『軍師官兵衛』2014 – ページ 2 – 楽しく歴史

「軍師官兵衛」Disc4-第14回「引き裂かれる姉妹」メモ

「軍師官兵衛」Disc4-第14回「引き裂かれる姉妹」メモ

天正5年 1577年 11月
福原城 織田と毛利が激突。1日で織田が勝つ。
播磨の中で毛利に味方するのは上月城のみとなった。

上月城
身内同士の戦い。力(りき)とてる。
官兵衛が調略にいくが上月影貞(義兄)は毛利側のまま。

官兵衛の家臣団も仲間割れ。太兵衛と右衛門が喧嘩。

山陰の麒麟児、山中鹿介(やまなかしかのすけ)、尼子勝久(あまご かつひさ)
はやる官兵衛軍を助ける。半兵衛が根回ししてくれていた。

尼子家は毛利家に滅ぼされ再興をめざしていた。
「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った。

今日は身内が相手で焦りが出た。。と反省する官兵衛。
鹿介「自らのしくじりをつぶさに顧みるはなかなかできぬこと。。官兵衛殿はいずれとてつもない戦上手になられるでしょう。生き残っておれば・・の話ですが。ははは。」

家臣が謀反。上月影貞は討たれる。上月城は落城。
(宇喜田直家が後ろで糸をひいていた)

秀吉は上月城を尼子家に任せた。

播磨平定。

しかし上月城の家臣は信長によってみな討たれた。。←謀反して降伏したため。

信長は乙御前(おとごぜ)の茶釜を秀吉に。

「軍師官兵衛」Disc4-第13回「小寺はまだか」メモ

「軍師官兵衛」Disc4-第13回「小寺はまだか」メモ

秀吉の援軍が播磨に来る。
姫路城を明け渡す。義兄弟の書状。

粉骨砕身(ふんこつさいしん)・・(骨を粉にし身を砕いて)力の限りを尽くすこと。

秀吉のところに挨拶に来る。
神吉城主。神吉頼定 (かんきよりさだ)
三木城の別所長治と御着城の小寺は来ない。

秀吉的には別所重宗(しげむね)と官兵衛をつなぎとめるのが肝要。
重宗の娘と官兵衛の嫡男松寿丸を縁組みさせる。


長浜城で、おねの元で松寿丸、福島正則、加藤清正も一緒に育つ。


摂津。本願寺との闘い。荒木村重、高山右近、中川清秀が苦戦。


秀吉の方から小寺に会いにいく。プレッシャーかける。


天正5年 1577年 11月
秀吉8千の軍勢は西播磨へ。
福原城。
囲師必闕(いしひっけつ)。孫子の兵法。
三方を囲んで一方だけ逃げ道を作る。

大儀。天下統一。乱世を終わらせて天下泰平に。。
軍師官兵衛 ここに誕生。。

 

「軍師官兵衛」Disc3-第12回「人質松寿丸」メモ

「軍師官兵衛」Disc3-第12回「人質松寿丸」メモ

天正5年 1577年8月

2年越し。播磨に秀吉の援軍がくる。


武家社会に茶の湯が流行していた。名物と呼ばれる茶道具は一国一城に匹敵するほどの価値がある。富と権力の象徴。

天正5年 1577年8月
松永久秀謀反
平蜘蛛(ひらぐも)
大和の国主。信貴山城(しぎさんじょう)

播磨から人質を取る。


9月9日
邪気を払い長寿を願う。
重陽(ちょうよう)の節句。


岐阜城 城主は嫡男・織田信忠に。
織田の当主。


松寿丸が自ら人質を申し出る。

 

「軍師官兵衛」Disc3-第11回「命がけの宴」メモ

「軍師官兵衛」Disc3-第11回「命がけの宴」メモ

1574年7月
木津川の合戦
毛利軍の勝利。織田の負け。

秀吉の援軍が来ない。

義昭の仲立ちで上杉、武田、北条が和睦。
丹波の波多野。

備前の宇喜田直家を調略する。

上月城。上月影貞。

宇喜田直家「お主の目は澄んでおるな。そのような目の男を何人か知っておる。皆早死にしたがな。ハハハ。」

常に損得で考える。人は信じない。


お道と善助が夫婦に

摂津

善助「いつでもワシらが殿を支えてみせます」
官兵衛「頼むぞ」

キリシタン大名 高槻城主・高山右近と出会う

 

有岡城

荒木村重に頼むが援軍もむり。

 

