historynote01net – ページ 4 – 歴史note

【31】帝国主義の時代

世界史【31】帝国主義の時代
(1)イギリスの動向
(2)フランスの動向
(3)ドイツの動向
(4)ロシアの動向
(5)アメリカの動向
31ーキーワード
帝国主義・・植民地(市場)を求めて外に出て行く時代
(英)ディズレーリ(保)。インド帝国。スエズ運河+キプロス島。
(仏)第三共和政。
(独)ビスマルク⇒皇帝ヴィルヘルム2世。3B政策。
(露)第1次ロシア革命⇒十月宣言(ウィッテ)⇒社会主義の政党。ボリシェヴィキ(レーニン)、 メンシェヴィキ。
(米)カリブ海政策。米西戦争(25代マッキンリー)。棍棒外交(26代S・ローズヴェルト)。宣教師外交(27代ウィルソン)


31ーガイダンス
・欧米各国で帝国主義(植民地獲得)、労働運動が起こる。
・第2次産業革命(19C後)⇒英以外の欧米。重化学(鉄鋼・造船・石油・電力)。生産増大。強い企業(独占資本)が銀行と結びつく。(第1次は英綿工業)
・1870年代世界的不況。⇒植民地(市場、原料供給、資本輸出)を求めて帝国主義へ。


イギリスの動向(1)
ポイント①イギリスの方向転換?帝国主義へ突入!
19C後以降のイギリスの帝国主義政策

首相ディズレーリ(保守党)(任1868、1874~1880)
自由貿易から⇒帝国主義(植民地獲得)へ方向転換。

インドへの道を確保したい(エジプトルートと南アフリカルート)
スエズ運河株式買収、インド帝国の完成
・ベルリン会議への参加
キプロス島の統治権を獲得。=スエズ運河の真上の島。ロシアが入ってこないように監視。
↓↓
植民地相:ジョゼフ=チェンバレン(保守党)

南アフリカ戦争。英の支配下においた。→南アを安心して通れる。

「対外政策にお金を費やしたい。国内にお金を使いたくない・・」
↓↓
自由党内閣の時
・議会法の制定
上院・下院のうち、下院(一般市民の代表者)の優位を確立。

・アイルランド自治法の成立
しかしWW1で延期⇒イースター蜂起(シン・フェイン党も参加)

<植民地帝国の再編>
・自治領(白人が支配層の地域)を形成していく
自治を与えて、英本国はお金を使わないようにした
カナダ⇒オーストラリア⇒NZ⇒南アフリカ連邦

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②イギリスの労働運動
大英帝国の「光」と「影」

<社会主義運動の高まり>
フェビアン協会
知識人中心(ウェッブ夫妻・劇作家バーナード=ショー)。
改良主義的な社会主義団体。ゆっくりでいいから改善。
↓↓ +他の団体
労働代表委員会・・選挙で議席数を獲得するまでに。
↓↓
労働党(現在まで続く)・・合法的。穏健。議会を通じて社会改革をめざす改良主義。民主的な手段。(暴力は使わない)


フランスの動向(2)
ポイント①混乱が続くフランスの第三共和制
国内の世論を二分化する重大事件発生!

二月革命(1848)の結果、王様がいなくなった。=第二共和政になった。男性普通選挙の実現。→混乱。
↓↓
ナポレオン3世の第二帝政でまとまる。普仏戦争(1870)で捕虜に。
↓↓
第三共和政ができるが混乱・・

・第三共和政(1870/71~1940)
弱さを露呈した、2つの大きな事件
ブーランジェ事件
陸相ブーランジェ。反議会主義的運動。共和制をやめる?→未遂に。

ドレフュス事件(冤罪事件)
ユダヤ系将校ドレフュスがスパイ容疑で逮捕。⇒冤罪だった。仏軍部が隠蔽。反ユダヤ感情をあおる。国内世論が批判。エミール・ゾラ「私は弾劾する」(ドレフュス擁護派)⇒ドレフュスは無罪に。釈放。
↓↓
シオニズム・・自らのユダヤ人国家を設立しようとする運動。イェルサレム(パレスチナ)に戻ろう・・。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②フランスの労働運動
フランス革命の意志を受け継ぐ直接行動主義
<社会主義運動>
サンディカリズム
議会や政党の否定。英のような議会ではなく、労働者による直接行動主義。(フランス革命のように自由平等は自分たちで勝ち取るんだ。)↑↑ VS(対立)
フランス社会党(統一社会党 / 社会党)
議会重視。社会主義派が結成。


ドイツの動向(3)
ポイント①ビスマルクの辞職!?ドイツの取った「新航路」
皇帝と意見が衝突したビスマルク

<ドイツ皇帝の交代>
ヴィルヘルム1世(ビスマルクが仕えていた)⇒フリードリヒ(病気で100日で交代)⇒ヴィルヘルム2世(位1888~1918)

ヴィルヘルム2世:「独も植民地を求めて外に出るべき」
VS
ビスマルク:「外交でやっと収めたのに。反対。」
意見衝突。社会主義者鎮圧法の再更新も対立。
ビスマルク辞職(1890)

<ヴィルヘルム2世の対外政策>
[1]海軍の大拡張「ドイツの将来は海上にあり」⇒と対立。

[2]パン=ゲルマン主義
パン=「広げる」の意味。ゲルマン人(ドイツ系民族)オーストリアとの連携。⇒ロシアと対立。
バルカン半島→小アジア→ペルシア湾へ。独から東南方向。
↓↓
独・3B政策(さんびーせいさく)(英露と対立)
ベルリン(ドイツ)、ビザンティウム(トルコ)、バグダード(イラク)を接続する。バグダード鉄道の建設を考えた。⇒もし実現すれば海で英と対立する。また、バルカン半島を狙うロシアとも対立する・・。
(cf 英・3C政策。ケープタウン、カイロ、カルカッタ)

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②ドイツの労働運動
ドイツで生まれた新しい社会主義の潮流

世界初の社会主義政党
ドイツ社会主義労働者党(ビスマルク時代)
社会主義者鎮圧法
ビスマルクは警戒し、この労働者党を非合法化した。せっかく統一したドイツが資本家と労働者に分裂するのを避けたかったから。⇒労働者・失業者は国が守ると主張。
↓↓
ビスマルク退陣
↓↓
ドイツ社会民主党
「復活のチャンスだ!」名前をこれに変える。マルクス主義理論を採用。暴力革命を提唱。
↓↓ 徐々にこちらへ変わっていった
修正主義
ベルンシュタイン。議会を通じて社会主義化を提唱。改良主義。
(英の労働運動を参考にした。)


(4)ロシアの動向
ポイント①急激な近代化で生まれた社会の歪み
フランス資本の導入で産業革命を急いだ結果・・

ロマノフ朝(皇帝独裁政治)
南下して穀物を輸出して産業革命したい・・
⇒仏資本の導入。露仏同盟(1891)
⇒ロシアの近代化。産業革命の本格化
↓↓
シベリア鉄道の建設(1891)
中国方面に進出したい。全長9300㎞。
(ウラジオストク(東)からモスクワ(西)まで)
ペテルブルグ(西端)

中国東北をめぐって日本と衝突。⇒日露戦争(1904)

血の日曜日事件(1905)
戦争反対の市民デモ。軍隊が発砲。ニコライ2世
↓↓
第1次ロシア革命(1905)
労働者中心に暴動・スト。
↓↓
都のペテルブルグで、ソヴィエト(評議会)が成立=各地の工場の代表者が集まって話す会議。
↓↓
日露戦争終結
ポーツマス条約(1905)

戦争は終わったが革命は終わらない。
・「十月宣言」(革命を終わらせる)
起草者:ウィッテ
ドゥーマ(国会)を開設。
・憲法制定。立憲民主党の結成。(お金をもっている人たち)
↓↓
ウィッテは首相となり、民主的な、自由主義的な改革を行う(革命は収束へ・・)
↓↓
改革が落ち着くと突如ウィッテは首になった。
↓↓
ストルイピンの改革
ドゥーマ(国会)を解散
ミール(農村共同体)を解体。⇒国内は混乱。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②ロシアの労働運動
労働者は不満爆発!多くの社会主義者政党が登場

<社会主義運動>
ロシア社会民主労働党
2つの社会主義政党に分裂(この2つは労働者を代表)
↓↓
[1] ボリシェヴィキ(指導者:レーニン
革命家による武装革命。(少数で一気に壊す。)

[2]メンシェヴィキ (指導者:プレハーノフ)
ブルジョワ民主主義革命。(多数でゆっくりで革命する。)

社会革命党
ナロードニキの流れをくむ。こちらは農民を代表。
テロリズムによる専制政治の打倒をめざす。


(5)アメリカの動向
ポイント①世界第1位の工業生産数
イギリスを抜いた合衆国の未来とは・・

<独占の規制>
1890年代。米が世界No1に。
一部の富裕層が独占。政治的にも強くなる。
↓↓
革新主義(進歩主義)
政治経済の独占の規制。経済自由化。

カリブ海政策(20C初)>(米の海外進出)
米がいよいよ外へ出ていく。
↓↓
第1回パン=アメリカ会議
「アメリカの製品を買いなさい」。中南米(ラテンアメリカ)の国々に指導。

・フロンティアの消滅(1890)
白人入植者が全域に広がった。

ーーーーーーーーーー

ポイント②カリブ海政策の推進
2人の大統領とその時代の海外進出方法

[1]25代・マッキンリー大統領(任1897~1901)
アメリカ=スペイン(米西)戦争(1898)
米はカリブ海へ進出。中南米に影響力のあったスペインと戦う。
〇米 VS 西✕

きっかけはキューバ独立運動1895キューバはスペインから独立を試みようとしていた。
↓↓
そんなときハバナ湾で米艦隊メイン号が撃沈。米はスペインのしわざとしてスペインに戦争をしかける。スペインは「え?」(米の自作自演?)
↓↓
米はフィリピン、グアム、プエルトリコという西の植民地を獲得。
キューバを独立させて保護国化
↓↓
さらに太平洋へも進出。
ハワイ併合(1898)
(※米西戦争の結果ではなく単独で。)

門戸開放宣言(1899)
国務長官 ジョン=ヘイ
中国市場への進出をも狙う。門戸開放、機会均等、領土保全。

[2]26代・セオドア・ローズヴェルト大統領(任1901~09)
「カリブ海政策」を引き続き推進。

・「棍棒外交」(20C初)
口調は穏やかに、棍棒をたずさえて話す。(威嚇)
(例)無理やりパナマをコロンビアから分離・独立。

パナマ運河の建設(1904~1914)
中米と南米の間。カリブ海と太平洋を接続。

ーーーーーーーーーー

ポイント③ウィルソン大統領の時代に起きた変化とは?
合衆国が持つ外交上の「使命」

28代・ウッドロー=ウィルソン大統領(任1913~1921)
・米国内「新しい自由」
弱者救済。

・対外「宣教師外交
「アメリカと同じ民主政治をすればアメリカと同等に発展できるよ」
米風の政治を世界に伝える。それが米国の義務
↓↓
現在でも米は独裁政治を嫌う。世界へ干渉する口実。

 


・【32】世界分割と列強の対立
・【31】当ページTOPへ戻る
世界史タイトル一覧


 

 

【30】アジア諸地域の植民地化

【30】アジア諸地域の植民地化
(1)フランスのインドシナ進出
(2)オランダ・イギリスの東南アジア進出
(3)イギリス東インド会社のインド経営
(4)オスマン帝国の衰退
(5)オスマン帝国の近代化
(6)イラン・アフガニスタンの植民地化


30ーキーワード
<東南アジア>
・仏⇒仏領インドシナ(ベトナム・カンボジア・ラオス)
・蘭⇒オランダ領東インド(インドネシア)
・英⇒マレー連合州(マレーシア)=海峡植民地(シンガポール、ペナン、マラッカ)+α。ミャンマー。
<インド>
・英⇒印:シパーヒーの反乱(1857)⇒ムガル帝国滅亡(1858)⇒インド帝国(1877)
<オスマン帝国>
・アブデュル=メジト1世「タンジマート(恩恵改革)」
・ミドハト=パシャ「ミドハト憲法」(1876)
<その他>
・ウラービー運動(エジプトの反英運動)
・タバコボイコット運動(イランの反英運動)


30ーガイダンス(1~6)
・東南アジア・・仏・蘭・英(仏は中国への中継基地がほしい)
・インド・・英の単独支配(英仏の戦争に英が勝ったため)
英本国ではなく英東インド会社(貿易会社)がインド経営をする。(ある変化が。。貿易→徴税)
・西アジア・・オスマン帝国の衰退・近代化。イラン・アフガニスタンなど。


(1)フランスのインドシナ進出
ポイント①ナポレオン3世のインドシナ進出
なぜこのタイミングでベトナムを攻めるの?

