第4回「新しき門出」
堤を築く。
永禄10年(1567年)
室町幕府は衰亡の一途をたどっていた
越前 一乗谷
足利義昭(よしあき)(のちの15代将軍)
13代将軍 義輝(よしてる)の弟
朝倉家に身を寄せている。
細川藤孝。
明智光秀。
小寺家にも黒田家にも義昭から書状が届く。
官兵衛と光(てる)との出会い
山桃を渡し「これで仲直りです。」
雉狩り
櫛橋家との縁談。
父・元職は、官兵衛に家督を譲る。
黒田家の生き残る道。
美濃 墨俣城(すのまたじょう)
木下藤吉郎は西美濃(にしみの)三人衆を寝返らせた。
藤吉郎の弟 小一郎(秀長)
永禄10年8月 信長は美濃を攻略
稲葉山城を落とした。
「岐阜」と名付ける。
「天下布武」
新しき秩序、新しき世、乱世は終わりだ!
滝川一益(たきがわ かずます)
丹羽長秀(にわながひで)
佐久間信盛(さくまのぶもり)
柴田勝家
明智光秀
信長は岐阜で楽市を始める。
岐阜城下では税をかけない。
商人が集い活気に満ち溢れている。
豊かになり、国が大きくなる。
家督を譲る件
官兵衛「私にはまだ早いかと・・。」
父「皆が口をそろえて言うのじゃ。黒田は立派な跡継ぎを持っているとな。。わしもそう思う。。」
父「頼んだぞ」
官兵衛「はい。。」
父「うん。。うん。。」
永禄11年(1568年)7月
足利義昭は信長の招きを受け、越前から岐阜に移った。
信長は義昭に上洛する(京都をめざす)ことを宣言。
永禄11年(1568年)9月
信長は上洛の兵をあげた。
<官兵衛紀行>
兵庫県加古川市
志方町
官兵衛の妻、光(てる)の出身。
志方城主・串橋左京之介の娘。
観音寺(志方城跡)
才知と人徳を兼ね備えて信仰心の厚い人物だと伝わる。
十一面観世音菩薩像
櫛橋家の念持仏
志方八幡宮
義父の櫛橋伊定(くしはしこれさだ)は櫛橋家に代々伝わる兜と具足を官兵衛に送った。
「合子形兜(ごうすなりかぶと)」
後に「如水(じょすい)の赤合子(あかごうす)」(如水は官兵衛の号)として畏れられた。