「軍師官兵衛」Disc3-第10回「毛利襲来」メモ

「軍師官兵衛」Disc3-第10回「毛利襲来」メモ

将軍義昭
備後 鞆の浦
石山本願寺とも手を組む
顕如
信長包囲網

1576年 天正4年
姫路に毛利軍が襲来
英賀の浜(あがのはま)
毛利 五千 VS 姫路 千


1576年
信長VS本願寺
信長が太ももを討たれる


英賀御道(あがみどう)に毛利本陣
毛利に一向宗の門徒宗も付いた。
毛利軍大将 浦宗勝

旗を立てて援軍が来たように見せる。
官兵衛が勝利する。

信長が官兵衛を褒める書状を出す。


信長、安土城を作り始める。

安土に移る。

秀吉とおねとの夫婦喧嘩をいさめる手紙を信長が書く。

悋気(りんき)・・男女間の事で(主に女が)焼くやきもち。

天正4年7月
摂津 木津川河口
織田軍が毛利水軍に大敗する
本願寺へ兵糧を運ぶ毛利軍

 

「軍師官兵衛」Disc3-第9回「官兵衛試される」メモ

「軍師官兵衛」Disc3-第9回「官兵衛試される」メモ

石田三成と官兵衛がバチバチ。
竹中半兵衛と初対面。これまた厳しくバチバチに試される。

お手前(おてまえ)・・同じ身分の武士に使う対称。

「播磨の三家の当主をそろって信長に拝謁させる。」という策。
三木城・別所
御着城・小寺
龍野城・赤松


織田家
越前の一向一揆は、長島よりまとまりがない。


播磨
三木城当主・別所長治(18)(べっしょながはる・織田派)学問に秀でている。叔父の賀相(よしすけ・毛利派)と重棟(しげむね・織田派)が後見役。

「人に国柄(こくへい)を貸すなかれ」(「六韜」りくとう)
=(意味)「君主は臣下に統治の力を貸してはならない」

龍野城・赤松広秀

赤松は備前の宇喜田に攻められているので、織田側につけば宇喜多領も手に入れられると説いた。

御着がごねているのは竹中半兵衛が荒木村重をつかわせてくれた。

京都 妙覚寺で、播磨三当主と信長が会う。

「兵の情は速やかなるを主とす」孫子
(意味)戦いは迅速でなくてはならない

 

 

「軍師官兵衛」Disc2-第8回「秀吉という男」メモ

「軍師官兵衛」第8回「秀吉という男」メモ

1575年 天正3年7月

官兵衛は岐阜城で信長に拝謁する。

織田家の双璧。
瓶割り柴田。
丹羽長秀。
滝川一益、佐久間信盛。
姫路の兵は500。

山陽道は平たん。山陰道。
秀吉。瀬田の唐橋を見ていて遅れて到着。
官兵衛は信長に刀「へし切長谷部」をもらう。

門地門閥(もんちもんばつ)・・家柄。家の格式。

勝家は北国。明智光秀は丹波。


長浜城主 秀吉

北近江・長浜城下も楽市楽座。

「命の使い道」

石田三成

無調法・不調法(ぶちょうほう)・・行き届いた態度でないこと。へた。

秀吉が官兵衛の家臣、太兵衛たちを一千石などでスカウト。

善助「黒田の家を離れることだけはできかねまする。」

九郎右衛門「たとえ百万石積まれようとも我らの忠義はびくとも致しません。離れるときは死ぬときにございます。」

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秀吉と官兵衛 サシ飲み 苦い

尾張・中村の生まれ。

「味方の兵を減らすことなく勝利する」という考えが重要。
「人こそ宝」「戦わずして勝つ」ということで2人の考えは一致する。

 

 

 

「軍師官兵衛」Disc2-第7回「決断のとき」メモ

「軍師官兵衛」第7回「決断のとき」メモ

1573年
武田信玄 死去

姫路城・黒田家に毛利家の外交、安国寺・恵瓊(えけい)が来る。

官兵衛の弟 黒田兵庫助利高(くろだひょうごのすけとしたか)

毛利10か国。領国を守る。


1573年 天正元年 9月

浅井、朝倉滅亡

浅井領の北近江・小谷城を秀吉に。大名になる。⇒長浜城

木下藤吉郎⇒羽柴筑前守秀吉
長秀
田勝家


又兵衛(後藤又兵衛)