(ナポレオン3世)がインドシナ(=現ベトナム・カンボジア・ラオス)に進出。

<ベトナム>
阮朝(げんちょう)/ 越南国
建国:阮福映(げんふくえい)。仏宣教師ピニョーが支援。
清の朝貢国(弟分)。清からは越南国(えつなんこく)と呼ばれる。

ラオス  |ベ
_________|ト
カンボジア|ナ
_________|ム

仏のインドシナ(ベトナム)進出理由は・・
→アロー戦争で仏は中国進出を始めた。中継基地が欲しかった。
↓↓
仏越(ふつえつ)戦争。〇仏ナポ3世 VS 越✕
仏がベトナムのサイゴンを獲得。
カンボジアを保護国化。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②フランス領インドシナ連邦の成立
ベトナム・カンボジア・ラオスの植民地化

ユエ条約・・ベトナム保護国化
↓↓
(兄)がベトナム(弟)の宗主権(指導する権利)を主張。(清は仏にクレーム)(朝鮮の時と同じ。清は日本にクレーム。)
↓↓
清仏戦争(〇仏 VS 清✕)(1884~5)
天津条約・・清はベトナムの宗主権を放棄
↓↓
・仏領インドシナ連邦
(1887~1945)
(現ベトナム・カンボジア・ラオス)

 


(2)オランダ・イギリスの東南アジア進出

ポイント①オランダのジャワ・スマトラの植民地化
現在のほぼインドネシアにあたる地域をオランダが植民地化

オランダ領東インド
オランダのジャワ・スマトラ(インドネシア)を植民地化

・イギリス=オランダ協定(イギリスとオランダの打ち合わせ)
マラッカ海峡を境界に北は、南はと分けた。

・ジャワ戦争(1825)〇蘭 VS ジャワ✕
⇒蘭は勝ったが、財政窮乏に・・
↓↓
強制栽培制度(1830)
商品作物(コーヒー)⇒ヨーロッパに販売。
オランダ産業革命の資金源になる。
↓↓
・アチェ戦争(1873)
スマトラ島の北端。✕アチェ王国 VS 蘭〇
オランダ領東インド完成(現インドネシア)

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②イギリスが東南アジアを植民地化するわけは?
インド帝国とのアクセスを最優先

英植民地のインド清(中国)をつなぐために(海回り)中継基地としてマレー半島が必要。

ぺナン、シンガポール、マラッカ(=海峡植民地)の獲得
↓↓
マレー連合州(現マレーシア)の成立
プランテーション
(すず)・・華僑(中国)を労働力
ゴム・・印僑(インド)を労働力

ビルマ(ミャンマー)戦争
コンバウン朝を滅ぼしインド帝国に併合

 


(3)イギリス東インド会社のインド経営
ポイント①東インド会社のインド植民地の動き
商業活動を停止された会社が生き残るための工夫

<英東インド会社の進出>
プラッシーの戦い(1757)
インド・ベンガル地方をめぐって争う 〇英 VS 仏✕

イギリス東インド会社(貿易会社)は、ベンガル(インド北東・ガンジス川下流域・豊かな土地)の徴税権を得る。
↓↓
イギリス東インド会社が商業活動停止される(1833)
↓↓
インド統治機関へと移行。
↓↓
<各地で戦争へ>
マイソール戦争(南インド)
マラーター戦争(中部・デカン高原)
マラーター同盟・インドの豪族
シク戦争(北西パンジャーブ地方)シク教徒
あとはムガル帝国のみ。。

<征服地への税制>
ザミンダーリー制
地主・領主から直接地税を徴収。(ベンガル地方)

ライヤットワーリー制
自作農民から直接地税を徴収。(シンド地方、南インド)

徴税に加え、プランテーション経営もするようになる。
→茶、アヘンの栽培・輸出

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②全インドを揺るがす大反乱
イギリスのインド支配における転換期

・シパーヒーの反乱(1857~1859)
シパーヒーとはイギリス東インド会社に雇われたインド人傭兵(ヒンドゥー教徒+イスラム教徒)。薬包に牛と豚の脂を使っていると噂。

デリー城を占拠。ムガル皇帝を擁立
↓↓
インド大反乱に発展。
↓↓
英本国軍が鎮圧。ムガル帝国が滅亡(1858)
↓↓
イギリス東インド会社は解散。統治権は英本国に移る。(=英はただ同然でインドを手に入れる形になった。噂は英本国が流した・・?)

↓↓

・インド帝国1877~1947)成立
初代インド皇帝 ヴィクトリア女王
(ディズレーリ保守党内閣)

植民地なのに「帝国」と付いているのは、他のヨーロッパ諸国に向けた、英はインドを重要視しているというメッセージ。触れたらあきまへんえ・・の威嚇。

分割統治
保守的な藩王国を懐柔。間接統治。(=農民の怒りは地主へ行く。英本国には行かない。)

 


(4)オスマン帝国の衰退
ポイント①アラビア半島での独立の動き
ムハンマドの教えに帰れ!ワッハーブ運動の展開

<アラビア半島>
オスマン帝国支配下で自立の動き
ワッハーブ運動(ワッハーブ派)
ムハンマド時代のイスラーム教復帰を目指す。
↓↓
豪族サウード家と結んでワッハーブ王国建設。
都:リヤド
↓↓
エジプトのムハンマド・アリーの攻撃でワッハーブ王国は滅亡。
⇒アラビア半島の自立は失敗。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②エジプトでの自立の動き
オスマン帝国の部下であって部下でない?

<エジプト自立の動き>
仏・ナポレオンのエジプト占領(1798~99)
→ナポレオンはエジプト先住民(アラブ人)にオスマン帝国(トルコ人)への反抗を呼びかけた。「悔しくないのか?民族の誇りを持つべきだ!」

↓↓ エジプト自立の運動の中心

・ムハンマド=アリー
エジプトからナポレオンを追い出す。オスマン皇帝に変わってエジプト総督の地位を授かる。エジプトの自立・近代化を目指す。

オスマン帝国に要求。

第1次エジプト=トルコ戦争(1831~33)
オスマン帝国にシリアの領有を要求し、開戦。
〇エジプト VS トルコ✕
シリアを獲得

第2次エジプト=トルコ戦争(1839~40)
エジプトとシリアの世襲権要求。
△エジプト VS トルコ(欧の干渉もあり)
⇒シリアを返還。エジプトとスーダンの世襲権は獲得。

ムハンマド・アリーの死後・・

・スエズ運河 開通(1869)at エジプト
(仏・技術者)レセップス
地中海からインド洋に直接行ける。英は喉から手が出るほど欲しい。(英)ディズレーリ内閣。スエズ運河会社の株を買収。支配権獲得

↓↓ トルコの次はイギリスかよ・・

ウラービー運動(反乱)(1881)(エジプトの反英運動)
「エジプト人のためのエジプト」英支配に抵抗するが、鎮圧される。
↓↓
エジプトは英の保護国化に。(英の植民地に・・)

 


(5)オスマン帝国の近代化
ポイント①ついに目覚めたオスマン帝国!
皇帝が率先して行う「上からの近代化」とは?

<オスマン帝国>
・アブデュル=メジト1世
(位1839~1861)
「タンジマート(恩恵改革)」(1839)
ギュルハネ勅令

・皇帝が率先して近代化。「上からの改革」。司法、行政、財政、軍事、文化など。
・非イスラムへの平等課税。法的にも平等。

↓↓ 一定の成果が出たが・・(オスマン帝国を敗れるぐらい成長)

クリミア戦争(1853~56)
〇オスマン帝国 VS ロシア✕
英・仏・サルディーニャ。

タンジマートの成果が出てトルコは勝利!
→しかしトルコは英・仏に借金。財政面では英仏の従属状態に・・。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②アジア初の憲法が制定されるも・・
立憲君主政への移行と皇帝の思惑

・アブデュル=ハミト2世(位1876~1909)

宰相 ミドハト=パシャ

・ミドハト憲法
(1876)
アジア初の憲法
。(大日本帝国憲法(1889)より13年早い。)

・二院制議会、責任内閣制
立憲君主制への移行を目指した。皇帝の独占ではなく議会で話し合いをしよう。
↓↓
ロシア=トルコ(露土)戦争(1877)
アブデュル=ハミト2世が、皇帝の力を制限されるのを嫌ってミドハト憲法を停止!

宰相ミドハト=パシャを解任(1877)。
戦争の責任を押し付けて島流しに。。

結局、皇帝独裁政治が変わらぬまま、英仏に財政面で頭が上がらないまま・・

 


(6)イラン・アフガニスタンの植民地化
ポイント①イランの植民地化
イランをめぐるイギリスとロシアの熾烈な争い

(イラン)カージャール朝(1796~1925)
北にはカスピ海、南にはペルシア湾。
北から海を求めてロシアが狙う・・。南東から英が狙う。

トルコマンチャーイ条約(1828)
イランにロシアが押しつけた不平等条約。
アルメニアの大半を獲得。治外法権を承認。
(※トルコだがオスマントルコとは関係ない。トルコマンチャーイという町の名前)

↓↓ 何でイラン政府はロシアの言いなりなんだ・・!

バーブ教徒の乱(イスラーム教・シーア派の一派)
イラン・カージャール朝の貧困農民中心の反乱
英・露・弱腰なイラン政府に反対するも、鎮圧される。

タバコ=ボイコット運動(1891~92)(イランの反英運動)
タバコの独占販売権がイラン政府から英業者に渡される。
⇒民衆はタバコをボイコット。知識人(ウラマー)らも含めた反英・反国王運動。
↓↓
鎮圧される。英露のプレッシャーは続く。イランの植民地化は避けられない・・

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②なぜアフガニスタン?
イギリスはアフガニスタンを絶対に渡したくない!

英の2回のアフガン戦争
アフガニスタンはインドの真上。英はインドが大事。北からのロシアからの侵攻の防波堤として、アフガニスタンは押さえておきたい。
↓↓
第1次アフガン戦争(1838~42)英✕ VS 〇アフガニスタン
何と、英・完敗!

ベルリン会議(1878)
ロシアのバルカン半島方面の南下を阻止した。
↓↓
英「そうするとロシアは違う地域から降りてくるかも・・。やばい。アフガニスタンにも来るかも・・!」
↓↓
第2次アフガン戦争1878~80)英〇 VS ✕アフガニスタン
今度は英勝利。アフガニスタンを保護国化

 


>>次【31】帝国主義の時代

【30】TOPへ戻る

世界史タイトル一覧


 

 

【29】中国と朝鮮の植民地化

【29】中国と朝鮮の植民地化
19C後から欧や日に侵略されていく
(1)アジア三角貿易とアヘン戦争
(2)アロー戦争と太平天国の乱
(3)ロシアの極東南下と洋務運動
(4)日本の朝鮮進出


<清>
・アヘン戦争(1840)⇒南京条約(1842)
・アロー戦争(1856)⇒天津・北京条約(1860)
↓↓重税
・太平天国の乱(1851~64)洪秀全「滅満興漢」
・洋務運動(1860~90)「中体西用」
<朝鮮>
・江華島事件(1875)⇒日朝修好条規(1876)
・壬午軍乱(1882)⇒閔氏への反乱。閔氏が日から清に傾く。
・甲申政変(1884)開化派(親日)クーデター⇒清に制圧される。
・甲午農民戦争(東学党の乱)(1894)⇒日清戦争(1894)⇒下関条約(1895)⇒三国干渉(1895)


29-ガイダンス
18C後~19C
<中国>
なぜ中国は侵略されていくのか?
・英が産業革命⇒市場を求めて中国(広い領土・多い人口)に進出したい。当時、中国はであふれて世界一お金持ち。

・英は中国を武力で開国⇒アヘン戦争・アロー戦争⇒賠償金から農民への重税へ。⇒農民反乱(太平天国)

中国が弱ってるなら今がチャンス・・!
ロシアの南下⇒洋務運動(国内改革)。

<朝鮮>
日本が朝鮮進出。朝鮮が弟。兄貴分の中国と日本が対立。⇒日清戦争へ・・


(1)アジア三角貿易とアヘン戦争
ポイント①当時のイギリスと中国の貿易をみる
中国社会を腐敗させた恐るべき貿易品・・

清の国内混乱と対外貿易

18C。清の4康熙帝、5雍正帝、6乾隆帝の全盛期は過ぎていた・・
<中国の国内状況>
白蓮教徒の乱(暴動)(1796~1804)
・貿易港は広州1港に限定。
公行(こうこう)=貿易独占の特許商人組合。

