしはしさきょうのすけ)(小寺のいとこ)
息子 串橋左京進(くしはしさきょうのしん)
田辺

御方様(おかたさま)
小寺政職の正室 お紺

永禄5年 1562年
播磨・龍野城
赤松政秀

赤松が小寺領内に攻め込んだ戦い

官兵衛 初陣

「半ば進み半ば退くは誘い也」孫子

善助(ぜんすけ)


織田信長
美濃・斎藤龍興(たつおき) 稲葉山城 城主
軍師 竹中半兵衛

柴田権六(ごんろく)勝家

十面埋伏の陣(じゅうめんまいふくのじん)

弟・織田信行(のぶゆき)
母・土田御膳(どたごぜん)

木曽川筋・川波宗
蜂須賀小六

小寺と赤松が職隆(もとたか)の尽力で和議。

赤松は西の浦上氏・室津城の攻略を企てていた。

浦上氏から御着城・小寺氏に同盟を求める。

浦上家の室津は海路を制する要地。浦上と小寺が結べば、赤松は追いつめられ戦になる。

 

永禄7年 1564年

輿入れ


<官兵衛紀行>

兵庫県 姫路市 御着城

小寺正元

小寺は播磨の守護、赤松氏の衰退に乗じて勢力拡大。

小寺大明神

御着城址(し)(JR御着 徒歩10分)
山陽道の宿の一つ

発掘
白磁小碗
香炉
囲碁、将棋の駒など

小寺氏が経済力の高い戦国大名であったことが分かる。

御着は官兵衛の青春時代の場所。

 

「軍師官兵衛」Disc1-第1回メモ 大河2014

第1回「生き残りの掟」

1590年(天正18年)
小田原 豊臣秀吉

黒田官兵衛
「人は殺せばそれまで。生かしてこそ使い道があるのです。」



天文15年(1546年)11月29日
黒田孝高(よしたか)は黒田職隆(もとたか)の嫡男として、播磨国の姫路に生まれた。

永禄元年(1558年) 播磨・姫路

黒田官兵衛  12才
小寺万吉(こでらまんきち)(幼名)

万吉のもり役
父:母里小兵衛(もり こへえ)
息子:母里武兵衛(もり ぶへえ)

万吉の母 いわ


広峯明神(ひろみねみょうじん)
農耕の神

御師(おし)
五穀豊穣のお札を諸国に売り歩く
伊吹善右衛門(いぶきぜんえもん)

山口で南蛮人、伴天連(バテレン)(神父・キリスト教者)を見た。
びいどろ(ガラス)、鉄砲

陣触れ(じんぶれ):出陣命令


姫路城城主
・黒田職隆(もとたか)・・官兵衛の父

主君は、小寺 政職(こでら まさもと)
浪人の身であったが家老に取り立ててもらい、小寺姓をもらう

黒田職隆の弟
・井手友氏(いでともうじ)/休夢(きゅうむ)


尾張 織田信長
藤吉郎 豊臣秀吉


龍野城  | 姫路城 |   御着城
赤松氏  | 黒田氏 |   小寺氏
 
赤松氏(播磨の守護大名)

小寺氏の家老
小河 良利(おごう よしとし
江田 善兵衛(えだ ぜんべえ)

石川源吾



万吉の祖父 黒田重隆(しげたか)

龍野城・赤松氏に仕えていた。

目薬で財をなし、その財を民に貸し出し、代わりに家来になってもらった。
御着の殿のお目にとまり仕官することになった。

「霊験(れいげん)あらたか」神仏による効験が明らかに表れるさま


龍野・龍神池(りゅうじんいけ)


赤松氏の使者
円満(えんまん)

龍野城 城主
赤松 政秀(あかまつ まさひで)


母「万吉。まっすぐ生きるのです。

母はずっとあなたを見守っていますからね。」


後添え(のちぞえ):後妻

野武士(のぶし):山野にひそんでいて、落武者の武具をはぎ取る、武士や土民の集団。


三略「謀は密なるをもってよしとする」


尾張 熱田神宮

1560年 桶狭間の戦い

海道一の弓取り 今川義元

織田信長は、居場所を教えた梁田の報償が一番多かった。


<官兵衛紀行>

天文15年 1546年

黒田官兵衛は姫路に生まれた。

姫路城には官兵衛が普請した石垣が残る。

十字紋の鬼瓦
キリシタンだった官兵衛のゆかりの瓦。

 

広峯神社のお札

農業の神。

播磨灘