上月城 上月影貞は毛利に付く

織田か毛利か決断するのが当主の努め


織田家
長島 一向一揆
業が深い。因果応報。

備前・宇喜田尚家 は毛利についた。播磨の地侍は、ほぼ毛利に。


1575年 天正3年5月
長篠の戦い
織田・徳川連合軍が武田勝頼を破る。
3千丁の鉄砲。


誼を通じる (よしみをつうじる)親しいつながりをもつ。

御着での大評定。

父「官兵衛、失うことを恐れるな。お前が考えお前が決めるのだ。すべては生き残るため。」

織田は大儀を持って兵を進めているからこそ勢いは大河のごとく。。今川、浅井朝倉、武田を破った。

「国を治める者は義立てばすなわち王たり」(荀子・じゅんし)

織田は武勇・智謀(ぶゆうちぼう)ともに兼ね備えている。


摂津 有岡城(伊丹)

官兵衛は荒木村重を通じて信長と会う。

 

「軍師官兵衛」Disc2-第6回「信長の賭け」メモ

「軍師官兵衛」第6回「信長の賭け」メモ

1571年

信長、四面楚歌。包囲網。

近江

比叡山焼き討ち。

「比叡山が滅びるときに国が滅びる」と言われていた。

「仏法廃れば王法廃る」


元亀3年 (1572年)

松寿丸 5才

2人目を求められる官兵衛夫婦。

うなぎ。

しかし官兵衛は側室は持たない。


十七条の意見書。

武田信玄と義昭が手を結ぶ。

武田信玄が上洛する。

 


太兵衛が荒れる。善助と義兄弟に。


信長 岐阜城に戻る。

1573年 徳川家康 三方ヶ原で武田信玄に敗戦。

信長は援軍は出さない。

信長は義昭の方から動き出すのを待っている。

細川藤隆

義昭が兵をあげた。

大津。逢坂の関。
摂津・荒木村重が初めて信長に会う。信長側に付く。
刀に饅頭。信長は村重に摂津を任せた。村重は浪人から国主になった。

2日で将軍を制圧。


御師(おし)
伊吹文四郎

 


官兵衛は姫路から摂津・茨木城に荒木村重に会いに行く。

茶の湯の師匠。千宗易(せんのそうえき)/千利休からもらった高麗茶碗。

志方城 櫛橋左京亮亡くなる。官兵衛は先に帰る。善助と太兵衛は織田軍を見にいく。太兵衛は更にやる気になって滝と戦う。


1573年

槇島城(まきしまじょう)(京都・宇治)で義昭が兵をあげたが、織田軍・秀吉が討って室町幕府滅亡。

年号が天正に改められた。

 


安芸・吉田郡山城

毛利家
毛利輝元(毛利元就の孫)
吉川元春
小早川隆景


<官兵衛紀行>

兵庫県・西脇市

黒田庄町

荘厳時(しょうごんじ)

もうひとつの官兵衛伝説。

官兵衛がこの地で生まれたという伝承がある。

姥が懐(うばがふところ)

兵主(ひょうす)神社

秀吉が三木城攻めのときに腰かけた石。

「太閤腰掛石」

「軍師官兵衛」Disc2-第5回「死闘の果て」メモ

「軍師官兵衛」第 5回「死闘の果て」メモ

1568年 永禄11年9月

信長、上洛。

旗に永楽通宝(えいらくつうほう)

足利義昭を守護するのが大儀名分。

秀吉はまだ歩兵。

京都に入って、わずか一月で町の乱れを正す。

民や農民を安心させるのが先決。


黒田家は倹約する。

金はいざという時に使う。

家臣に服を売る。与えるともらえない者がひがむ。


1568年 永禄11年10月

足利義昭が15代将軍に就任。

信長は副将軍は辞退。
官職も官位もいらない。
堺、大津、草津に代官を置くことを願う。


秀吉が竹中半兵衛をくどく。


官兵衛に赤ちゃん生まれる。

松寿丸(黒田長政)


龍野・赤松政秀が3000で兵をあげたが黒田家が数百で奇襲で勝つ。

家臣に褒美(銭)を渡す。


1569年 永禄12年6月

再度赤松が攻めてくる。

善助は初陣。
井手 友氏、小兵衛、武兵衛。


井上九郎右衛門(くろうえもん)井上 之房(ゆきふさ)

太兵衛(たへえ)

黒田二十四騎


<官兵衛紀行>

播磨の小京都
兵庫県たつの市

鶏籠山(けいろうさん)

龍野古城

秩父山
官兵衛率いる黒田軍が布陣したとされる。

「黒田家譜」(福岡市博物館)

母里小兵衛、武兵衛のことが記されている。