<英と中国の貿易関係>
(片貿易)・・物と銀の交換
・清⇒英 茶・陶磁器
・英⇒清 
「英の銀がなくなる・・そうだ!」
 ↓↓
アジア三角貿易>・・物々交換
・清⇒英 茶・陶磁器
・英⇒印 綿製品
・印⇒清 アヘン(お茶代を銀の代わりにアヘンで支払う)
→中毒・需要増大
→アヘン密輸。支払いはで。
→清から銀が流出。英は銀の回収に成功

英は東インド会社の中国貿易独占権廃止⇒民間貿易会社も中国へ行けるようになる。⇒アヘンを売りにいく。
↓↓
英から使節(英が自由貿易を求める⇒交渉決裂✕)
マカートニー・・乾隆帝に謁見。乾隆帝は拒否。
アマースト・・頭を下げない(自由で対等な関係を求める)。謁見できず⇒「力づくでやるしかない・・」

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②中国の植民地化が開始!アヘン戦争
圧倒的なイギリスの強さの前に中国は屈服・・
 
林則徐(りんそくじょ)
アヘンの没収と焼却など。
・中国人密貿易者の処罰
・英商館区の封鎖
 ↓↓
英は「待ってました・・!」これを口実に戦争をしかける。
アヘン戦争(1840~1842)
清が圧倒的に敗北
 ↓↓
南京条約
(1842)
・1港(広州)⇒5港に。+上海、厦門(あもい)、福州、寧波(にんぽう)。中国の南側
公行廃止
・英に香港を割譲
賠償金の支払い⇒民衆に重税
 ↓↓
<不平等条約>
治外法権(領事裁判権)の承認
関税自主権の喪失=安い英製品をそのままの値段で売らなければいけない。
租界の設置。外国人居留地。初めて上海に設置。(英の領土のよう)

<他国とも不平等条約>
対英 虎門寨追加条約 (こもんさい)
対米 望厦条約 (ぼうか)
対仏 黄埔条約 (こうほ)


(2)アロー戦争と太平天国の乱
ポイント①また戦争!?イギリスの不正義な戦争
アロー戦争の結果、中国はどうなる?

「戦争に勝ったけど貿易でもうからないな。港の数増やす?」

アロー号事件(1856)
清朝の警察に中国人船員が海賊容疑で逮捕。アロー号は英の国旗を掲げていた。英に許可を得ず逮捕したのは英を侮辱している!という口実。英は仏・ナポレオン3世を誘って戦争をしかける。
↓↓
アロー戦争(1856~1860)
英・仏〇 VS ✕清
↓↓
天津条約
清が発砲してしまう。戦争再開。
↓↓
・英仏軍が清の都・北京を占領。
・皇帝の離宮・円明園(えんめいえん)を破壊。(伊カスティリオーネ(郎世寧/ろうせいねい)が設計。ヴェルサイユ宮殿を手本)
↓↓
北京条約(1860)
・外国公使の北京駐在(大使館)⇒総理各国事務衙門(がもん)(=外務省)の設置。
キリスト教布教の自由。
南京を含む10港の開港。+天津
・英に九龍半島の南部を割譲
・賠償金⇒重税へ

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②農民への重税で起きた大反乱
清を倒して新しい国づくりを・・

アヘン(1840)、アロー(1856)戦争による農民への重税
↓↓
太平天国の乱
(1851~1864)
洪秀全。「滅満興漢(めつまんこうかん)」

・「神の声を聞いた。天国を樹立する。清(満州人)は滅びるべきだ。」キリスト教の影響。
拝上帝会(キリスト教の結社)。太平天国の建国。
南京を占領⇒天京(てんけい)。

天朝田畝制度(てんちょうでんぽ)。土地を均等に配分。地主廃止
男女平等、纏足(てんそく)廃止・辮髪(べんぱつ)廃止
↓↓
地主が反対。義勇軍・郷勇(きょうゆう)を作る。
湘軍(しょうぐん)・曾国藩(そうこくはん)
淮軍(わいぐん)・李鴻章(りこうしょう)

常勝軍・・ウォード(米)、ゴードン(英)
↓↓
太平天国の乱は鎮圧される。

ロシア「ふーん、中国今弱ってるな~・・」


(3)ロシアの極東南下と洋務運動
ポイント①凍らない港を求め、ロシアが中国を狙う!
ロシアは黒海・地中海方面から→中国方面南下へシフト

【ロシアの極東南下】
4つの条約
[1]アイグン(愛琿)条約(1858)露と清
ロシア・東シベリア総督:ムラヴィヨフ
黒竜江(こくりゅうこう)(=アムール川)以北をロシアとする。
海岸線まであと少し。

[2]北京条約(アロー戦争の調停の代償)(1860)露と清
沿海州(えんかいしゅう)(=ウスリー江以東)の獲得。
(ついに海岸線にたどり着いた!)
・要塞ウラジヴォストーク港を建設

[3]樺太・千島交換条約(1875)露と
(対日)ロシアは樺太全島を獲得(沿海州の真向かい。北海道の北)。                                                                                                                                      千島列島は日本にあげる。

[4]イリ条約(1881)露と清
中央アジア方面に降りるときに。東トルキスタンの一部をロシアが獲得。保険をかけていた。

ーーーーーーー
ポイント②このまま黙っているわけにはいかない!中国の改革運動
ヨーロッパの技術。産業を導入するも・・

【中国・洋務運動(改革)】(1860~1890)

中国「ロシアめ・・。このまま黙ってるわけにはいかない・・」

同治の中興」(中興=安定)
同治帝(摂政は母の西太后)時代

中体西用(ちゅうたいせいよう)」基本精神
国の制(=皇帝独裁・儒学)維持にあたり、西洋の軍事・産業技術(だけ)をいる。富国強兵。
↓↓
中心人物(洋務派)曾国藩・李鴻章(太平天国の乱を鎮圧した2人)
欧風な町並みに。。
→しかし・・清仏戦争、日清戦争のどちらも清が負ける。根本的な富国強兵にはなってなかった。ものまね改革で止まった。


(4)日本の朝鮮進出
ポイント①朝鮮の開国と閔氏の心変わり
日本の朝鮮半島進出と中国との対立

<朝鮮国内の状況>
19C後。国王・高宗(こうそう)←力がない。
后:閔妃(びんひ)。奥さんの一族:閔氏(びんし)。

閔氏(妻の一族)はおいしい思いができると期待していたが・・高宗は力がなく、父の大院君(たいいんくん)が力を持っていた。

⇒閔氏は面白くない。日本と組んで大院君を失脚させた。
⇒日本はそれをきっかけに朝鮮進出
(古代中国で跡目争いで騎馬民族に助けを請うて、あとで乗っ取られるのと似てる・・)

↓↓ 
閔氏の独裁

江華島事件(1875)
日本の船が朝鮮から砲撃を受けた。朝鮮に開国を迫る。
↓↓
日朝修好条規
(1876)
朝鮮・自主独立
3港の開港(釜山/ぷさん・元山/げんさん・仁川/じんせん)
・日本の領事裁判権を承認
↓↓
「閔氏独裁になってから日本が来るようになった・・。前の大院君の方がよかったよ。。閔氏ひっこめ!」
↓↓
壬午軍乱(じんごぐんらん)(1882)
大院君軍による閔氏への反乱。←日・清が鎮圧。

<対応の違い>
清:大院君をつかまえる。閔氏を支援
日:閔氏・朝鮮側へ多くの要求。賠償金払え。
↓↓
閔氏は日本と手を切ってに傾く・・。

朝鮮は真っ二つに
事大党(親清)閔氏ら(保守派)が中心
VS
開化派(親日)留学生金玉均(きんぎょくきん)。日本に学び、近代化を目指す。
↓↓
甲申政変
(こうしんせいへん)(1884)
開化派のクーデター。日本の武力を借りて武装蜂起。閔氏を追放
→清に鎮圧される。
↓↓
朝鮮をめぐって日本がバチバチに・・。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②朝鮮国内の動乱と日清戦争
朝鮮が国際的に独立国であることが承認される

<朝鮮末期の新思想>
・西学・・キリスト教
東学・・民間信仰+儒教・仏教・道教
創始者・崔済愚(さいせいぐ)
⇒東学の信者はアジア以外、外国を嫌うように。。
↓↓
甲午農民戦争
(こうごのうみんせんそう)(1894)=東学党の乱
「外国勢力は出ていけ!」
朝鮮南部。全琫準(ぜんほうじゅん)の暴動。
→清に助けを求める。が出兵。日本も出兵。
↓↓
日清戦争(1894~95)日〇 VS ✕清
↓↓
下関条約
(1895)
朝鮮独立(清はもう関係ない=清は宗主権放棄)が承認
・日本は清から台湾、澎湖(ほうこ)諸島、遼東半島を獲得。
・開港場での企業の設立
↓↓
三国干渉(1895)
ロシア「おい日本。朝鮮を通って何中国に来ようとしてんだ・・。その遼東半島はオレが狙ってるんだよ!」ロシア・独・仏がクレーム
→遼東半島は清に返還。ロシアへの恨み。臥薪嘗胆
↓↓
閔妃はロシアに接近。→日本は閔妃を殺害(1895)
朝鮮をめぐって日本とロシアとの関係悪化・・。

 


次>>【30】アジア諸地域の植民地化

TOPへ戻る

世界史タイトル一覧

 

【28】19世紀の欧米諸国(3)文化史

【28】19世紀の欧米諸国(3)文化史
(1)文学
(2)芸術
(3)哲学・社会主義思想
(4)科学・技術


(1)文学
ポイント①形式的な美しさに対抗し、個性・感情を爆発!
古典主義とロマン主義

<19Cの文学>
古典主義・・形式的な美しさ。ギリシア、ローマ時代から続く。
・ゲーテ(独)『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』
晩年は調和の取れた美しさ、典型的なストーリーに魅了される。

ロマン主義・・個性感情を重視。主観的
・グリム兄弟(独)(兄弟ともに言語学者)『ドイツ語辞典』(方言を集めた)グリム童話。
・ハイネ(仏)『歌の本』革命詩人。パリで七月革命を目にした。
・ヴィクトル=ユゴー(ユーゴー)(仏)『レ=ミゼラブル』虐げられる人々。
・バイロン(英)ギリシア独立戦争に義勇兵として参戦。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②客観性を重視した文学の潮流
できるだけ主観を排した結果、見えてきたものは?

写実主義(リアリズム)・・ロマン主義を否定。客観的
・スタンダール(仏)『赤と黒』仏・七月革命
・バルザック(仏)『人間喜劇』
・トルストイ(露)『戦争と平和』ナポレオン戦争中のロシア
・ドストエフスキー(露)『罪と罰』(露)
・ディケンズ(英)『二都物語』イギリスの下級社会。
↓↓
自然主義・・客観性+社会問題を重視。
・イプセン(ノルウェー)『人形の家』女性解放
・モーパッサン(仏)『女の一生』
エミール=ゾラ(仏)『居酒屋』ドレフュスの冤罪事件(仏政府を批判)


(2)芸術
ポイント①時代を彩る数々の名画が誕生
激動の19世紀の中で生まれた画家が見たものとは・・

<19Cの美術>
古典主義絵画(19C前)・・形式的な美しさ。
・ダヴィド『ナポレオンの戴冠式』

ロマン主義絵画
・ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』。仏七月革命。ギリシア独立戦争でギリシア応援。

写実主義絵画・・客観的にありのまま
・クールベ『石割り』。ナポレオン3世失脚後、パリ・コミューンにも参加。

自然主義絵画・・客観的、人間の内面、社会の真実
・ミレー『晩鐘(ばんしょう)』『落ち穂拾い(おちぼひろい)』

印象派・・戸外制作。光。
・マネ『草の上の食事』『笛を吹く少年』
・モネ『印象・日の出』『睡蓮』(↑↑マネに影響を受けた)
・ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』

後期印象派
・セザンヌ『赤いチョッキの少年』『サン=ヴィクトワール山』
・ゴッホ(1853~1890)『自画像』『ひまわり』

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②音楽だって時代を反映する!
その時代を象徴する音楽、出来事を風刺する音楽

<19Cの音楽>
バロック音楽(17C初~18C半)・・自由でダイナミック
↓↓
ドイツ古典派音楽(18C後~19C初)・・整然とした形式美
・ハイドン
・モーツァルト
・ベートーヴェン(集大成)
↓↓
ロマン主義音楽・・
感情を込める。
・シューベルト『美しき水車小屋の乙女』

・ヴァーグナー(ワグナー)『ニーベルングの指輪』・・ゲルマン民族の物語。楽劇。ヒトラーが愛した。

ショパン(1810~1849)『革命』・・仏・七月革命の影響で、祖国ポーランドが独立を求めてロシアに反乱、鎮圧された。(1830)ロシアへの怒りを込めてこの曲を作った。


(3)哲学・社会主義思想
ポイント①人々が時代に合わせて取った思考プロセスとは
よりよく生きるための方法を生み出す

<19Cの哲学>
ドイツ観念論(批判する哲学)(カントが始めて⇒ヘーゲルが完成)
ヘーゲル 弁証法哲学
「全てのものはある部分から見れば正しい、ある部分から見れば間違っている。」→2つを統合した新しい考え方→また反対意見がある→レベルアップしていく

↓↓ ヘーゲルの考えを応用

史的唯物論
・・「歴史の動き方」に法則を持たせる
マルクス(独)
エンゲルスとともに歴史の発展法則(動き方)を探求→社会主義

功利主義・・利益主義
・ベンサム(英)「最大多数の最大幸福」多数決
↑↑(反対)
・ジョン=ステュアート=ミル(英)「幸福の中身・質にも注目」

実証主義
・コント(仏) 社会学の祖。科学的な方法を哲学に取り入れた。因果関係を見つけていく。

実存主義
・ニーチェ(独・哲学者)「神は死んだ」

ーーーーーーーーーーーーーーーー

ポイント②資本家と労働者の対立をなくすための社会主義
空想から科学へ・・資本主義の矛盾を追及

<19Cの社会主義思想>
資本家と労働者の対立をなくす考え方・・社会主義

空想的社会主義
・ロバート=オーウェン(英)・・社会主義(労働者を助ける)。工場法の制定に尽力。→優しさだけでは根本的な解決にならない。
↑↑(批判)
科学的社会主義
マルクス(独)、エンゲルス(独)・・『共産党宣言』「労働者は革命を起こして、工場から資本家を追い出して、利益は労働者で分配すればいい」「万国のプロレタリア(労働者)よ、団結せよ」


(4)科学・技術
ポイント①経済学にもさまざまな考え方が登場
イギリスに対抗するために生まれた経済学

<19Cの経済学>
(経済学)
歴史学派経済学
リスト(独)・・英に対抗して保護貿易を主張。英は自由貿易を求めてくるが、英の思うツボだ。関税をかけて独国内を守ろう。
ドイツ関税同盟の結成。ドイツ統一に尽力。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②歴史の研究や法学研究にも新展開
合理的に歴史や法を研究する姿勢
<19Cの歴史・法学>
(歴史学)
近代歴史学
ランケ 史料批判を通して実証的・科学的に史実を求める。→現在まで続く。根拠、分析。

(法学)
・サヴィニー「歴史法学」の創始
歴史、民族精神に基づく法律の制定
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント③世界の一体化が促進
地域をつなぐ電信・通信技術の発達

19Cの発明は現在まで直結。
<19Cの科学・技術>
(物理学)
・ファラデー・・電磁気学の発展
・マイヤーとヘルムホルツ・・「エネルギー保存の法則」を発見。ガソリンエンジン。
・レントゲン・・X放射線の発見。第1回ノーベル物理学賞。

(化学)
・キュリー夫妻・・ラジウム、ポロニウムなどの元素を発見。

(生物)
・ダーウィン・・『種の起源』進化論を発表。人は猿から進化した。

(医学)寿命が伸びることに貢献
・パストゥール・・狂犬病の予防接種
・コッホ(独)・・結核菌・コレラ菌を発見

(技術・発明)
・ノーベル・・ダイナマイトを発明。
・モース(モールス)・・電信機。モールス信号。
・ベル・・電話機。
・マルコーニ・・無線電信。
・エディソン(米)・・「発明王」。蓄音機(録音)。白熱電灯。映画(映写機)。


世界史タイトル一覧

 

 

 

【27】19世紀の欧米諸国(2)露・米

【27】19世紀の欧米諸国(2)露・米
(1)ロシアの南下政策
(2)ロシアの近代化とバルカン進出
(3)アメリカ合衆国の発展
(4)アメリカが抱えた問題
(5)南北戦争とその後

(1)ロシアの南下政策
ポイント①ロシアがこだわった南下政策とは?
なぜロシアは凍らない港を求めるのか

英に対抗するため産業革命を進めたい。お金が必要。
→麦などを輸出したい。農作物販路の確保を目指す

バルカン半島ルートが行きやすい・・
口実に
ギリシア正教徒の保護
パン=スラヴ主義
を掲げ、黒海・地中海へ
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②南下政策の本格化!
ギリシア独立戦争とエジプト=トルコ戦争

ロシア南下政策・両海峡をめぐる3つの戦争。
(有利になるように首をつっこむ)

[1]【ギリシア独立戦争(1821~1829)】
〇 ギリシア+英仏露+ロマン派文化人・英バイロン・仏ドラクロワ
VS
✕ オスマン帝国+エジプト(ムハンマド=アリー)

ギリシア独立達成。
ロシアがオスマン帝国に要求
ダーダネルス・ボスフォラス両海峡の自由通航権を獲得
(黒海の南西)

[2]【第1次エジプト=トルコ戦争(1831~1833)】
エジプト総督ムハンマド=アリーがシリアを要求→獲得
〇エジプト+英仏墺
VS
✕オスマン帝国+
→オスマン帝国に協力したので、要求する。
→露が両海峡を独占できるようになる。

[3]【第2次エジプト=トルコ戦争(1839~1840)】
エジプト総督ムハンマド=アリー
エジプトとシリアの世襲権を要求

エジプト+仏
VS
オスマン帝国+英露墺普

・ロンドン会議(1840)
エジプトはシリアを返還
その代わり→エジプト・スーダンの世襲権を承認

すべての外国軍艦が両海峡を通航することを禁止
→露も通れなくなった・・

「黒海ルート」が塞がれた・・


(2)ロシアの近代化とバルカン進出
ポイント①クリミア戦争がその後のロシアを変えた!?
ロシアの南下政策とそれを阻止する大規模な衝突

クリミア戦争】(1853~1856)
オスマン帝国が仏に聖地(イェルサレム)管理権を譲渡。
ロシア・ニコライ1世はギリシア正教徒の保護を口実に開戦。

ロシア ✕ VS 〇オスマン帝国+英仏サルディーニャ
↓↓
【パリ条約】(1856)
黒海の中立化
→南下政策失敗

皇帝アレクサンドル2世】(位1855~1881)
クリミア戦争に負けてロシアの遅れを痛感。近代化をめざす。
農奴解放令(1861)
農奴は解放。ただし土地は有償
↓↓
ミール農村共同体)シェアハウス
・ポーランド反乱(一月蜂起)←鎮圧
↓↓
アレクサンドル2世
「改革をすると他の民族が独立を求めてしまう。皇帝独裁に戻そう・・。」
↓↓
ナロードニキ(人民主義者)の活動。ナロード=人民
インテリゲンツィア(知識人)中心。平等社会をめざす。
スローガン「ヴ=ナロード(人民の中へ)」
→農民に理解されず。。失敗。徐々に過激に・・。
↓↓
アレクサンドル2世の暗殺
テロリズムの横行

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②バルカン半島へ方向を転換!
執拗に南下を試みるロシアの動き

南下政策を諦めない・・!今度は「バルカン半島」ルートだ。

ロシア=トルコ戦争(1877~1878)】
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの反乱←鎮圧
(↑スラヴ人が多い)
ロシア、パン=スラヴ主義を掲げて宣戦
ロシア〇 VS ✕オスマン帝国
↓↓
サン・ステファノ(講和)条約(1878)】
ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立
ブルガリアの自治権獲得(ロシアが保護)

↓↓ 「ちょっと待ったーー」by英・墺

ベルリン会議(1878)】
主催者:ビスマルク「誠実な仲買人(なかがいにん)」フェアに調整します。
【ベルリン条約(1878)】
(サン・ステファノ条約をやりなおす)
・ルーマニア、セルビア、モンテネグロは変更なし(=独立を承認)
ブルガリアの領土縮小(ロシアの保護廃止→単にオスマン帝国の自治領土になった)→ロシア通れなくなる・・

<さらにロシアを見張るため・・>
・ボスニア・ヘルツェゴビナ→が統治(後のWW1の原因へ・・)
キプロス島が統治

南下政策「バルカン半島」ルートも失敗。次はアジアだ・・。


(3)アメリカ合衆国の発展
ポイント①19世紀前半の大統領と合衆国の成長
初期の資本主義的な産業が成長する

【4代・マディソン大統領】(任1809~1817)
アメリカ=イギリス戦争(1812~1814)
第2次独立戦争
ナポレオンの大陸封鎖令に対抗して、英が海上封鎖。
→米の通商が妨害される。両国で開戦。
→米の商工業が育つようになる。英からの経済自立
保護関税政策・・米国内の初期産業を育成

【5代・モンロー大統領】(任1817~1825)
モンロー宣言(1823)
米欧の相互不干渉=孤立主義

7代・ジャクソン大統領】(任1829~1837)
ジャクソニアン=デモクラシー
白人男性だけに普通選挙権。(✕先住民、✕黒人、✕女性)

先住民強制移住法(1830)
先住民をミシシッピ川以西の荒地に強制的に移住
チェロキー族の「涙の道

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②領土を広げることは「神の思し召し」!?
西側へと領域を拡大する合衆国

【西部開拓(西漸(せいぜん)運動)(漸は「近づいていく」の意)
フロンティア(辺境)
アメリカ西部における開拓地と未開拓地の境界線

マニフェスト=ディスティニー(明白な天命)」当然である

西へ領土拡大
ルイジアナ買収
ミシシッピ川以西のルイジアナ
フランスより買収

フロリダ買収(1819) 5代モンロー大統領時
スペインより

テキサス併合
テキサス共和国がメキシコから独立
→合衆国に編入

・〇アメリカ=メキシコ✕戦争
カリフォルニア獲得。
↓↓
ゴールド=ラッシュ
カリフォルニアで金鉱発見
西側の人口が増える。

 


(4)アメリカが抱えた問題
ポイント①アメリカの北部と南部ではここまで違うの!?
南北間に生じた軋轢・・

・黒人奴隷問題

北部 南部
経済 資本主義的商工業 綿花プランテーション
(→英に輸出)
支持基盤 産業資本家・銀行家 大農園者(プランター)
貿易 保護貿易
(国内産業を育てたい)
自由貿易
奴隷制 反対
(工場で働いてほしい)
賛成
政治体制 連邦主義(中央集権)
政府強い
州権主義(地方分権)
政府弱い
政党 共和党 民主党

 

ポイント②奴隷州拡大の危機を迎える!
国内では奴隷賛成派・反対派で世論が二極化

自由州 VS 奴隷州
(奴隷NG) (奴隷OK)

ミズーリ協定(1820)
モンロー大統領
北緯36度30分以北:自由州
以南:奴隷州
州の数は同じが望ましい

↓↓ ミズーリ協定が破られる

カンザス・ネブラスカ法(1854)
自由州になるか奴隷州になるかを住民投票で決める。
カンザス州・ネブラスカ州は奴隷を使いたい・・
↓↓
共和党の結成(1854)
奴隷制反対運動
ストウ夫人『アンクル=トムの小屋』
(ハリエット・ストウ)


(5)南北戦争とその後
ポイント①アメリカの市民が殺しあう!?南北戦争の勃発!
奴隷制度の賛否をめぐる問題から内戦へ突入

南北戦争(1861~1865)
リンカン大統領(任1861~1865)共和党
奴隷廃止!を主張

南部諸州が合衆国より離脱
・「アメリカ連合国(連邦)」を建国
都:リッチモンド
反連邦主義、奴隷制擁護、自由貿易

・南軍の攻撃により開戦(1861)
初期は南軍が優勢

↓↓ それに対してリンカン大統領は・・

ホームステッド法(自営農地法)
公有地で5年間定住・開墾
→一定限度の土地を無償で与える
西部の開拓農民から支持

奴隷解放宣言(1863)
戦争目的の明確化。国際世論も味方にする(英仏はすでに奴隷廃止)

ゲティスバーグの戦い(1863)
最大の激戦地
人民の、人民による、人民のための政治」演説

・リッチモンド陥落(1865.4.9)
北軍の勝利

・リンカン大統領暗殺(1865.4.15)

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②19世紀後半のアメリカは急速に成長する!
国内の市場統合、鉄道の開通、労働力の確保

・黒人奴隷の解放
憲法修正第13条により奴隷制度の廃止
↓↓
黒人は北部の工場に行かず農場にとどまった
シェアクロッパー(分益小作人)となる
南部の土地制度

K・K・K(クー・クラックス・クラン)
テネシー州で結成された反黒人秘密結社

<経済状況>
・産業の急成長
北部主導で商工業が発達
資本主義の発達→第2次産業革命(1870年代)

アメリカ労働総同盟(AFL)の結成
(穏健的。熟練の労働者が意見を社長に伝える)

移民の増加→労働力不足を解消する
旧移民(1840~50)アイルランド系(ジャガイモ飢饉1845)、ドイツ系、アジア系
新移民(1880)東欧系

大陸横断鉄道の開通(1869)
東部・西部の結合
アメリカの政治的・経済的統一が進展

フロンティアの消滅(1890年代)
海外市場の確保を目指し、カリブ海や中国へ進出

英を抜いて世界1位に・・!

 


世界史タイトル一覧

 

 

 

 

【26】19世紀の欧米諸国(1)英・仏・伊・独

【26】19世紀の欧米諸国(1) 英・仏・伊・独
(1)イギリスの自由主義 世界No1!
(2)ヴィクトリア時代のイギリス
(3)フランスの政体変遷
(4)イタリアの統一
(5)ドイツの統一
(6)ドイツの発展
(7)ビスマルク体制


(1)イギリスの自由主義
ポイント①宗教で差別されることはない!
キリスト教徒であれば差別されることはなくなった

・アイルランド併合(1801)
カトリックが多い
↓↓
2つの法で宗教自由が達成
[1]審査法廃止(1828)
非国教徒(ピューリタンなど)も公職就任が可能に(カトリック教徒は除く
※「審査法」はチャールズ2世時のカトリック勢力に対抗して議会側が制定(1673)した。=イギリス国教会のみ公職に就ける法。
↓↓
[2]カトリック教徒解放法(1829)
オコンネル尽力。カトリック教徒も公職就任が認可

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②みんなが選挙に行けるための改革!
数回にわたる選挙法改正と選挙権の拡大

産業資本家の台頭
第1回選挙法改正(グレイ内閣)(1832)
腐敗選挙区の廃止
産業資本家に選挙権付与(労働者はまだ)
↓↓
チャーティスト運動(1830~1850末)
労働者の政治運動
人民憲章(ピープルズ=チャーター)
↓↓
第2回選挙法改正(1867)
都市労働者に選挙権付与
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント③自由な貿易を目指して!
イギリスの自由貿易主義体制の確立

19C英の産業資本家は自由貿易主義(体制)を望む

・穀物法の制定
地主保護のため輸入穀物に高関税。
→英国内の高い穀物を買わなくてはいけない・・。
↓↓
産業資本家は反発。(給料を上げないとダメだから)
↓↓
反穀物法同盟(1839)
コブデン、ブライト

さらに・・
ジャガイモ飢饉(1845~1847)
アイルランドで発生。餓死者も出る。
↓↓
ついに
[1]穀物法廃止(1846)

[2]東インド会社中国貿易独占権の廃止
→商業活動そのものも全面禁止
→民間の会社が貿易できるようになる。
(→中国にアヘンを売りに行く)

[3]航海法廃止(1849)
(「航海法」の制定はクロムウェル(1651)。自国か相手国の船のみに制限する法)

↓↓
これら3つで、自由貿易主義が完成。

 


(2)ヴィクトリア時代のイギリス
ポイント①当時のイギリスは世界一の国家
産業革命を完成したイギリスの繁栄

(イギリス)
【ヴィクトリア女王】(位1837~1901)64年
ヴィクトリア時代=「世界の工場
ロンドン万国博覧会(1851)
世界初。英の国力を見せつけた

パクス=ブリタニカ(イギリスの平和)
圧倒的な工業力と軍事力
世界に自由貿易主義を拡大

イギリス二大政党
自由党(旧ホイッグ党)】グラッドストン
・産業資本家・労働者の支持
・自由貿易主義、平和外交
・アイルランド自治に寛容

保守党(旧トーリ党)】ディズレーリ
・地主・貴族の支持
・保護主義、強硬外交
・アイルランド自治に否定的

ポイント②自由党と保守党の内閣
政策は違うけれど、目指すものは同じ

グラッドストン(自由党)】国内
教育法(1870)
学校を作った。投票の仕方などを教える。
労働組合法(1871)
第3回選挙法改正(1884)
農村、鉱山労働者に選挙権付与
注・✕アイルランド自治法案は「否決」される

ディズレーリ(保守党)】外交(強硬)
スエズ運河の支配(1875)
インド帝国の成立(1877)
ベルリン会議に参加(1878)

交代でバランスよく内外政策を進めた

 


(3)フランスの政体変遷

ポイント①念願の普通選挙!のはずが…
まとまらないフランスの第二共和政

(フランス)
二月革命(1848.2)で国王ルイ=フィリップが亡命
↓↓
【第二共和制】(1848~1852)
臨時政府(1848.2)
ルイ=ブラン
(社会主義者・・労働者や失業者の支援)
・男性普通選挙の公約
国立作業場(失業者対策)
↓↓
四月普通選挙
社会主義力の敗北(産業資本家、農民から反発)
国立作業場の閉鎖
↓↓
六月蜂起(暴動)→鎮圧
社会主義者、労働者が蜂起
↓↓
ルイ=ナポレオン
が大統領に
(ナポレオン1世の甥)
1851年クーデタ
武力で議会を解散。独裁体制に。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②皇帝政治の復活!?ナポレオン3世の登場
フランスをどのようにまとめたの?

第二帝政(1852~1870)
ナポレオン3世 大統領→国民投票で皇帝に
ボナパルティズム(統治体制)ボナパルト風=ナポレオン1世と似た
→全フランス国民の利害対立を利用し政権を維持(独裁)
国内は平和

(多くの対外戦争)
・クリミア戦争(1853~1856)
・アロー戦争(1856~1860)
・インドシナ出兵(1858~1867)
・イタリア統一戦争(1859)
メキシコ出兵(1861~1867)→失敗
プロイセン=フランス(普仏)戦争(1870~1871)
スダンの戦いに敗れ捕虜となる
↓↓
第三共和制へ・・

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント③第三共和制の時代
独裁者がいなくなったフランスはやはり・・

第三共和制(1870~1940)70年
臨時政府の発足
代表:ティエール→独(旧プロイセン)と休戦
独の条件を何でも飲む

↓↓ 弱腰に市民は反発

パリ=コミューン(1871)
労働者による自治政府→独と仏政府ティエールに弾圧される
「血の1週間」

初代大統領ティエール(任1871~1873)
第三共和制のスタート
しかし情勢は不安定・・


(4)イタリアの統一
ポイント①イタリア統一の難しさとは?
北部・中部・南部で異なる世界が展開

西のサルデーニャ王国が統一運動のメインとなる
北部:ロンバルディア・ヴェネツィア・南チロル(墺領)
中部:ローマ教皇領など(仏軍)
南部:両シチリア王国

※サルデーニャ王国領のサヴォイヤ、ニースは仏人が多い。

ポイント②統一運動の開始!
外交や交渉を駆使した巧みな統一方法

【サルデーニャ王国】(1720~1861)
国王:ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
首相:カヴール(現実主義・冷静)→巧みな外交

クリミア戦争参戦(露英仏VSトルコ)
英仏の要請→仏ナポ3世に顔を売った。。
サルデーニャの国際的地位が向上。

イタリア統一運動】(1859)
イタリア統一戦争(1859)
サルデーニャ王国 VS オーストリア
・北部ロンバルディア獲得(墺→伊)
↓↓
中部イタリア併合
中部には仏軍がいる。ナポレオン3世と交渉
→仏にサヴォイア・ニースを割譲。
→併合を承認される。
↓↓
・南部:ガリバルディ(千人隊・赤シャツ隊)(元青年イタリア)
両シチリア王国を征服
→サルデーニャに領土を譲る
↓↓
イタリア王国の成立(1861)
↓↓
カブール没→大きな戦争に便乗する戦略に変わる。
ヴェネツィア併合(1866)(墺→伊)
普墺戦争
(ビスマルクが事前に伊と同盟)
↓↓
教皇領占領(1870)(仏→伊)
普仏戦争

ポイント③イタリア統一後のトラブル!!
イタリアが抱えた問題をみる

「未回収のイタリア」
トリエステ
南チロル(墺領土のまま)
→墺 VS 伊 対立に・・


(5)ドイツの統一
ポイント①ドイツ統一の難しさとは?
キリスト教の宗派対立が大きな問題となる

キリスト教の宗派対立
・プロイセン王国+北ドイツ→プロテスタント
VS
・西南ドイツ→カトリック
西南ドイツの本音「プロイセンよりオーストリア(カトリック)にドイツ統一してほしい・・」

プロイセン「墺が負けたら今度は仏に泣きつくかもしれない・・その2つとくっつくのは邪魔したい。」

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②ドイツは「鉄」と「血」で統一する!?
プロイセン王国がドイツの統一にむけて動き始める

プロイセン王国の統一(プロテスタント)

国王:ヴィルヘルム1世(位1861~1888)
↓↓ 任命
首相:ビスマルク(任1862~1890)28年(ユンカー出身)
「鉄血政策」
→ドイツ統一は、宗教が違うので話し合いや多数決ではムリ。武器(鉄)と兵士(血)で、軍事的に統一するしかない・・。

ビスマルクのドイツ統一の3つの戦争
[1]デンマーク戦争(1864)
シュレスヴィヒ・ホルシュタイン(ドイツ人が多い)(デ→普)
墺を誘って戦う。普〇 VS デ✕
墺との共同管理をもちかけていたが・・やっぱり墺には管理させない(挑発)
↓↓
[2]プロイセン・オーストリア(普墺)戦争(1866)
普〇 VS ✕墺
↓↓
北ドイツ連邦を発足
プロイセンが盟主となってまとまる。西南ドイツは入らない。
「次は仏を討つ・・」

普墺戦争に敗れた墺は国の体制を変える・・
オーストリア=ハンガリー(二重)帝国
ハンガリーに自治を付与して昇格させた。その代わりスラヴ人が暴動を起こしたら一緒に鎮圧してもらうことを約束。

スペイン王位継承問題
普王ヴィルヘルム1世と仏が会談。
→ビスマルクは仏を無礼な態度だったと発表して挑発。
↓↓
[3]プロイセン・フランス(普仏)戦争(1870~1871)
ナポレオン3世 スダンで捕縛
普〇 VS ✕仏
仏が敗れたことで、西南ドイツは頼る相手がいなくなり、ドイツに組み込まれる。
↓↓
ドイツ帝国成立(1871)
ドイツ統一達成
(仏ヴェルサイユ宮殿にて)

(岩倉使節団 訪独1873)


(6)ドイツの発展
ポイント①ドイツ帝国の大いなる発展!
イギリスを猛追するドイツの工業化

ドイツ帝国(1871~1918)47年
皇帝:ヴィルヘルム1世
宰相:ビスマルク(任1871~1890)

連邦参議院
帝国各地の代表者。立法・条約。

帝国議会
全ドイツ25歳以上の男性普通選挙で選ばれる。予算の審議権。

普仏戦争→仏との講和条約(1871)
多額の賠償金とアルザス・ロレーヌを獲得(仏→独)
地下資源(石炭・鉄鉱石)豊富な鉱山地帯。
↓↓
第2次産業革命(重工業)
保護関税法
輸入品に関税。国内産業を守る。
→1880年代末、工業生産数は世界第2位!(1位は米)

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②「ドイツ国民」としての団結は超重要!
ビスマルクが徹底してこだわったこと

ドイツ国民の団結を揺るがすものはつぶす・・!
ドイツ「帝国の敵」を作る
[1]VS カトリック
・文化闘争
西南ドイツカトリック政党が反発
→ビスマルクは圧力をかける

【ビスマルクの社会政策】
[2]VS 社会主義勢力

ドイツ社会主義労働者党の結成(1875)
世界初の社会主義政党

社会主義者鎮圧法の制定
非合法とした。

労働者と資本家のけんかを止める。
「労働者は社会主義が守るんじゃなくて国が守るから!」
→疾病保険制度、災害保険法、養老保険法


(7)ビスマルク体制
ポイント①当時のヨーロッパは一触即発!?
問題を抱えていた国々とビスマルクの狙いとは?

[1]独 VS 仏
普仏戦争以降関係悪化・・(ドイツを許せない by 仏)

[2]露 VS 墺
バルカン半島をめぐり対立→ビスが三帝同盟で仲介

[3]伊 VS 墺
「未回収のイタリア」をめぐり対立→ビスが三国同盟で仲介

ポイント②目指すはフランスの孤立!
ドイツの安定のために外交述を駆使するビスマルク

ビスマルク体制】(1870~1890年代)
ビスマルク(独)は、仏に露や墺と手を組んでほしくない。
挟み撃ちされたくない。仏を孤立させたい。

三帝同盟(1873~1878)
ドイツ、オーストリア、ロシア

ベルリン会議(1878)
主催者:ビスマルク
露・墺がバルカン半島をめぐり対立
独は墺の要求を飲んだ。
↓↓
ロシアはいったん手を離す。

・独墺同盟(1879)

新三帝同盟(三帝協商)(1881~1887)
ドイツ、オーストリア、ロシアが再度手を結ぶ

仏と伊がチュニジア保護国をめぐってけんか。
↓↓
三国同盟(1882)
ドイツ・オーストリア・イタリア

・新三帝同盟の崩壊

再保障条約(1887~1890)
ドイツ・ロシアの秘密条約

「光栄ある孤立」
19C後半以降のイギリス

仏はビスマルクの思惑どおり、ひとりぼっちに・・

 


世界史タイトル一覧

;

 

 

【25】ウィーン体制の成立と崩壊

【25】ウィーン体制の成立と崩壊
(1)絶対王政時代への復帰
(2)ウィーン体制への反発
(3)ウィーン体制の動揺
(4)ウィーン体制の崩壊
1830七月革命、1848二月革命でウィーン体制は崩れていく・・


(1)絶対王政時代への復帰
ポイント①会議は踊る!されど進まず・・・
ナポレオン失脚後のヨーロッパ秩序の回復

絶対王政に戻そう

【ウィーン会議】(1814~1815)オーストリアの首都
メッテルニヒが主催(オーストリア外相→宰相)
オスマン帝国を除く全ヨーロッパ君主
→大国の勢力均衡を協議

理念を決めたのはタレーラン(仏外相)
正統主義・・フランス革命前の状態、絶対王政へ戻そう。領土・主権。

「会議は踊る。されど進まず」
各国の利害がぶつかって進展せず・・1年かけてようやくまとまる。

ポイント②フランス革命前のヨーロッパへ!
各国の領土変更と国家体制の変更

ウィーン議定書(1815)
<領土変更>
・イギリス・・セイロン島(蘭→英)、ケープ植民地(南ア)獲得
・ロシア・・ポーランド立憲王国の国王を兼ねる(ポーランド復活)
・プロイセン・・ラインラントを獲得
・オーストリア・・ロンバルディア・ヴェネツィア獲得→北イタリア
(19Cイタリア統一時のトラブルの種に・・)
・オランダ・・南ネーデルラント(ベルギー)獲得

<国家体制の変更(国の形の変更)>
ドイツ連邦の成立(盟主オーストリア)
「革命前に戻すなら神聖ローマ帝国復活じゃないのか・・?いや、どうせみんな皇帝の言うことは聞かない。それなら墺がリーダーでまとめよう。」
スイス永世中立(他国の戦争に干渉しない)
・フランス・スペイン・・ブルボン朝復活
・オランダ王国の成立

ポイント③ウィーン体制を支える2本の柱
各地の自由主義・国民主義を弾圧

ウィーン体制
革命前の絶対王政に戻す。市民が反発してきたらつぶす。2つの同盟
↓↓
1【神聖同盟】(1815)
アレクサンドル1世(ロシア皇帝)が提唱
「同じキリスト教同士、助け合おう(カトリックもプロテスタントも)」
・全ヨーロッパ君主参加
(不参加)
・英(英にとって不都合)
・オスマン(イスラーム)
・ローマ教皇(カトリックだから。プロテスタントはちょっと・・)

2【四国同盟】(1815)
・ヨーロッパの現状維持を目的
・英・露・墺・普の軍事同盟
途中で仏が加盟して五国同盟となる


(2)ウィーン体制への反発
ポイント①ヨーロッパで起きたウィーン体制への反発
自由主義運動・国民主義運動の頻発

4つの自由主義運動→全て失敗✕
[1]✕ブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)ドイツの自由を!
→オーストリア軍により鎮圧

[2]✕カルボナリ(炭焼党)イタリアの自由を!
→オーストリア軍の干渉により鎮圧

[3]✕スペイン立憲革命「憲法を作ってブルボン朝の王の力を制限しよう」→フランス軍の干渉で挫折

[4]✕デカブリストの乱(1825)ロシア「皇帝独裁反対!」
→新帝ニコライ1世により鎮圧

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ナショナリズム(国民主義)】→独立したい!
・〇ギリシア独立戦争(1821~1829)→成功
(当時、オスマン帝国領土。俺たちはトルコ人じゃない、ギリシア人だ!)英、仏、露も参戦。英バイロン、仏ドラクロワも応援。
→ロンドン会議(1830)
ギリシアの独立を国際的に承認
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ポイント②ラテンアメリカの独立
独立にあたってヨーロッパはどう対応したのか・・

【ラテンアメリカ】
ハイチ独立(1804)カリブ海の小さな国(仏の支配下)
ラテンアメリカで初の独立。黒人共和国。
トゥサン=ルベルチュール(黒人指導者)の独立闘争
ナポレオン軍により捕縛・獄死

シモン=ボリバルの活躍(ベネズエラ出身)
現地生まれの白人地主クリオーリョ(※自分たちの利益のために独立したので、その後も先住民は土地問題に悩まされる・・)
ナポレオンが暴れてヨーロッパが混乱。独立するなら今かも?
(スペイン支配下)ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ボリビア独立

サン=マルティンの活躍(アルゼンチン出身)
クリオーリョ
(スペイン支配下)アルゼンチン、チリ、ペルー

【その他】
・メキシコ独立 スペイン支配→イダルゴ神父の独立宣言
ブラジル独立 ポルトガル支配→ポルトガル王子が皇帝即位

ラテンアメリカ独立に際して、列強指導者の対応は・・
(墺)メッテルニヒ・・反対!独立運動の弾圧を企図→断念
(英)カニング・・賛成!ラテンアメリカをイギリスの製品市場にしたい
(米)モンロー・・賛成!米欧両大陸の相互不干渉 モンロー宣言(教書)→アメリカで起きていることに欧は口出ししないで・・とメッテルニヒを牽制


(3)ウィーン体制の動揺
ポイント①ブルボン復古王政と七月革命
復活した王朝への不満と革命の勃発

(フランス)ナポレオン失脚後・・
ブルボン復古王政】(1814~1830)
ルイ18世(位1814~1824)
↓↓
シャルル10世(位1824~1830)
反動政治の強化

・アルジェリア出兵(1830)
政治から外に目をそらせた

その間に絶対王政への復帰を急いだ・・
・未招集議会の解散(議会を開くと言いながら開かなかった)
・選挙資格の大幅制限
・言論・出版の統制を強化

↓↓そんなことはさせない!

七月革命】(1830)
市民が暴動を起こす。
シャルル10世は亡命、ブルボン朝は崩壊。
ルイ=フィリップの即位(オルレアン家)

ポイント②七月革命の影響
ヨーロッパ各地で起きたウィーン体制への反発

ヨーロッパの自由主義、国民主義

【七月革命の影響】
↓↓
・〇ベルギー独立
オランダから

・✕ポーランド蜂起
ロシア支配から離脱を求め蜂起→鎮圧
ショパン『英雄』。祖国ポーランドへの思いとロシアへの怒り)

・✕ドイツ反乱
各地で憲法が制定→鎮圧

・✕イタリア反乱
カルボナリが蜂起するもオーストリア軍により鎮圧
→カルボナリは解散
→「青年イタリア」リーダーはマッツィーニ

 


(4)ウィーン体制の崩壊
ポイント①金持ちしか相手にしてくれない!?
フランスの七月王政への不満と革命の勃発

七月革命によりブルボン朝が倒れ・・

七月王政(1830~1848)
ルイ=フィリップ
・極端な制限選挙
少数の銀行家・大ブルジョワジー(金持ち)の利益を中心とした政治
人口の1%未満しか投票に行けない

・産業革命の進展
中小産業資産家や労働者の登場(新しい階級の登場)
男性普通選挙を求めて、選挙法改正運動を展開

↓↓ パリ市民の不満が爆発。

二月革命(1848)
パリの労働者、学生、資本家による暴動。七月王政を打倒。

カール・マルクス(独)の影響
「万国のプロレタリア(労働者)よ、団結せよ!」

↓↓
第二共和制へ・・

社会主義者 ルイ・ブラン
労働者、失業者側の味方
国立作業場を作る→選挙で負けて後に閉鎖・・

ポイント②二月革命の各地への影響
ウィーン体制の完全崩壊と新たなヨーロッパへ・・

仏二月革命はヨーロッパ各国に大きな影響を与えた!
「諸国民の春」(1848年革命)

【二月革命の影響】
↓↓
ウィーン三月革命
→メッテルニヒ失脚。ウィーン体制の崩壊。

ベルリン三月革命
国王に憲法制定を約束
ーーーーーーーーーーーーーーーー

オーストリアは多民族国家
・✕ハンガリー民族運動
マジャール人(アジア系)がオーストリアから独立を求めた。
コシュートの独立宣言→鎮圧

・✕ベーメン(ボヘミア)民族運動
チェック人(スラヴ系)がオーストリアから独立を求めた。
プラハを中心に蜂起→鎮圧

ーーーーーーーーーーーーーーー

(独)【フランクフルト国民議会】→失敗
ドイツ統一と憲法制定を協議

大ドイツ主義✕ VS 〇小ドイツ主義
大ドイツ主義:オーストリア中心で独統一しよう
小ドイツ主義プロイセン中心で独統一しよう・オーストリアは除く(ドイツ人以外も住んでるから)
→小ドイツ主義が勝ったが、プロイセンの王が独統一を拒む。オーストリアに対して気まずいから。

(伊)【イタリア民族運動】
・サルデーニャ王国の統一運動→✕
・ローマ共和国の建国(青年イタリアのマッツィーニが自分たちの国を作ろうとした)→✕ルイ・ナポレオンにより鎮圧

(英)【チャーティスト運動
労働者の参政権要求。議会請願、デモ運動、ストライキの実施。

 


 

世界史タイトル一覧

 

 

 

【24】フランス革命とナポレオン

【24】フランス革命とナポレオン
(1)革命前夜の状況と革命の勃発
(2)国民議会と立法議会
(3)国民公会と総裁政府
(4)ナポレオン時代のはじまり(1799~1815)
(5)ナポレオン時代の終焉

・国民議会(立憲君主)王様はあり。ルールに基づく。
・立法議会(穏健共和)王様は不要。(緩く)
・国民公会(急進共和)王様は不要。(早く・独裁)
・総裁政府(5人。混乱)
(ナポレオン)
・統領政府(秩序の回復)
・第一帝政(大陸制覇)仏革命の理論を拡大


(1)革命前夜の状況と革命の勃発

ポイント①こんなフランスはおかしい!
アンシャン・レジームの矛盾と財政の危機

アンシャン・レジーム(旧体制)
第一身分:聖職者 (特権身分)免税 ↘
第二身分:貴族  (特権身分)免税 →人口の2%
第三身分:平民 98%
・富裕層(立憲王政)王様はいてもいい。法律に則ってほしい。
・中産階級(穏健共和)王様は要らない
下層階級(急進共和)王様は要らない。早急な改革を望む。
→小作人2000万人・都市労働者400万人。人口の90%

束縛はイヤだ
・啓蒙思想の普及。自由、平等。
・アメリカ独立革命の成功

ヨーロッパ内の戦争、植民地戦争、米独立戦争の支援など
↓↓
財政難

ポイント②革命前夜の財政改革
特権身分への課税を試みるも・・

【財政改革(ルイ16世・マリ=アントワネット)】
2人の改革
テュルゴー
重農主義。穀物取引の自由化、ギルドの廃止→失敗

財務総監ネッケル
特権身分への課税→猛反発

↓↓

三部会の再開(1789)170年ぶり
(1302年フィリップ4世が開く→1614年ルイ13世が停止)
身分別議決法(課税反対2・賛成1にしかならない)をめぐり紛糾。

シェイエス(下級聖職者)
『第三身分とは何か』・・特権身分を批判
(「全てだ」)

・第三身分の代表者が三部会から離脱
↓↓
・「国民議会」の開催(1789年6月)
球戯場(テニスコート)の誓い(1789)
「憲法制定まで解散しない!」

国王軍がヴェルサイユへ集まり始める・・


(2)国民議会と立法議会
ポイント①いよいよ革命のスタート
革命の初期は思いもよらぬ形で波瀾万丈・・

国民議会】(1789~1791)
立憲君主派が中心=王様はいてもいい。

<フランス革命スタート!>
バスティーユ牢獄襲撃(1789.7.4)
政治犯が収容。武器があった。
ネッケルの罷免と国王軍のヴェルサイユ集結に市民が反発。襲撃。
↓↓
しかし農民反乱を誘発してしまった。全国に広がる。
↓↓
国民議会はあわてて農民反乱をおさえようとする。
<2つの策>
[1]封建的特権の廃止
中世から続く諸々の税を廃止(領主裁判権、十分の一税、死亡税など)
※封建地代は有償廃止=「ただし土地代だけは払ってね。」
→このときの国民議会(立憲君主派)は地主が多いため。

[2]「人権宣言」の発表(1789)
革命の方向性を示す
貴族:ラ・ファイエットら起草(米独立戦争の義勇軍)
自由・平等

ポイント②革命の急進化!国王への信頼は下がり続ける↓↓
共和主義者の人気が上昇

ヴェルサイユ行進(1789.10)
パリの穀物価格高騰を受け、婦人らが雨中20kmを行進。
「パンが買えない!」
国王一家がヴェルサイユからパリへ連行される。

ミラボーの死去
国王と国民議会との裏取引役。王は不安に・・
↓↓
ヴァレンヌ逃亡事件(1791.6)
国王一家がオーストリアへ逃亡→失敗。国王の権威失墜・・!
→代わりに共和主義者の台頭。

ピルニッツ宣言(1791.8)
オーストリア皇帝とプロイセンが革命への干渉を諸国へ呼びかけ。
「仏王に手を出すな」と脅迫。
↓↓
国民議会はプロイセンとの関係を考え、憲法制定。

1791年憲法の制定
立憲君主政、財政資格選挙(金持ちのみ選挙)→国民議会の解散

 

ポイント③国王のいないフランスへ
共和制へ向けての移行と訪れた苦難

制限選挙(金持ちのみ投票)が行われる
↓↓
立法議会(1791~1792)】(穏健共和)

・議会内での対立
フイヤン派(立憲王政=国民議会)vs ジロンド派(穏健共和)

ジロンド派内閣の成立
王様には消えてほしいが、ピルニッツ宣言がある・・。それならまずオーストリアを倒す必要がある。

対オーストリア宣戦→フランスは劣勢
各地より義勇軍がパリに集結。

8月10日事件(1792.8)】(=テュイルリー宮殿襲撃)
・サンキュロット(都市労働者)や義勇兵が、仏国王のいるテュイルリー宮殿を襲撃。
・議会は裕福な人たちだから通らない。直接王に直談判。実力行使。
→立法議会は王権の停止を宣言。議会を解散。
普通選挙を約束して混乱を鎮める。

↓↓ 革命軍はやる気が上がって

ヴァルミーの戦い(1792.9.20)
仏革命軍が初めてプロイセン軍に勝利〇

 


(3)国民公会と総裁政府
ポイント①ついに初の男性普通選挙の開催
ジャコバン派政権の恐怖政治

初の男性普通選挙の結果・・
国民公会(1792~1795)】
ジャコバン派(急進共和派)
貧困市民・農民代表

ルイ16世処刑(1793)
第一共和政(仏初の王がいない状態)(1793~1804)

第1回対仏大同盟(1793~1797)
英首相ピットの提案
「他の国に広がらないようにフランス革命をぶっつぶそう・・」

それに対して国民公会は
・徴兵制の実施
→ヴァンデーの農民反乱(徴兵制は失敗)
山岳派(ジャコバン派の過激派)が急速に台頭

恐怖政治(1793~1794)
公安委員会に権力を集中
指導者:ロベスピエール
反対派はギロチンで処刑される。

封建地代の無償廃止
借りていた土地はただで農民のものになった。小作農→自作農に。
これで農民はもう満足してしまった。
<※人口の8割以上が自作農に→仏で産業革命が遅れる原因になる>

・最高価格令、革命暦(共和暦)、メートル法の制定

1793年(ジャコバン)憲法
男性普通選挙制、主権在民、人民の生活権、労働権
→混乱していて実施されず。。

テルミドール(9日)のクーデタ(1794.7)
ロベスピエール派の逮捕・処刑

 

ポイント②もう独裁はこりごり。リーダー5人の政府
右派・左派の攻撃をうけ動揺する政府

総裁政府(1795~1799)】
1795年憲法の制定
財産資格による制限選挙制の復活
5人の総裁による政府
→時間がかかる・・

王党派の反乱(フランス革命を抑えたい)(右派・保守)

バブーフの陰謀(左派)
私有財産の廃止を計画。共産主義のはしり。→処刑される

ナポレオン=ボナパルトの登場】
イタリア遠征
仏〇 VS ✕ オーストリア
→第1回対仏大同盟の崩壊

エジプト遠征
仏✕ VS 〇英
英のインドルートを邪魔しようと思ったが・・
→英提督ネルソンに敗北
第2回対仏大同盟の結成

フランス革命の敵であるオーストリアと英と戦ったので国民に人気が出る。
↓↓
ブリュメール18日のクーデタ(1799.11)
ナポレオン、総裁政府を打倒
→フランス革命の集結

<フランス革命はバスティーユで始まりブリュメール18日で終わる>

 


(4)ナポレオン時代のはじまり
ポイント①統領政府時代のナポレオン
国民からの人気を集めるための方法

統領政府(1799~1804)】
・リーダー3人の統領。ナポレオンは第一統領。事実上の独裁官。

ローマ教皇と和解
カトリック信仰を正式に復活。
(対立していた理由。フランス革命はキリスト教に敵対する革命でもあったから。第一身分が聖職者なので)

アミアンの和約
英との休戦条約
第2回対仏大同盟が崩壊
→フランスに平和が戻る
終身統領に。。

ナポレオン法典(1804)
私有財産の不可侵
、契約の自由などを規定
=フランス革命の成果を法的に保障した。
(ナポレオンの人気が一気に上昇!)

ポイント②皇帝に即位した英雄ナポレオンの動向
大陸制覇にむけての遠征をスタート

国民投票でナポレオンが皇帝に即位
第一帝政(1804~1815)
ナポレオン1世(位1804~1815)

周りの諸国が警戒
↓↓
第3回対仏大同盟(1804~1815)(英・墺・露)

トラファルガーの海戦 ✕
英提督ネルソンに敗北

アウステルリッツの三帝会戦
ロシア皇帝、オーストリア皇帝、仏ナポレオン皇帝が三つ巴。
仏勝利〇、ロシアオーストリアを撃破
第3回対仏大同盟が消滅

ライン同盟の結成(1806)
西南ドイツ諸侯とナポレオンの同盟
→神聖ローマ帝国消滅(1806)

大陸封鎖令(ベルリン勅令)(1806)
(プロイセンをぶっとばして、プロイセンの首都ベルリンで発布したので「ベルリン勅令」ともいう。)
→大陸諸国とイギリスの通商や交通を全面的に禁止。
「今まで英から買っていたものは仏から買いなさい」→他国を仏の市場にする

ティルジット条約
プロイセンは莫大な賠償金と領土の大半の割譲

 


(5)ナポレオン時代の終焉
ポイント①ナポレオンを追い出せ!
プロイセンの近代化改革とスペイン反乱

プロイセンはティルジット条約が許せない・・
↓↓
プロイセン改革】強い国にする!
首相シュタインハルデンベルク
農民解放
・行政機構の改革、営業の自由化など

「ドイツ国民に告ぐ」フィヒテ
「私たちはドイツ人なんだ。仏の支配はおかしい」
国民意識を人々に植え付けた。

スペイン反乱】(1808~1814)
ナポレオン兄が国王に即位
↓↓
農民が主体となってゲリラ戦で抵抗
(→絵画『1808年5月3日』ゴヤ)

 

ポイント②ナポレオンの没落までの道
各地で発生したナショナリズム運動

“ナポレオンの牙が折れる瞬間・・!”

ロシア(モスクワ)遠征(1812)
ロシアは大陸封鎖令を無視。英と貿易再開。
ナポレオン軍モスクワへ・・
→ロシアの焦土戦術により失敗
60万の軍が壊滅・・
↓↓
【ナポレオンの失脚】
ライプツィヒの戦い(1813)=諸国民戦争
ヨーロッパ連合〇 VS ✕ナポレオン
ナポレオン皇帝退位
エルバ島へ流刑。(実家コルシカ島のすぐ北)
↓↓
ブルボン朝の復活(1814)
絶対王政に戻りそうになる・・
→ナポレオン、エルバ島を脱出
パリに帰国、皇帝に復位
↓↓
ワーテルローの戦い(1815)
ヨーロッパ諸国が攻める。
ナポレオン再退位
セントヘレナ島へ流刑(アフリカの西)

※ナポレオンの侵攻により国民意識(ナショナリズム)が芽生えた。「自分たちはドイツ人、スペイン人。フランス人は嫌だ」

 


 

世界史タイトル一覧

 

 

【23】アメリカ世界の成立

【23】アメリカ世界の成立
(1)アメリカ13植民地の苦悩
(2)アメリカ独立戦争
(3)アメリカ合衆国の政治体制
米英関係良好→英・戦争で財政難→米に課税→米不満→独立戦争へ


(1)アメリカ13植民地の苦悩
ポイント①13植民地は「イギリス人」が生活する場所
政治的・経済的状況をみる

イギリスからアメリカへ移る(17C頃)
当初、英と米との関係は良好。

【13植民地(17~18C)東海岸
ヴァージニア植民地(南部)
最初の植民地。英ステュアート朝ジェームズ1世時。(※エリザベス女王時は失敗。)

ニューイングランド植民地(東北部)
ジェームズ1世に迫害されたピューリタン(ピルグリム=ファーザーズ)がメイフラワー号で渡航しプリマスに入植。例はマサチューセッツ植民地など。

ニューヨークの獲得
英が蘭の町ニューアムステルダムを奪って改名。

・ペンシルヴェニア
クウェーカー教徒

・ジョージア

13植民地の西隣には仏植民地がある

英風の政治、文化など
・植民地議会
イギリス議会を手本に13植民地それぞれに設置

・プランテーション(大農園)
米南部。黒人奴隷。商品作物を英に輸出。

ポイント②イギリス本国が13植民地におこなった理不尽
次第に反発を強める13植民地の人々

英と米の関係が悪化していく・・

本国イギリスは、重商主義政策
輸出先を増やしたい。VS仏。
↓↓
フレンチ・インディアン戦争(1755~1763)
仏と先住民は撤退。13植民地のライバルがいなくなった。
イギリス本国は財政難に→北米植民地への課税を強化

印紙法(1765)
書類・刊行物(新聞、教科書、婚姻届)など
「代表なくして課税なし」
(=「英本国に議員を送ってないのに、何で課税されるんだ」)
→印紙法は廃止

茶法(ちゃほう)(1773)
英の東インド会社の販売する茶は免税。(英の会社だけに有利)

↓↓  米市民が反発

ボストン茶会(ちゃかい)事件(1773)
Boston Tea Party(Tea Partyを「茶会」と誤訳したが、本当はPartyは「仲間」という意味。茶法に反対した人々が起こした事件。)
先住民に変装し、英の茶を海に捨てる。

↓↓
英はボストン港を閉鎖
マサチューセッツ植民地自治を剥奪

↓↓
独立戦争へ・・


(2)アメリカ独立戦争
ポイント①いよいよ衝突!13植民地の独立戦争
イギリス本国軍と13植民地軍の衝突

第1回大陸会議(1774)
開催地:フィラデルフィア
不当な課税を拒否。13植民地の通商断絶同盟の結成。
↓↓
アメリカ独立戦争(1775~1783)
レキシントンの戦い(1775)
最初の戦い。レキシントンやコンコードにて。
↓↓
第2回大陸会議(1775)
開催地:フィラデルフィア
植民地軍総司令官に、ワシントンが就任

しかし13植民地全体では意見がバラバラ・・(各3割ずつ)
国王派・・イギリス本国を支持
中立派・・戦争には否定的
愛国派・・独立支持派
↓↓
一つになろう!
2人のトマスが独立の機運を高める。

・『コモン=センス(1776)(『常識』)
トマス=ペイン
独立の正当性と共和国建設の必要性を訴える

・「独立宣言1776.7.4
起草:トマス=ジェファソン(3代大統領)
ロックの自然法思想に基づき「基本的人権」の尊重、「革命権」を主張

 

ポイント②戦局の転機!アメリカの独立成功!
次第に反発を強める13植民地の人々

13植民地を支援する国々の登場
フランクリン(駐仏大使)
仏や各国に支援を求める

・サラトガの戦い(1777)
植民地軍が本国軍に勝利
↓↓
フランス、スペイン、オランダが植民地軍側で参戦

武装中立同盟
ロシア・エカチェリーナ2世の提唱。参加しない。
露、普、スウェーデン、ポルトガル、デンマーク
→英は味方がいない。国際的に孤立。
→米の独立を間接的に支援

義勇兵の13植民地支援(ボランティア兵)
コシューシコ・・ポーランド出身、ワシントンの副官。
ラファイエット・・フランス出身

ヨークタウンの戦い(1781)
植民地・仏連合軍の勝利が確定。最後の戦い。

(独立はレキシントンで始まりヨークタウンで終わる。)

パリ条約(1783)】
・英は米の完全独立を承認
・独立と同時に「ミシシッピ以東ルイジアナ」を英から獲得。

 


(3)アメリカ合衆国の政治体制
ポイント①アメリカ合衆国憲法をめぐる対立
各州と政府の関係をどうするか・・

独立後のアメリカは・・
アメリカ連合規約で制定

国名:アメリカ合衆国
各州で自治。政府は見守る程度で弱い
独自の憲法、議会を持つ13州の連合体。
↓↓
しかしバラバラになってしまった。。

↓↓ 見直し。国としてまとまろう。

憲法制定会議(1787)フィラデルフィア
議長ワシントン
もう少し13州の結びつきを強めよう。
↓↓
アメリカ合衆国憲法」が作られる。
アメリカ連邦政府の権限を大幅に強化。中央集権的。
政府は強くなる。政府は「見守り」から⇒「統率」になる。

・徴税権、通商を規制。

・一方で各州には自治権も与える

三権分立
立法権(議会)、行政権(大統領)、司法権(裁判所)
互いに独立して監視する。
近代的な憲法。仏・啓蒙思想家モンテスキューの影響。

対立トラブル
・連邦派・・政府強い。通商重視、親英的⇒共和党(トランプ)
・反連邦派・・政府弱い。農民、商工業者⇒民主党

 

ポイント②合衆国の初期の大統領
アメリカの発展はここから始まった

3人の大統領の時代に米発展の礎が築かれる

【初代・ワシントン大統領(任1789~1797)】
独立戦争の司令官
・国務長官ジェファソン(反連邦派)(3代)
・財務官ハミルトン(連邦派)
バランスを取った。

【3代・ジェファソン大統領(任1801~1809)】
反連邦派の初の勝利
・ミシシッピ川以西ルイジアナを買収(1803)→領土を西に拡大
(川以ルイジは独立時1783に獲得)

【4代・マディソン大統領(任1809~1817)】
アメリカ=イギリス戦争(1812~1814)
第2次独立戦争

・英が海上封鎖で米の通商を妨害(政治的、経済的に妨害)
この間、英米間の貿易が止まる。
↓↓
米の経済的自立が促進(米国内で自立)

保護関税政策(1816)
米国内の初期産業を育成。
英の安い製品をシャットアウト。
⇒米がここから産業発展していく。

 


 

世界史タイトル一覧

 

 

 

【22】イギリスの市民革命

【22】イギリスの市民革命
(1)国王と議会の対立
(2)クロムウェルの独裁と王政復古
(3)議会政治の完成と産業革命の始まり
(4)産業革命
(5)産業革命が社会に及ぼした影響


(1)国王と議会の対立
ポイント①イギリスの伝統を守らない王の登場
ステュアート朝の成立と議会の対立
=================
(ステュアート朝)
・ジェームズ1世(祖父)
・チャールズ1世(父)✕処刑
・1649 ピューリタン革命
・チャールズ2世(兄)
・ジェームズ2世(弟)亡命
・1688 名誉革命
=================
エリザベス1世没でテューダー朝が途絶える・・
↓↓
ステュアート朝を創始(1603~49、1660~1714)
ジェームズ1世】(位1603~1625)
スコットランド王で英王を継承。

・英の伝統を無視。専制政治。王権神授説。
→議会の不満

イギリス国教会の強制
→ピューリタン(カルヴァン派)の不満
→ピルグリム・ファーザーズとなり北米へ渡る(1620)

チャールズ1世】(位1625~1649)
ジェームズ1世と同じ専制政治・・

議会は「権利の請願」を提出。
課税の議会同盟や不法逮捕の禁止
→議会を強制的に解散させる(11年議会がない)

スコットランドの反乱
チャールズ1世がスコットランドにもイギリス国教会を強制したため。
↓↓
・短期議会の招集(1640)
鎮圧費のため増税を提案。3週間のみ。議会の反発で解散。スコットランドを鎮圧できず。
↓↓
・長期議会の招集(1640~1653)
スコットランドへの賠償金支払いの増税。
王党派と議会派の対立。

ポイント②ついに勃発!ピューリタン革命
国王を処刑し圧政から解放されたイギリス市民

ピューリタン革命(1640~1660)】
王党派・・貴族、特権商人
VS
議会派
長老派・・立憲王政(王はいてもいいがルールにのっとってほしい)
独立派・・制限選挙の共和制(王は不要)
水平派・・普通選挙の共和制(王は不要)

内乱の開始(1642)
王党派優勢
↓↓
クロムウェル(ピューリタン)率いる議会派独立派)の台頭
↓↓
1645 ネーズビーの闘い
議会派の勝利
チャールズ1世処刑(1649)

共和制が始まる・・!


(2)クロムウェルの独裁と王政復古
ポイント①イギリス史上最初で最後の共和制!
市民は圧政から解放されて生活できるハズだった・・

英・共和制(1649~1660)11年
クロムウェルの独裁

アイルランド征服(1649)
王党派の討伐を口実。イギリス人地主へ土地を分配。アイルランド人の小作人化が進む。

スコットランド征服(1650)
残存する王党派を討伐

航海法(1651)
英への輸出入は自国船か相手国船に限定。
→オランダの中継貿易(転売)を閉め出す。
第1次イギリス=オランダ戦争(1652~1654)
英の勝利。海上覇権を得る。

護国卿に就任(1653)
議会を解散。軍事独裁政治を断行。
ピューリタンは清貧。市民の娯楽も禁止される。
→不満がたまる・・

ポイント②スチュアート朝の復活
クロムウェルの死後、国王の支配が復活

クロムウェルが亡くなり・・
兄【チャールズ2世】(1660~1685)
王政復古。亡命先のフランスから帰国。
専制政治とカトリックの復活。(仏ルイ14世に影響される。)

議会は2つの法律王に対抗する
↓↓
(1)審査法(1673)
公職就任者をイギリス国教徒のみに限定する。
(ピューリタンはクロムウェルの影響で不人気)

(2)人身保護法(1679)
国王による不当な逮捕、拘禁の防止

議会の仲間割れ。
王の弟ジェームズ2世への王位継承で議会が分かれる。

トーリ党保守党の前身)・・賛成(今までのトーリに保守)
ホイッグ党自由党の前身)・・反対

多数決でトーリ党が勝つ
↓↓
弟【ジェームズ2世】(1685~1688)
カトリックを保護専制政治の強化
↓↓
名誉革命(1688~89)
(流血さわぎにならなかったため名誉という)

国王に出ていってもらうことを議会が決定!
オランダ総督(オラニエ公ウィレム3世)と妻メアリ(ジェームス2世の娘。スチュアート朝)を国王として招致。
(※オラニエ公ウィレム1世はオランダ独立戦争を率いた人)
↓↓
ジェームズ2世亡命
ようやく専制政治を追放・・!

 

ポイント③国王は議会に歯向かえない
名誉革命で完成したイギリス立憲政治

夫婦の共同統治
【ウィリアム3世】
【メアリ2世】
・「権利の宣言」(1689)
議会の承認による課税、恣意的な逮捕の禁止など

・「権利の章典」(1689)
権利の宣言を成分化。立憲政治の出発。
=イギリスの王は議会に刃向かわない

アン女王】(位1702~1714)
大ブリテン王国の成立(1707)
同君連合だったイングランドとスコットランドが合併。

アン女王没でスチュアート朝はとだえる・・

 


(3)議会政治の完成と産業革命の始まり
ポイント①「王は君臨すれども統治せず」
現在まで続くイギリス国王の地位を象徴

アン女王の死=スチュアート朝の断絶
ハノーヴァー朝(1714~1901)

ハノーヴァー選帝侯(ドイツ出身)
ジョージ1世(位1714~1724)
国王は英語を話せず政治に無関心。。旅行ばっかり。。
↓↓
内閣の成立(=王に代わって政務を担当する組織)
議会内の多数党によって組織

内閣「議会」に対して責任を負う(=責任内閣制
(※「王」に対してではない)

例:内閣が政治に失敗した。議会に「内閣やめろー」と言われたやめなくちゃいけない。

ウォルポール(任1721~1742)(ホイッグ党)
イギリスの初代首相。
「王は君臨すれども統治せず」

ポイント②なぜイギリスは世界初の産業革命をむかえたのか

ハノーヴァー朝の成立期に産業革命の条件がそろってくる。

3つの要素
資本の蓄積(お金)
市場の確保(市場)
労働力の確保(人)

[1]「資本」の蓄積
・中世からの伝統的な毛織物業の発達→輸出してお金が蓄積されていた
綿織物(キャラコ)(インド産)
軽くて洗える。染めやすい。楽しみやすい。→需要が高まる。
イギリス国内で作れないか・・?
安くて質の良い綿製品が作れたらいいのでは?

[2]「市場」の確保
・仏との植民地戦争の勝利。北米・インドで植民地を獲得
・綿花などの原材料、商品作物を栽培させ、イギリスへ輸出させる。売りに行くこともできる。

[3]「労働力」の確保
第2次囲い込み(エンクロージャー)18~19C
政府主導。合法的に共有地・耕作地を柵で囲い込む。
↓↓
・ノーフォーク農法(近代農法・農業革命
牛や豚の飼料(かぶ、クローバー)(地力回復)と人間用の大麦、小麦を作る。次の年は場所を入れ替えていく。
→農作業の人手が要らない

大量の失地農→都市へ流入し工場労働者となる。

あらゆる要素がイギリス産業革命を支えていく


(4)産業革命
ポイント①まずは綿工業からスタート!
需要の高い綿製品を安く丈夫につくる工夫

綿工業

大量に作る。同じ品質。
<機械>
(織機・しょっき)布を織る。糸から綿製品を作る。
ジョン=ケイ・・飛び杼(1733)
↓↓
(紡績機)細くて丈夫な糸を作る。
ハーグリーヴズ・・ジェニー紡績機
アークライト・・水力紡績機
クロンプトン・・ミュール紡績機(完成)
↓↓
カートライト・・力織機

・ホイットニー(米)・・綿繰機(わたくりき)。綿花の種を切り離す機械。

ポイント②機械を動かす動力の開発!
人間・牛・馬よりもはるかに強い「力」を開発
<動力>
蒸気機関)物を燃やして生まれる熱を使って動かす。
ニューコメン 蒸気機関
ワット(↑蒸気機関を改良。あらゆる機械の動力となる可能性を開く。完成させた)

(鉄工業)
コークス製鉄法 ダービー父子
固い鉄が作れるようになった。石炭の不純物を除外→高温燃焼が可能。

交通革命
蒸気船
フルトン
初の大西洋横断に成功。今までは風だったが、自力で進める。

蒸気機関車
スティーヴンソン
試運転 ストックトン~ダーリントン間(1825)
営業運転 マンチェスターからリヴァプール間(1830)
→作ったものをすぐ港に運んで輸出できる。

 


(5)産業革命が社会に及ぼした影響
ポイント①イギリスの産業革命は社会そのものを変えた!
産業革命をむかえた国の宿命

産業革命によって「資本主義体制」が確立
↓↓
3つのトラブル
[1]資本家と労働者の対立
産業資本家(経営者)の台頭
対立
資本家(生産手段の所有者)VS 労働者(プロレタリアート)

[2]都市への人口集中
マンチェスター 綿工業
バーミンガム 製鉄業・機械工業
リヴァプール マンチェスターの外港
農村部の人口減少

[3]労働問題
・女性・子どもの労働(ベテランが要らないため)→賃金低下

機械うちこわし運動
ラダイト運動(1811~17)イングランド中・北部
手工業者・労働者たちの暴動

世界の工場」としての地位を確立(1850年頃の英)
加工貿易の形を取る。世界から原材料を得て世界各地へ売る。

ポイント②欧米諸国も産業革命を開始!
イギリス製品に対抗するためには産業革命を起こすしかない!

英は機械を輸出する(1825)
↓↓
【先発産業革命】
・ベルギー(1830)
・フランス(1830~1860)遅い。緩慢。→フランス革命に理由がある。農民

【中期産業革命】
・ドイツ(1840~)重工業
・アメリカ(1830~)労働力不足→南北戦争後、国内市場統合

【後期産業革命】
・ロシア(1861~)資金が不足。仏の資本を導入し1890年代にようやく本格化。
・日本(1870~)
明治政府。殖産工業政策。
日清戦争後→綿織物(軽工業)
日露戦争後→重工業


 

世界史タイトル一覧

トライ世界史【14】東アジア世界の展開 □⇒